いってらっしゃい

作:南文堂
絵師:地駆鴉さん




「それじゃあ、そろそろ行くよ」
 履き慣れない革靴を、日頃使いもしない靴べらを使って履き、玄関に置いておいたボストンバックを軽々と持ち上げて肩に担ぐと、俊一は後ろを振り返った。
「くれぐれも、会社の皆さんにはよろしく言うんだよ。あ、それから、身体には気をつけるんだよ。生水なんか飲んだらダメだよ。あんたは小さい時からお腹が弱いんだから。小学校の時も――」
「もういいよ、母さん、その話は」
 苦笑を浮かべながら話の腰を折った。何度も聞かされた昔話を玄関先でもう一度聞く気はなかった。腰を折られて少し不満顔の母親は、まだ諦めてはいなかった。
「それから、面倒だからと言って、コンビ二のお弁当だけで済まさずに、栄養のあるものをちゃんと摂るんだよ」
 コンビニの関係者が聞けば怒るようなことを彼女は大真面目に、本当に心配そうに訴えてきた。
「わかった。気をつけるよ。もう俺も子供じゃないんだから、心配ないでくれよ」
 ますます、苦笑いを濃くして、俊一は応えた。
「親にとって、子供はいつまでも子供なのよ」
 何を言っているのと言わんがばかりに、彼女は胸を張った。小さな身体が大きく見える。子供にとっても、親はいつまでも親なんだなと改めて納得していると、
「それに、なんたって、お兄ちゃんだものね。心配するなって言う方が無理だよ」
 頭上から声がして、俊一らがわずかに視線を上げると、赤みがかった髪をツインテールにした中学2年ぐらいの少女が玄関脇の階段の中段に立っていた。
「へいへい。どーせ、俺は早苗ほどしっかりしてないよ」
 俊一のふてくされた台詞を軽く聞き流して、少女は軽やかに階段を駆け下りて、母親の脇に立った。
「ま、あたしぐらいとは言わないけど、あたしの半分ぐらいはしっかりしないと、せっかく就職したところ、クビになっちゃうよ」
 俊一は「気をつけるよ」と答えると、玄関から出ようとする気配を醸し出した。
「休みには、お盆には帰ってくるんでしょ?」
 それを察知してか、母親は呼び止めるように話題を繋げた。
「うーん、どうかな? わからないよ。帰ってくるのも、結構お金がかかるからね」
「それぐらい、お母さんが出すから、帰ってきなさい」
「母さん。俺も子供じゃ――働けない子供じゃないんだから、錦を飾るとまでは言えないけど、故郷に帰ってくるぐらいのお金は自分のを出させてよ。それぐらいのプライドはあるから」
「でも――」
「俺は高校、大学と行かせてもらって、もう充分、すねをかじったから、早苗の分までしゃぶったら、早苗に恨まれるよ」
 何か言いかける母親を遮って、早苗の方へ片目を瞑って見せた。
「あたしは……」
「しっかり稼いで、楽させるとまでは言えないけど、夕飯のおかずが一品ぐらい増える程度は稼ぐつもりだから、増やす献立を用意しててくれな」
 これまた、何かを言いかける少女を抑えて、冗談っぽく続けた。
「俊一は言い出したら聞かないからね。わかりました。でも、いくら、お金を送ってもらっても、親は子供の元気な顔を見るのが何よりも嬉しいんだから。頑張っても、無理しちゃダメよ」
 母親は少し嬉しそうに、そして、ちょっと寂しそうに微笑んだ。
「うん。わかった。それじゃあ、いってきます」
 素っ気ない別れの挨拶をして、玄関の引き戸を開けた。それと同時に、早春の風がふわりと家の中に吹き込み、冷たさの中にも、ほんの少しの緩むような暖かさを感じた。
「いってらっしゃい」
 後ろから聞こえる母親の声に、鼻の奥に何かが膨らむような感じを必死に抑えながら、俊一は振り返って微笑み返して、二十年暮らした家を後にした。

 俊一は家を出て、田んぼの真中を貫く農道を歩きながら、ちょっとだけ感慨深い気分に浸っていたが、すぐにこれからのことへの不安と期待の入り混じった微妙な未来予想図が、頭の中に春霞の向こうに見える山並みのように浮かんで、なんとも複雑な気分になっていた。
「お兄ちゃん!」
 曖昧な気分をぶち壊すような聞きなれた声に俊一は振り返るとそこのには、想像していた通りの人物が立っていた。
「早苗。なんか用か?」
「なんか、用かって、ずいぶんね。あたしは、お兄ちゃんを、見送りに、来たのに」
 走ってきたのだろう。息が切れ切れであったが、それも数度の深呼吸で落ち着いたのか、もう、ケロリとしていた。
「さっき、見送られたつもりだけど?」
「気がつかなかった? あたしは『いってらっしゃい』って言ってなかったでしょ」
「挨拶もまともに出来ない不憫な妹と思って気がついていたよ。で、わざわざ、それを言いに来たのか?」
「せっかくだから、バス停まで送ろうと思ったのっ。門出を見送ってくれる彼女のもいない、一人寂しい旅立ちじゃあ、あまりに不憫で可愛そうな兄と、心優しい美しい妹が、それなら、せめて華を添えてあげようと思って、追いかけてきたっていうのに」
「心優しい美しい妹? おかしいな? 俺には美しい妹なんていないんだが? 母さん達、頑張ったのかな?」
「な、なに下品な冗談言ってるのよ! オヤジよ、おやじ! セクハラで訴えられるわよ!」
「何かと言えば、すぐにセクハラだなぁ。で、俺に彼女のいない原因の一部を担っている可愛い妹君は、その責任を感じて、見送りにきたと」
「原因は、お兄ちゃんじゃない。人のせいにしないでよ」
「そうか? 家に連れてきた彼女を小姑みたいに文句を受けていたのは誰だっけ? やれ、化粧が濃いだの、服がケバイだの、動きが鈍いやら、性格が悪いとか……」
「でも、あたし、嘘ついてないもん」
「そうだったな。でも、欠点を人前で言われて、面白い人はいないぞ。言うときは気をつけないと、そのうちひどい目に会うぞ」
「……だけだもん」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、何にも。でも、結局、別れちゃうんだもん。あたしのせいじゃないもん」
「確かにな」
 ほとんど早苗が指摘したことが原因で別れているのは早苗には秘密にしているが、同性ゆえの観察力かと舌を巻く思いであった。
「だから、お兄ちゃん! 都会に行ったら、あたしはいないんだから、変な女に騙されちゃダメだよ」
「おいおい。俺はそんなに不甲斐ないか?」
 苦笑を浮かべて俊一は早苗に反論した。
「お兄ちゃんって、昔っから……だから、心配なのっ」
 何か言うに憚れたのだろうか、言葉を濁して早苗は怒ったように言うと、ぷいとそっぽを向いた。
「心配してくれて、ありがとう。ふう、確かに俺はどうも、女運が悪いみたいだからな」
 ろくな女の人に惚れない自分を嘲笑った。それらの事を思い出すと気分が二割ぐらい沈み込む。
「……えーとね、運が悪い時は、こう言うんだって、『だって南文堂のキャラだもん。しょうがないよ』って」
 漫画なら顔に青い縦線が入る兄を見て、慌てて妹はフォローを入れた。
「なんだそれ?」
 突拍子もない言葉に不思議そうに聞き返した。
「しらなーい。そう言うと、なんとなく納得するんだって。神崎さんが言ってたの」
「ふーん、いろんなものが流行っているんだな。『十年一昔』とか言ったが、今じゃ、せいぜい、『三年一昔』ってところかな?」
「なんか、お兄ちゃん、じじくさーい」
 からかうように笑いながら赤い髪を揺らした。
「へいへい、俺はどーせ、年寄りですよ」
「拗ねない、拗ねない♪」
 肩を落として歩く俊一の背中をポンポンと叩く早苗に、お返しとばかりに彼女の頭を「こいつ」と、ぽんぽんと軽く叩き返した。
「もう子供扱いしないでよ!」
 叩いている手を払いのけるようにして不満顔を作った。
「俺にとっては、早苗はいつまでたっても子供みたいなもんなんだがな。赤ん坊の頃はオムツも替えてやったからな」
「っ! お兄ちゃん!」
 早苗は真っ赤になって怒鳴った。結構、物心ついてからもお風呂にも入れてもらっていた。今思うと恥ずかしい事が数々、早苗の脳裏をフラッシュバックしていた。
「ふふふ、早苗のいろいろと恥ずかしい話はちゃんと覚えているぞ。父さん、母さんも知らないことも知っているぞ」
 それの追い討ちをかけるように俊一は勝ち誇ったように断言した。早苗の憶えている事などは氷山の一角で、その下の記憶の海に隠れた数限りないエピソードを案じさせて、早苗の顔色は赤から青へと変わった。
「それを誰かに話したりしたら、絶対、ぜーたい、許さないんだから!」
 ちょっと涙目になりながら訴える妹を兄は優しく微笑んで、
「誰が言うか。俺の可愛い妹の面白い話は俺だけのものだ」
 そう言って、優しく頭を撫でてやった。
「……お兄ちゃんって、しすこん?」
「年の離れた妹を持つ兄は誰しもシスコンなのだ。ここはテストに出るから、覚えておけ」
「何のテストよ、なんの?」
「人生♪」
「じゃあ、落第しているお兄ちゃんのアドバイスなんて当てにはならないわよ」
 妹はここぞとばかりに兄へと反撃を開始した。
「うっ、痛いところを……でも、人生、まだまだこれからさ♪ 明日がある♪」
「楽天的よね、お兄ちゃんって」
「その方が楽しいからな。悲観的に悩んで解決するなら、いくらでも悩むが、実際、悩んでいてもはじまらない事が多いからな」
「それも人生のテストに出るの?」
「さあ? これはまだ解答は出てないからな。自分で解け」
「ケチ」
「自分で解かないと身にならないんだよ。だから、人類は何千年も同じことを繰り返しているんだ」
「難しいこと言っても、お兄ちゃんだから説得力も、感銘もないよ」
 早苗は苦笑いを浮かべて、ちょっとだけ真面目な顔の兄を茶化した。
「あちゃ。それは手痛い」
 売れない落語家のように自分の額をぴしゃりと叩いて、ちらりと早苗の方を見た。
「……もしかして、同じことを繰り返すとから『停滞』で、それと洒落とか言ったら、駄洒落おやじと言ったげる」
「なかなか出来がいいと思ったんだがな」
「30ってん」
「ふう。及第点には程遠い」
「お兄ちゃんの駄洒落ってわかりにくいから、あんまり、会社で言わない方がいいと思う。浮いちゃうよ」
 そんな事を心底、心配顔で言われて俊一はかなり傷ついたが、「善処します」と答えて笑っていた。
 そこでふと、会話が途切れて、しばらく無言で春の風に吹かれながら誰も歩いていない農道を二人で歩いていた。
 たどたどしい鳴き声のうぐいすが山間から聞こえてくる。彼らが流暢に鳴くようになる頃は桜ももうすぐという季節だろう。しかし、それにはまだ時間がありそうだった。時折、吹き抜ける強い風が早苗の髪とスカートを揺らす。
「ん? 今日は珍しく、スカートなんだな」
 いつもはジーンズで、両親に「女の子なんだから、もう少しちゃんとした格好しなさい」と嘆かれていても、よほどのことがない限り、穿かないスカートを穿いていることに今更ながら気がついて、俊一は沈黙を破った。
「今ごろ気がついたの? ほんと、お兄ちゃんて、鈍感」
 むくれるように早苗は答えた。そして、沈黙。
「悪い、悪い。でも、似合ってるよ。普段もそういう格好してれば、男の子にモテモテだぞ」
「……」
「女の子が女の子らしい格好するのを強制するつもりはないが、母さん達を少しだけ安心させてやってくれ」
「あたしにボーイフレンドが出来たら、お父さんが心配するでしょ」
「うーん、確かに」
「それに、あたし、こんな格好でおしとやかにしてるなんて、似合ってないもん。おしとやかにしてなかったら、母さん達だって、安心しないもん。だから、スカートはいたって、同じだもん」
「似合ってない? 俺は似合ってると思うけどな。それに、別におしとやかにしている必要はないと思うな。早苗は早苗。俺の可愛い妹だ」
「でも、それじゃあ、スカートはかなくたって、早苗は早苗でしょう?」
「ありゃ、そうきたか。たしかに、そうだな。でも、こんなに可愛い早苗を他にわかってもらえないのは寂しいと思う。ってので、どうだ?」
「お兄ちゃん。どうだ?って言われても、どうも答えられないよ」
「まあ、父さんも母さんも、何だかんだ言っても古いタイプの人間だから、格好さえ何とか繕ってさえいれば、あれこれ言わないし、思わない。ちょっとだけ、猫被って、安心させてやってくれ」
「自分は心配かけどおしのくせに」
「不貞の息子だからな。その妹に生まれたことを恨んでくれ」
「ほんと、あたしって、損ばっかしてる」
「そういう時に言うんだろ? 『だって南文堂のキャラだもん。しょうがないよ』って」
 そう言うと、二人して笑った。そして、少し真面目な表情で兄は妹の目を見た。
「それと、真面目な話。俺はこれからあんまり、しょっちゅうは帰って来れない。やっぱり、俺もいつまでも――、一生、二人の子供なんだろうな、すごく当たり前なことだけど。それでやっぱり、二人の事が心配なんだ。だから早苗に二人の事をよろしく頼みたいんだ」
「……ほんと、身勝手よね! お兄ちゃんって!」
「うん。自分でもそう思う。だから、よろしく頼む」
 小さな妹に命一杯情けないほど両手を合わせて懇願した。
「……ふぅ、仕方ないわね。お兄ちゃんが身勝手で、わがままで、人の気も知らない朴念仁で、足の臭いことはわかってた事だもんね。心配しないで、お母さんとお父さんのことはちゃんと私がみてるから」
 小さな弟の頼みを聞くかのように早苗は俊一のお願いを了承した。
「ありがとう。これで、俺も二人の事は心配せずに仕事ができる」
 肩の荷が下りたといわんばかりに伸びをして俊一は晴れ晴れとした顔をした。
「少しはしてあげなさいよ」
 そんな様子を見ながら早苗は苦笑した。
「早苗が『任せて』と言っているのを心配するのは失礼だよ。それに、俺が心配してもどうにもならないが、お前が見ていてくれるなら、それ以上はない」
「ずいぶんと信頼されてるのね、あたしって」
「俺の頼りになる可愛い妹だからな」
「また、調子のいいことを。でも……」
「ん? なんだ?」
「ううん、なんでもない。うん、なんでもないの。なんでもないのよ」
 赤い髪を揺らして首を左右に振って、自分で納得して、頷いた。
 俊一は髪を撫でるかのように優しく彼女の頭に手を置いた。
「大丈夫。早苗のことは俺が、お兄ちゃんがずーと、一生、死んでも心配していてやるから」
「ば、バ、バカ、言わないでよ! お、お兄ちゃんなんかに心配してもらっても、何にも役に立たないわよ」
 慌てて早苗は言い返したが、頭に乗せられた手は払おうとはしなかった。
「まあ、俺に何か期待するというのは、神様にお願いしたことを期待するのと同じぐらいだからな。でも、その程度は役に立つぞ。お守り代ぐらいは節約できる」
「ほとんど役に立ってないじゃない。ご利益うすそう」
「崇め奉られていないからな。唯一の信者にはコケにされっぱなしだから」
「コケにされるようなことしかしないからよ。それに、いつから、あたしが信者になったのよ」
「おや? 早苗が信者とは一言も言っていなかったがな。そうか、信者になってくれるか」
「い・や・よ!」
「うーん、そこをなんとか。今なら、入信料無料キャンペーン中だから」
「どういうキャンペーンよっ」
「あっ! でも、もう貰っているからいいか♪」
「?」
「俺が中学新三年で、ちょうど、今ごろ、大会があっただろ。アーチェリーの」
「うん。県大会の決勝までいったんだったっけ?」
「そう。決勝戦までこわいくらいに順調に勝ちあがって、もう、勢い的には優勝するって誰も疑わなかったぐらい絶好調だったんだ」
「……」
「で、結局、運はそこまで。決勝前に手首を痛めて棄権。入賞しなかったんだよな」
「……」
「それで、落ち込んでいる俺に、お前が厚紙と自分のリボンで作ったメダルと画用紙に書いた表彰状と蓮華の花の花冠をくれたんだったよな」
「……そ、そんな昔の話なんか、あたし、憶えてないもん」
 そっぽを向いたが、耳まで真っ赤なのをみて、俊一はほほえましく笑った。
「あの時に、『お兄ちゃんはあたしの一番だから、あたしが金メダルあげるのっ! だから、誰にも負けちゃダメっ!』って泣きそうな顔で渡してくれたんだよなぁ」
「お、憶えてないって、言ってるでしょ!」
「花冠はさすがに無理だけど、表彰状とメダルは大事に今でも持っているぞ。見るか?」
「って、まさか!」
 振り返った早苗の顔は髪のように真っ赤で、恥ずかしいのか、嬉しいのか、驚いているのか、全部なのか、とにかく形容しがたい表情であった。
「他のトロフィーとかは置いていくが、これは俺の一番だからなぁ。置いていくわけにはいかないよ。他の荷物と一緒に送るのも憚られる」
 ボストンバックを軽く叩いた。
「や、やめてよ! 恥ずかしい!」
「いやいや、これに比べればインターハイの優勝も大したことない」
「そんなわけないじゃない」
 俯いて照れる妹を面白そうに見ていながら歩いていたが、国道のバス停に二人は到着した。
 褐色の年季の入った木製のベンチ。それを覆うようにあっちこっち、ペンキが剥げては塗りを繰り返した不思議な模様を醸し出している小屋。いつから改正されていないのか謎と錆に満ちているバス停の標識。田舎のバス停という文字を映像にすればこんな感じといわんばかりの、ありふれすぎたバス停であった。
 早苗は時刻表を覗き込み、左手の映像にすると非常に版権が問題なキャラクターが印刷されている文字盤の上を回る針に目を移した。もっとも、時刻表を確認するまでもなく、バスの来る時間は28分。俊一が小学生の時に見て以来、変わっていない。わかりきっていたことだった。
「早く着いちゃったね」
 時計から目を上げた早苗は無表情にそう言い、俊一は「ああ」と生返事を返した。
 俊一はベンチに上半身を乗り出すようにして浅く腰掛け、早苗は手持ち無沙汰に軽くステップを踏むようにして、あたりをウロウロしていた。
 春霞の山裾からぼんやりと続く蓮華を敷き詰めた田圃を昼前の柔らかな陽射しが照らし、道端の土手には、ずいぶんと濃くなった緑のじゅうたんの上に菫の花が紫の模様をつけていた。全てが穏やかな風景は何か時間すらも超越して、止まってしまったかのような錯覚を起させるが、チチチッと野鳥の鳴く声と、肌を撫でる心地よい風が、時の進んでいることを証明していた。
地駆鴉さんイラスト
「おにいちゃん、本当に行っちゃうんだね」
 不意に歩き回るのを止めた早苗が遠くを見るようにして穏やかな時間を動かした。
「ん? ああ。……寂しいか?」
 早苗は遠くを見たまま俊一を見ずに答え、くるりと背中を向け、
「別に。あたしは平気だもん。それどころか、セイセイするわよ」
「お兄ちゃんがいなくなったら、家が広くなるし、おかずを取られることもなくなるし、おやつを食べられる事もないし、友達だって、気兼ねなく家に呼べるし、理不尽な命令される事もないし、でっかい図体の小さな子供がいなくなるんだもん。セイセイするわよ。お兄ちゃんがいなくたって、ぜんぜん平気だもん」
 少し大きめの声ですらすらと理由を言った。
「そうか……まあ、そうだな。ろくな兄ではないからな、俺は」
 俊一は苦笑しながらズボンの埃を払って立ち上がった。見通しのよい道路の向こうからバスが近づいてきているのが見えていた。
「……平気なんだから」
 俊一は、いまだに小声で何か言っている早苗のすぐ後ろに立つと両腕で彼女を包む込んだ。
「早苗。元気でな。お前はしっかりしてるから、お前が思った事をすれば大丈夫。自信もっていけ。だけど、くれぐれも無茶するなよ。お兄ちゃん、それだけが心配だ」
 白と青のツートンカラーのバスが、停留所へとゆっくりとスピードを落として近づいてきていた。
 早苗は俊一の腕の中でくるりと向きを変えて、彼に抱きついた。
「あたし、しっかりしてない! お兄ちゃんがいないと不安で、不安で仕方ないの! いっちゃやだ!」
 俊一の胸に顔をうずめて嗚咽を上げる少女を兄は優しく抱きしめた。
 バスが停留所に停車して、乗降口の扉がコンプレッサーの空気が送り出す音と共に開いた。
「早苗、バスが来た。もう行かないと」
 俊一は困った顔で早苗を引き離そうとした。
「やだ!」
 それに命一杯、抵抗するように早苗はぎゅっと力を入れた。
「こらっ! わがまま言うな。――すいません。すぐ乗りますんで! ほら、早苗っ!」
 俊一はますます困惑しながら、バスの運転手に謝りを入れて、彼女を叱った。
「やだ! やだ! いっちゃ、やだ!」
「早苗ぇ、頼む。これ以上、困らせないでくれ」
 今までこんな事がなかっただけに本当にどうしていいかわからずに、俊一はパニックに近いほど混乱していた。
「運転手さんよぉ。今日はずいぶんと早く着いたんじゃないかぇ?」
「あー?! そうだなぁ。ここらで、時間調節するとしようか」
「それがええ。そうするがええ」
 バスに乗っていた数人の乗客とバスの運転手が不自然なほど大声で会話をして、バスはエンジンを止めた。
 エンジンのアイドリングの音が消え、静寂の中に早苗の嗚咽が静かに響いていた。
「……早苗」
 何を言っていいかわからない俊一は早苗の頭を優しく撫でてあげた。
(そう言えば、昔、ずいぶんと昔に泣いている早苗を宥めるのにどうしていいかわからずに、こうやって頭を撫でていたっけ……)
 大昔から全然進歩のない自分が不甲斐なく、情けないが俊一にはそうする以外、何も出来なかった。
 ずいぶんと長いような気もするが、さほどでもないかもしれない時間が流れ、嗚咽がおさまり、鳥の声が耳に響くようになると、早苗は自分から俊一を突き放すようにして離れた。
「……早苗?」
 離れたものの、俯いたままの早苗の顔は見えなかった。
「ごめん、お兄ちゃん。最後に迷惑かけちゃったね」
 早苗は顔を上げて、赤く腫らした目で、涙の跡のついた頬を笑顔に変えて、明るい声でそう言った。
「早苗……」
「ほらほら! これ以上、待たせちゃ、だめだよ」
 早苗はそう言って、バスの中に半身を入れて、「ご迷惑かけました。ありがとうございました」と大きな声でお礼を言うと、立ちすくむ俊一をバスの中に押し込んだ。
 再び、エンジンがスタートして、少しやかましいアイドリング音が響き、バスの扉がブザーを鳴らして閉じた。
 俊一は窓際の席に陣取って、すぐに窓を開けた。
「元気でな」
「お兄ちゃんこそ、身体に気をつけてね」
「ああ。……できるだけ帰ってくるよ」
「お土産も忘れずにね」
「わかった。それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 早苗は優しい柔らかな春の陽射しのような笑顔でバスを見送った。
 バスはゆっくりと走り出し、春霞の向こうに消えて、それでもしばらく早苗はバスの消えた方を見ていたが、そのうち、くるりと向きを変えた。
「さぁて、かーえろっと」
 広がる田圃にあったかい風が、少女を後押しするかのように吹いていた。