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処女航海

作:南文堂




 白い飛沫を上げて一斉にオールが跳ね上がり、再びオールの先端が海中へと水飛沫を上げて水を掴む。青い襟をした白のセーラーが眩しく陽光を跳ね返し、それに包まれた筋肉の塊がオールを漕いで、ボートを前へと押し出し、再び、オールの先端が海中から飛沫を上げて跳ね上がる。その規則正しい運動がボートを真っ直ぐ前へと突き進ませていた。
 珍しく太陽がのぞく晴れ渡った空であったが、風のせいで波は静かではなかった。船に慣れていないものならば一発で顔色を真っ青にしてボートの縁に掴まって、永遠とも思える不快感に耐えなければならないだろうが、そのボートに乗る者達の中にはそんなものは一人としていなかった。
 ジョン・ハミルトンは金モールの施した黒い軍服に身を包み、艇尾座席からボートの舳先の目指すところを見つめていた。静かなうねりに乗って滑らかにローリングする気品すら漂うほどに優美なフォルムを持つ湾内に停泊している艦を。
 青と白のペンキで市松模様に塗られた船体がローリングで喫水線より下をわずかにのぞかせると輝く銅板が太陽の光を反射して眩しく光る。いずれは海草やフジツボなどをびっしりと生やすことになるだろうが、今はそんなことは全くない滑らかな曲面を誇っている。
 つい先月、テムズ川で舳先にシャンパンを浴びたその艦は先日、艤装(マストや帆桁を取り付けること)を終了して、天を突く三本マストがまだ見ぬ大海原を夢見て静かに眠っている。これから、南太平洋にハリケーンを、フランスの海岸へと押し付ける悪夢のような風を、にじり寄るようにしか前に進むことの出来ない逆風を、そして、敵の砲弾をその身に受けることも知らずに。
 タールの染み込んだロープが、一見複雑そうに、それでいて合理的に張られているのが目に入った。新造艦だが、指揮艦は何もこれが初めてというわけでもないのに、ハミルトンの心は躍り上がらんばかりに浮き立っていた。
 フリゲート艦。若い艦長なら誰もが憧れる快速艦である。鈍重な戦列艦には火力では負けるが、その機動力は比べるまでもなく、ブリッグなどの小型艦には旋回性能は劣るものの、その火力は充分にそれらを制圧することができる。その攻撃力と機動力で艦隊の目となり、哨戒に当たるため、ある程度は自由に行動ができる。機動性を生かした単独作戦も多い。まさに、己が力を試すにはうってつけの艦である。新進気鋭の艦長が喜ばないはずがない。
 しかし、ハミルトンは表面上、平静を装って、仏頂面を続けていた。
 目指す艦ではハミルトンを迎えるための準備に追われてはいたが、士官候補生がこちらに望遠鏡を向けていることぐらいは百も承知である。かつての自分もそうであった。
 この世に優しい艦長など存在しない。
 このことは幼い頃から船に乗ったものならば、いや、一度でも軍艦に乗ったものならば誰もがすぐに知ることが出来る事実であった。彼らが気にかけているのは新しい艦長が公平であるかどうかである。
 言いがかりとしか言い様のない理由で、昇降ハッチにくくりつけられてナインテールの鞭で打たれる水兵。その刑罰は、決して見ていて気持ちのよいものではないのは通常の感覚を持った人間なら当然の感想だった。そして、刑罰を受けるのは士官も例外ではなく――さすがに鞭打ちはないが――過重勤務、昇進のチャンスを減らす。いくらでも艦長の自由になった。
 優しくなくても公平な艦長ならば、少なくとも自分が失敗しない限りは大丈夫なのである。そして、人間、誰もが「自分は大丈夫。そんなヘマはしない」と思うものなのである。
 ハミルトンはわざと偉そうに胸を張っていた。艦長が艦の中では神に継ぐ地位にあるとはいえ、それは海軍が決めたことで、乗員はそう、思い込まされているだけである。実際の反乱に遭えば、かくも弱き存在であることが思い知らされることになる。だからこそ、偉くなくてはいけない。偉いと思わせなければならない。艦長とは下から見ているときは無敵の存在と思えたが、いざ成ってみるとこれほどまでに脆い、まるでヤード(帆桁)の先に立っているような不安定なものなのかと、ハミルトンは少し苦笑いを浮かべた。
 ハミルトンがそうこう思っているうちにボートは船から声の届く範囲まで近付いていた。
「おーい! ボート!」
 船首の甲板からボートを誰何する声が響いた。
「ユニコーン号! ハミルトン勅任艦長在艇!」
 艇尾で舵を取っていた艇長が両手をメガホンにして答えた。
 ボートはそのまま滑るように船首像の下をくぐりぬけた。ハミルトンはちらりと船首像を見上げた。その像は額から角を生やした馬のような生物。ユニコーン。船名と同じ船首像は躍動感たっぷりに生きているかのごとく見事な出来であった。なんでも、当代一の名匠と言われる人間の作らしく、その人間の彫った木の魚が泳いだとか泳がなかったとかいう噂である。戦いには何の役にも立たないかもしれないが、やはり、船首像の出来がいいと嬉しいものである。
「陸の奴らは悔しがるっすよ。陸にはこんないい馬はいないっす。断言しやすぜ、艦長」
 彼のかすかな表情を読み取ってか、長年死線をともに潜り抜けてきた馴染みの艇長が潮に焼けた浅黒い顔で凄みのある笑みを浮かべた。海軍というよりも海賊といった方が似合っている。
「口を慎め、オールディ」
 ハミルトンはそうは言ったが、全く、彼に同感だった。
 ボートはそうこうしているうちに舷門(船の乗り口)の下まで寄せられた。
「漕ぎ方止め! オール上げ!」
 オールディの命令で一斉にオールが海面から上げられ、海面にぽたぽたと水滴を落としている。
 ハミルトンは緊張した。士官候補生の頃、新任艦長が、艦長専用艇から艦側の段に飛び移るのに失敗して海中へ落ち、魚よろしく網で掬われて、濡れ鼠になって甲板に引き上げられたのを見ている。それ以来、この瞬間だけは今だに緊張する。
 うねりにあわせて舷側を蹴って段に飛びついた。手が滑りかけたが、渾身の力で段を掴んで一気に駆け上がった。
 艦長を迎える礼式で舷側の当直員たちが甲高い笛をピーピーと喧しいぐらいに鳴らす号笛礼、舷門の両脇に緋色の制服を着た海兵隊員が整列し、マスケット銃をパシッという音をさせて捧げ銃(つつ)している。舷側の通路には水兵達が居並び、各マストを固定する網目になったロープにも水兵達がよじ登って、ハミルトンを出迎えた。
 中肉中背の俊敏そうな男がハミルトンの前に現れた。ハミルトンは彼をよく知っている。オールディと同じく死線を潜り抜けてきた仲間である。
「ウォルフ海尉です、艦長。本艦の副長であります」
 お互い見知った仲だが、形式が大切な事をウォルフはよく理解していた。
「ご苦労。ミスターウォルフ。万事、上手く行っているみたいだな。ん? アンディー」
 きれいに整頓されたロープの類。きっちりと固縛された大砲。隅々まで磨きぬかれた甲板。きっちりと仕事をしている証拠であった。アンディー・ウォルフは二等海尉と三等海尉を紹介した。面識はなかったが、海軍報で何度か目にした名前である。
「それでは、総員集合だ、ミスターウォルフ」
 ハミルトンは懐から帆布に包まれた辞令を取り出して読み上げた。ジョン・ハミルトンにイギリス海軍フリゲート艦ユニコーン号の管理指揮権を与えるという内容であった。
「皆に、一言申し伝えておきたいことがある」
 ハミルトンは辞令を懐にしまうと、砲甲板に並んだ顔を見渡した。
「本艦はこれより二時間後に出帆し、西インド諸島へ向かう。相手はフランス、アメリカの私掠船。敵は海賊だ。一日千里を駆るユニコーンに跨るものとして恥ずかしくないよう諸君らに期待する」
 歓声が沸き起こった。ほとんどが前の艦の熟練した乗組員である。最高の艦に最高のスタッフ。これ以上何を望むだろうか、ハミルトンは満足な笑みを浮かべた。
 しかし、ハミルトンはその歓声の中に妙なものが含まれているのに気がついた。
「?」
 ハミルトンはそれが何かはわからなかったが、すぐに何かわかった。自らの肉体をもって。
 ハミルトンの短い黒髪が一気に背中まで伸びると軋むような音を立てて、身長が縮み、ぴったりだった軍服はだぼついたものになり、袖口からは指先がかすかにのぞく程度までになった。
「な、なんだ?!」
 士官、特に艦長たるもの、いかなる場合も慌ててはいけないと教えられ、自らも律し、部下に教えてきたハミルトンだが、さすがにこれには狼狽した。
 潮焼けした肌は剥がれ落ちるようにその下から白い肌をあらわし、長い海上勤務で刻み込まれた深いしわはなくなり、つるりと滑らかなものに変わり、顔のラインは妙に柔らかい優しい膨らみを帯びていた。
 今度は胸のあたりが妙に膨らみ、軍服が張りを戻し、腰のあたりも張りを取り戻して腰の位置からはずり落ちるが、押さえていなくてもよくなったが、妙に股間が寂しくなったような気がし、ハミルトンは押さえなくてよくなった手で股間を確認したが、あるべきものはなくなっており、代わりに今までにない感触が伝わってきた。
「……ない。まさか……」
 そう呟く声はもう、先ほどのような深みのある部下に有無も言わせぬ威厳を含んだ声ではなく、ごく軽いものになっていた。
 ハミルトンはまさか、という言葉の後は続けられなかった。目の前に広がる光景を見てはまさか、など言う言葉はふさわしくないものだった。
 目の前では砲甲板に居並ぶ筋肉の鎧に包まれた水兵達がセーラーに包まれた可憐な少女に姿を変えていっていた。白に青い襟のセーラーからのびる白い腕、白いショートパンツから覗く白い足が妙に健康的な色気があった。
 彼らのセーラーが変身後の体のサイズに合ったものに変わっているように、ハミルトンの軍服もいつの間にか、身体のサイズに合ったものに縮んでいた。
 水兵達は半ばパニック状態を起こして、自分の身体を確認するもの、他人に迫るもの様々であった。
「いったい、何なんだ? …………!」
 ハミルトンはある一言が脳裏によぎった。
「……ユニコーンに跨るもの……しまった! ユニコーンか!」
 艦尾甲板の手摺を可愛らしくなった手でハミルトンは思いっきり叩いた。
「か、艦長?」
 こちらも可愛いショートカットの少女になったオールディが怪訝な顔をしてハミルトンを覗き込んだ。
「ユニコーンの背に跨がれるのは清らかな乙女だけ。でしたよね、艦長?」
 三つ編みおさげ髪の少女となった副長のウォルフは肩を竦めた。

 この後、ユニコーン号がヴァージンフリゲートと呼ばれたかどうかは定かではない。


―簡単帆船用語説明―
ローリング:左右に揺れる横揺れのこと。ちなみに前後に揺れる縦揺れはピッチング。
喫水線:通常積載時、水中に隠れている境界線。これより下に損害を被ると沈没する可能性が高くなる。
艤装:進水式はマストを立てずに行うため、(立ててすると不安定なために外している)後からマストを付け加える。
   そのことを艤装という。大砲などを積み込むことも艤装という。
帆桁:ヤード。帆を張るためのマストと直交している横木。



 あとがき
 どうも、みなふみどう(南文堂)です。東京に行ったおりに、朝食を食べたところからマストとヤードが見えて、ふと思いついたお話です。
 帆船に詳しい人は随所におかしなところがあるので、間違い探しのように間違いを探して楽しんでください(笑)。
 ちなみに18世紀末にユニコーン号という9ポンド砲32門のフリゲート艦が本当に有ったりしますが、本作品とは全く関係有りませんので、あしからず。


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