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ミックス


作:南文堂


 崩れそうになる膝に手を置いて、地面に膝をつくのを何とか防いだ。ショートパンツから伸びた無駄な肉など欠片もない機能美に溢れた脚がかすかに痙攣していた。脚も腕も背中も、どこもかしこの筋肉も全力を出し切ったことを訴えていたが、結果は彼女にとって満足とは程遠いものだった。
 彼女は下を向いたまま、大きく開いた口で空気を肺に取り入れようと荒い呼吸を続けていた。顎先から滴る汗が乾いた地面に吸い込まれ、黒い染みを作っていく。ほぼ水平に差し込む夕日が影を落とし、彼女の表情を隠しているが、彼女から吐き出される空気が悔しさと自分自身に対する怒りを周囲に充満させていた。
「わかった? それがあなたの今の実力なのよ」
 少しハスキーな声がそんな彼女に投げかけられた。彼女は顔を上げようとはしない。見ないでもそれが誰かはわかっているし、なによりも、今はその声の主を見たくない気分で一杯だった。
 ハスキーな声の主はそんな彼女に構わず続けた。
「私はね。才能のない人に薦めたりはしない。誰でも超人になれるわけじゃないのよ。あなたみたいな努力をしきった人だけがなれるのよ」
 ハスキーな声が人もまばらになったグラウンドに静かに響いた。彼女はまだ顔を伏せたままであった。
 しばらくの沈黙の後にハスキーな声の主は軽くため息を漏らした。
「変な意地張っていないで、処置を受けなさい。提供してくれる人もいるのでしょ? あの子なら提供しても上手く順応できるわよ」
 その台詞に彼女は反応して、顔を上げた。足が痙攣していなければ、胸ぐらを掴みかねないほど激しい怒りを瞳に浮かべて。
 ハスキーな声の主はその視線を涼しい秋風のように軽く流した。
 声の主はショートカットで、顔立ちは少女のような丸みと少年のような凛々しさが混在しつつも共栄しており、ランニングの胸のあたりは女性らしいかすかな膨らみがあった。腰に当てられたしなやかな腕とショートパンツから伸びた脚はシュルエットは女性的であったが、同時に発達した筋肉が男性を感じさせていた。
 ここまで見て、普通の人間なら声の主を男性っぽいが、女性と判断しただろうが、最後に残った股間を包むショートパンツが妙に膨らんでいるのを見て、思い悩む事になる。
 ミックス――女性が男性と性器を交換すると女性のしなやかさを残しながら男性の力強さを得ることができる。彼女たち(生物学上でも、法改正されて戸籍上でも男性になるのだが、慣例で女性として扱われる)は数々のスポーツで活躍し、まさに超人的な記録を打ち立てていった。おかげでスポーツは男性女性の分類以外にミックスの分類を作らざる得なくなっていた。
「あたしは、ぜったい、そんな風には、ならない」
 彼女は渇いた喉と荒い呼吸を精一杯、整えて、はっきりと大きな声で断言した。
 ミックスになるためには誰か一人男性が性器を提供してもらわなければならない。提供した男性は代わりに女性のものをもらい、こちらは超人になることもなく、ただ平凡な女性となっていく。
「すぐに答えを決めなくてもいいわ。じっくり考えてからでも遅くはないわ。でも、処置するには今が最高で、それが短い事も憶えておいてね」
 ハスキーな彼女はそう言い残して、校舎の方へと消えていった。その後姿が消えるのを確認して、彼女は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちて地面に膝をついた。
 彼女は膝が熱いように感じた。膝とついたときに擦りむいたのかもしれないが、それよりも胸が痛い方が苦しかった。
「大丈夫? 琴ちゃん」
 一人の男子生徒が校庭に座り込んだ彼女に近づいて、おそるおそる声をかけてきた。汗をかいて風が冷たく感じる身体にウィンドブレーカーをかけて、汗を拭くタオルを手渡すのも忘れない細心の気遣いであった。
「平気よ」
 手渡されたタオルで顔を拭きつつ彼女は心配ないと答えた。
「でも、膝から血が出てるよ」
 彼の方は心配でしかたなく、情けない声を出した。
「心配性ね、達也は。こんなのツバつけとけばすぐに治るわよ」
「ダメだよ! ちゃんと消毒して薬を塗らなくっちゃ。琴ちゃんは女の子なんだから、自分の体は大事にしないと」
 彼は彼女の言葉に一変して厳しい声でそう言った。少々迫力には欠けるが、彼女は彼の心底から出る本気の声は逆らえなかった。
「わかったわよ。ちゃんと治療するわよ」
「よかった」
 彼が安堵の息をつくのを見て彼女が苦笑した。これじゃあ、好雄キャプテンに「順応できる」って言われても仕方ないわね。
「それはそれとして、ちょっと立つのに手を貸してくれるかな? 脚がいうことを聞かないの。ほんと情けないわね」
 彼女は本当は手など借りたくはないが、このままへばっている姿を晒したくもないので、彼に少し力を借りる事にした。
「うん。いいよ」
 彼は彼女の手を掴み、ゆっくりと引き上げて立たせた。彼のことを軟弱と思っていた彼女にとって、彼の力強さが少し意外で軽い驚きを感じていた。しかし、その驚きを噛みしめる間もなく、立ち上がったはいいが足元が定まらず、転びそうになって彼にもたれかかる結果になった。
 彼女は奥歯を潰しかねないほどかみ締めた。本当に情けない。情けなすぎるわよ。
 彼女はミックスの好雄キャプテンと全力で勝負して負けた。しかも完膚なきまでに。彼女の記録は女性の記録としては全日本クラスであったが、ミックス相手では男女差よりも大きい差が開いた。しかし、納得するまで彼女は勝負を挑みつづけ、ついには足の筋肉が痙攣して走れなくなったのであった。
「よいしょっと」
 彼女が沈み込んでいると彼が明るい声で彼女をおんぶした。
「や、やめてよ! 恥ずかしいじゃない」
 彼女は夕日に染まる以外の理由で顔を真っ赤にして、慌てて彼の背中から降りようとした。しかし、彼はそれをあっさりと阻止した。
「ダメだよ。痙攣しているのに無理して歩いたら、怪我しちゃうよ。琴ちゃんファンの僕としてはそんなの黙って見てられないよ」
「だけど!」
 降ろしてくれないところで暴れて転んでは危ないと大人しく背負われた彼女はそれでも降ろしてくれるように懇願した。
「いいから。僕は全然恥ずかしくないし、たまには役得があってもいいんじゃない?」
 彼の言葉に、彼の背中に押し付けた胸と彼に抱えられた太ももを意識して、真っ赤になった。
「ばか! スケベ!」
「ぐへぇ! 苦しいっ」
 首を締められつつ女子陸上部の部室まで彼は彼女を運び込んだ。
 汗の臭いと女性特有の臭いが入り混じった部室の空気が彼らを向かいいれ、彼は電気と換気扇のスイッチを入れてベンチに彼女を寝かした。膝の傷の洗浄をしたあと、痙攣が治まるように脚をマッサージをはじめた。
「無茶したね、よく肉離れを起さなかったよ。ぱんぱんだよ」
 スポーツマッサージをしている知り合いに教えを請っただけあって、なかなかに堂に入ったマッサージである。
「鍛えてるからね」
 彼のマッサージを心地よく受けながら彼女は胸を反らせて自慢した。
「女子陸上部のマネージャーとしては、鍛えているからといって無茶しないでほしいな。でも、琴ちゃんファンとしては、それも琴ちゃんだから諦めるしかないか」
 彼はなんともいえない表情で笑って、マッサージを続けた。
 彼女は一通りマッサージが済むと、脚を試すように動かして、そっと立ち上がって屈伸してみた。
「ありがと。もう、治まったみたい。シャワー浴びるから、達也は外で待ってて」
「わかったよ。何かあったら、呼んでよ」
「了解」
 彼は部室を出て表においてあるビールケースを裏返した椅子に腰掛けて、空を見上げた。
 本格的な夏はもうすぐだが、気温は充分夏でも通用する。空梅雨で空気は乾いているのが唯一の救いで、夕方の風が心地よい。
 夕日は既に地平の下にもぐりこみ、西の空に余韻を残して茜色から藍色へのグラデーションを見せて、そこに幾つかの星が瞬きだしていた。部室前から見下ろせるグランドは暗く、人影を判別できないが、おそらく誰もいないだろう。今日は日曜日で、練習好きの運動部でも夕方前には練習を切り上げる。女子陸上部もそうであったが、その後に彼女らの勝負があったので遅くなったのであった。
「やっぱり、――かな」
 彼はぼんやりと西の空に輝く明るい星を見つめながら呟いた。
 彼女、琴美と彼、達也は家が隣同士で、しかも生まれた日が同じで時間も数分差――彼女の方が先に生まれたため、彼女に始終お姉さんぶられたが――、しかも同じ病院でベッドも隣という双子のような運命的な誕生をした。親同士も気が合って、本当にどっちの子供かわからないほど仲良く一緒に育ってきた。
 それゆえに、彼女の考える事は言わなくても彼にはわかっていた。彼女は本当はミックスになってオリンピックに行きたい。
 彼女の実力なら女性のままでもオリンピックは可能かもしれないが、メダルは期待できない。しかも、女子選手はミックスになれなかった選手というイメージがあり、スポーツ選手としてスポンサーの評価が低くなるのであった。
 高校生までの女子ジュニアはミックスになる養成機関としての役割が強かった。実際、表立ってはいないが、スポーツ連盟が女子有望選手に性器提供者を斡旋することも多い。かくいう、彼女にもそういった話はきているらしいことは彼も知っていた。
 でも、琴ちゃんはそういう得体の知れない人と交換なんて我慢できないだろうしな。
 そう思ってから、見ず知らずの人と性器を交換するなんて、おぞましく思って当然だろうと彼は思いなおした。
 僕だって嫌だよな。
 彼は深いため息をついた。その先は何度となく考えたことで、自分自身、その答えは出ていることだった。
 彼は腕時計に目をやった。彼女がシャワーを浴びてからかなりの時間が過ぎていた。いつもはカラスの行水と競争できるほどなのに、今日に限っては長い。
 普通ならば、シャワー室で倒れたかもしれないと色々と気を揉むところだが、彼女との付き合いが生まれてから今までずっとという彼にしてみれば、その理由はわかりきったことであった。
 琴ちゃん、泣いてるな。
 彼は何かを飲み込むような表情をして星の瞬く空に目を移した。
 彼女は昔から人前で泣くことを極度に嫌った。飼っていたハムスターが死んでしまった日は雨にもかかわらず、外に飛び出して全身ぐしょぬれになって帰ってきた。もちろん、目を赤くして。中学校のとき、みんなの期待を一身に背負って臨んだ県大会。そこでまさかの予選落ちをしたときは水道の蛇口から頭に水をかけていた。
 あの時は、大会運営者の人に注意されそうになって、僕が「彼女は巫女さんの家系で滝に打たれて精神統一する癖があって、ああして精神統一しているのです。ちょっとだけ見逃してくれませんか?」って変な言い訳して見逃してもらったんだっけ。
 彼は苦笑をもらした。次の大会のときにその運営者と偶然であって、「今日は水垢離しないのかい?」って訊かれてすごく焦ったことを思い出したのであった。
 とにかく、どんなときでも彼女は涙を見せない。見せようとしない。幼馴染みの彼でさえ、彼女の涙をはっきり見たのは一度だけだった。
 彼が彼女に涙を見せない理由を尋ねた時、彼女の返答は実に彼女らしかった。
 だって、女の涙は地上最強なんでしょ? だったら、そんなの使うなんて卑怯よ。だから、あたしは絶対に泣かない。泣いたら負けよ。
 彼は一瞬、冗談かと思ったが、彼女は至極真面目で本気であった。さっきも顔の汗を拭くふりをして潤んだ瞳を抑えていたのを彼は見逃していなかった。
 よっぽど悔しかったんだな。
 彼がもう一度、時計に目をやった。いつもはもっと早く切り替えて泣き止むが、今日は心底、こてんぱんにやられたということだろう。そう思っていると、シャワーの音が途絶えた。部室の中を誰かが動き回る気配がする。やっと泣き止んだらしい。彼はとりあえず、ほっとした。
 琴ちゃんは泣いてるところを見られるのが大っ嫌いだから、下手に慰めに行くと逆効果なんだよね。
 彼女を泣き止ませる事が出来るのは彼女だけ。人生最長の付き合いを誇る究極の幼なじみの彼でもそれだけはどうしようもなかった。
「ごめん、お待たせ」
 部室を出てきた彼女は椅子に座ってボーとしている彼に声をかけた。
「あ、いいよ。女の子は準備に時間がかかるものだって、お母さんも言ってたし」
 彼はとぼけたようにそう言って立ち上がった。彼女の目は目薬をさしたのだろうが、充血しているのはすぐにわかった。でも、気がつかないふりをすることにした。
「そう。じゃあ、帰ろうか。だいぶ遅くなったし」
 彼女は部室の鍵を閉めて、歩き出した。どこからか楽器を演奏する音が聞こえてきた。
「吹奏楽部だね。来週、コンテストがあるっていってたから、追い込みの練習だね」
 彼が彼女の聞いた音と同じ音を聞いて教えた。
「そっか。今年は全国大会にいけるといいね」
「遠藤さん、張り切っていたもんね。ソロやるから人一倍練習しなくちゃって」
「みんな、頑張ってるんだね」
「うん」
 暗くなった校庭を歩き、正門のところまでやってきた。正門前には円形のコンクリートでできた池があり、その中央に少女が祈りを捧げるブロンズ像が立っていた。このブロンズ像がこの学校がかつては女子高であったことを示す唯一といって言い痕跡であった。
 共学になってから二十年以上経っている今となっては男女比はほとんど同じで、今は女子の方が少し多いが、来年になれば逆転するかもしれない。そんな差しかなかった。
「祈る乙女はたゆまぬ努力を惜しまずに祈りの道を進みます。祈りは天に、歩みは大地に届きましょう」
 彼女は旧校歌の詩の一節を諳んじた。かつて女子高だった頃の校歌である。彼女の母親がこの学校の出身で、旧校歌を子守唄代わりに歌っていたので憶えてしまったのである。
「慈愛に満ちた祈りの声が明日への勇気を呼ぶでしょう。勇気を持ちて進む道。慈愛を持ちて刻む時。ああ、友愛の声は満たされん」
 彼も同じように聞いていたので一番から三番まで諳んじる事が出来た。
「いい歌詞よね。今の校歌より、あたしはこっちの方が好きかな」
「僕も。でも、応援団と吹奏楽部でも特別のときはこの校歌を演奏するらしいよ」
「特別なとき?」
 彼女は初耳の情報に聞き返した。
「どこかの部が全国で優勝したときに演奏するんだって。だから、この歌の練習は使わなくても欠かさずするらしいよ」
「へえ、聞いてみたいな」
 彼女はそう言って、口をつぐんだ。今年のインターハイは女子競技の参加を学校側が縮小することを決めたらしい。予選は通過したが、彼女一人だけで大会に行く事になるだろう。応援団が来てくれることは恐らくない。
「僕が歌ってあげるよ。それにおばさんもきっと歌ってくれるよ」
 彼は彼女が何を考えたかわかって、明るい声を出した。
「……いつも聞いている二人の声じゃね、感慨も湧かないわよ」
 彼女は顔を背けて素っ気ない様子で言った。
「つれないなぁ」
 彼は頭をかきながら明るくぼやいた。
(でも、ありがと)
 彼女は誰にも聞こえないぐらい小さな声で口の中で呟いた。
「えっ? 何か言った?」
「なんにも。何にも言ってないわよ。気のせいよ、きっと」
 彼女は早足になって、正門脇の通用門にいる警備のおじさんの方に行き、通用門を開けてもらった。彼はそれを急いで追いかけて、彼女とともに学校を出た。
 学校を出ると桜の並木道が続く。高校の向かい側に附属の小学校と中学校が並んで立っている。おかげで彼らの通学路は十一年間、変化する事はなかった。
 彼らの家から学校まで普通に歩いて十五分。ゆっくり歩いて二十分。トースト咥えて走れば七分になるが、途中の曲がり角で転校生とぶつかる可能性が高くなるので、そうなれば十分以上かかることになる。
「琴ちゃん、待ってよ」
 学校を出ても早足のままの彼女を呼び止めた。
「なに? 達也」
 ちょっと早足になっただけで音を上げるなんてと彼女は振り返った。
 彼は、彼女の根性なしという視線を表情で否定してゆっくり歩きながら彼女に並んだ。
「ゆっくり帰ろうよ。マッサージしても完全に疲労が抜けているわけじゃないんだから。無理させたらかわいそうだよ」
「……しかたないわね」
 彼女も彼の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
 春は盛大に桜のピンクが両側を彩るこの並木道も六月も過ぎ、完全に葉桜となった今はさしたる感銘も覚えない。むしろ、時々降って来る毛虫のために嫌悪の対象となっていた。
「この木、憶えてる?」
 並木道の中でひときわ立派な桜の木の前で彼が突然、彼女に訊いた。彼女は怪訝に首を振った。
「忘れちゃったの? ひどいなー。小学校に入学した日に、この木の下で写真を撮ったのに」
「あー、思い出した。その時に上から毛虫が落ちてきて、達也の肩にとまって、大泣きしたんだっけ」
 彼女は記憶の糸が繋がって、思い出した思い出に思わず微笑んだ。
「うっ。毛虫は苦手なんだよ。琴ちゃんだって、苦手だろ?」
 やぶへびだったと彼はちょっと膨れた。
「当たり前よ。あの毒々しい姿、思い出しただけで寒気がするわよ」
 彼女は自分の両腕で両肩を抱いた。
「でも、それを取ってくれたんだよね」
「達也が大泣きするからよ。恥ずかしいじゃない。だからよ」
「ありがとう」
「今更何よ」
「いや、あの時、泣きじゃくってお礼を言ってなかったような気がしたから」
「確かに言われた記憶はないわね。でも、あれからどれだけ経ってると思ってるの? 利子もつけて欲しいわね」
 彼女は照れ隠しのように悪戯っぽく彼の方に手を出した。
「そういうことなら、裏山のぶなの木のことを思い出しちゃうけど?」
 彼は意地悪な微笑で彼女の出した手に応えた。
「あ、あれは!」
 慌てる彼女をっよそに彼は思い出話を始めた。
「セミ取りに行って、後先考えずに木に登ったはいいけど、降りる時に足がすくんで降りられなくなったのは誰かな?」
「だから、あれは!」
 取り乱した彼女を無視して彼は思い出話を続けた。
「近くの小屋から梯子を持ってきて、それでも降りれなくて、結局、僕がおぶって降りたんだよね。あの時、お礼を言ってもらっていないような気がするけど」
 彼女の涙を見たのはこのときだけ。考えてみれば、実に陳腐な理由なのだが、おそらく、物心ついてから親も含めて人に見られた涙はこれだけだろう。彼はそれを半ば名誉な事と思っていた。
「その話はやめてって言ってるじゃない」
 それが原因か、彼女は高所恐怖症になり遊園地の定番である観覧車などには乗ることはなかった。
「それを利子ってことでいいかな?」
「いいわよ。だから、誰にも言っちゃダメよ」
 彼女は顔を真っ赤にしながら念を押した。
「わかってるって。今まで誰にも言ってないだろ?」
「まったく。高いところが平気で木登りが得意な幼馴染みに助けてもらったのが運の尽きね」
 彼女は両手を上げて、降参のポーズをとった。
「違うよ。高いところが平気になったのも、木登りが得意になったのも、それがあった後だよ」
「そうなの?」
 彼女は意外そうな顔で聞き返した。
「そうだよ。また、琴ちゃんが木に登って降りれなくなったら大変だし、高いところで足がすくんでも大変だから、特訓したんだよ」
 しかし、彼女が木に登る事も高いところで立ち往生する事もなく、彼がその特技を本来の目的のために披露する機会はついに訪れなかったが。
「そんなことしてたんだ。あたしはてっきり、バカと煙は高いところが好きって思ってた」
 彼女は感心したのか呆れたのか微妙なニュアンスで驚いた。
「ひどいなー。これでも琴ちゃんよりかは成績はいいんだよ」
 彼はそのニュアンスをそのまま受け取り、苦笑した。
「知ってるわよ。この間は学年十一位だったんでしょ」
「ふふふ、順調にランキングをあげてるよ」
「入った時は同じぐらいだったのに」
 彼の成績は入学当初は三七八人中一八二番。ノーマークのダークホースが赤丸急上昇で、ついには先日の実力テストでは十一位となったのであった。秀才たちは思わぬライバル出現に彼をマークし始め、彼の勉強方法を聞き出そうと探りを入れてきたりしていた。
「まあ、それなりに勉強してるからね」
「いいわよ。達也に頭で追いつけないのはなんとなくわかってたもんね。あたしはあたしの脚で達也に追いつくから」
 彼女はちょっと拗ねたようにむくれた。
「琴ちゃんに本気で走られたら追いつけないよ」
 彼は苦笑した。彼女が本気になれば少しぐらい頭のいいことなんて、彼女の脚には敵わない。彼は本気でそう信じていた。
「当たり前よ。あたしの脚は誰にも負けないのよ」
 彼女は自信満々に胸を張り、今日の勝負を思い出し、真面目な顔で沈黙した。
 すっかりと夜の帳に包まれた街に電気の明かりが星のように灯っている。街灯が等間隔で灯り、家路の安全を保障していた。
 交わす言葉もなく、二人は黙々とただ歩いた。相手が何を考えているか何とはなしにわかっていた。しかし、それを口にするのは大きな勇気が必要で、その決断ができずにいた。
 学校と家との中間点にある公園の脇を通る道路で達也が沈黙を破った。
「いいよ」
 たった一言。全てを含んだ、たった一言。
「達也。自分がなに言ってるか、わかってる?」
 彼女は何がいいかなどは訊かない。長年の付き合いで何がいいかはわかっていることだった。
「これでも真剣に考えたよ。その結果だよ」
 彼は彼女の方を見なかったが、彼女が見つめる彼の横顔は真剣そのものであった。
「提供したら、女の子になっちゃうんだよ。元には戻れないのよ」
 彼女は彼以上に真剣な表情で詰め寄った。彼は詰め寄られて困惑するでもなく、包み込むような表情で彼女の方を見た。
「知ってるよ。確かに、今まで男として生きてきて、これから女の子になるって言うのも不安だけど、それより、琴ちゃんが夢をあきらめる方が辛いから」
「あたしの夢はあたしの夢でしょ。達也には関係ないじゃない」
 悟りきった彼の表情に怒りを覚えて、思わず声を荒げた。
「つれないなー。双子みたいに一緒に育ってきたのに、夢も共有できないなんて」
「本当の双子だって、夢なんか共有できないわよ。そんなの間違ってる。あたしの夢の犠牲になるなんて」
 雰囲気にそぐわない軽い声の彼にますます怒りを覚えた。
「犠牲って、別に死ぬわけじゃないよ。ちょっと性別が変わるだけだよ。それとも、琴ちゃんはミックスになりたくないの?」
 さすがに彼も彼女の怒りがわかったか、真面目な口調に戻して訊いた。
「あたしは……」
「わかってるよ。本当はなってみたいんだろ?」
 彼女が何か言うよりも先に答えを出した。
「違う! あたしは――」
 必死になって否定しようとする彼女を彼は手で押し止めた。
「究極の幼なじみをなめるなよ。ホントか嘘かぐらい見抜けない僕と思ってるのか?」
 少し怒ったような目で彼女を見つめた。
「だけど……」
 彼の目に反論できず、それでも何か言いたげに呟いた。しかし、後に続く言葉は見つからない。生まれてからこれまでの十七年を覆すには言葉は軽すぎた。
「それにさ、実は女の子になるのも楽しみでもあるんだ。綺麗な服着て、ショッピングしたり、おしゃべりしたりって、楽しそうじゃないか」
 彼は目を和らげて、ふたたび軽い調子になり、穿いていない架空のスカートを摘み上げ、膝を軽く折って貴婦人のおじぎをして、スカートの裾を広げるようにゆっくりとターンして見せた。
「そんなに楽じゃないわよ。女の友情は色々あるし、ダイエットもしないといけないし、……女の子は大変なのよ」
 彼女はむくれるように反論した。
「それは男も同じだよ。男の友情も色々あるしね。好きな女の子に気に入られるように色々努力しないといけないし、まさしく、男はつらいよ純情編」
 彼は彼女の反論に苦笑しつつ反論した。しかし、反論の別のところに彼女は反応した。
「達也! あなた、好きな子いるの?」
 彼女の質問に彼はしばらく目を丸くしたが、おかしそうに笑って、
「いるよ」
 と短く答えた。
「えっ……。あ、そうだよね。そういうお年頃だもんね。だれ? 教えてくれない? 上手くいくように協力してあげるから」
 誰の目にも明らかな動揺を示しつつ彼女は彼に訊いた。彼は笑顔に苦笑を少し混ぜ込む事になった。
「琴ちゃん、かなり混乱してるね」
「な、何言ってるのよ。混乱なんてしてないわよ。早く言いなさいよ。協力してあげるって言ってるんだから」
 彼女はあたふたしながらも苛立ったような声をあげた。それを見て、彼はますます苦笑を混ぜ込まなくてはいけなかった。
「だから、琴ちゃんに提供して女の子になる覚悟をした僕が誰を好きなのか、わからないかな?」
「へ?」
 彼女はハトが豆鉄砲を食らった時よりも間抜けな顔を晒した。
「ここまでくると天然記念物的だね。でも、まあ、いいや。協力してくれるんなら、最強の協力者だもんね」
「なに? どういうこと?」
 彼女は目を白黒させた。
 彼は少し目を瞑って深呼吸して、誠意一杯の表情をして、彼女を見つめた。見つめられた彼女は状況についていけずに少し怯えるように彼の次の行動を待っていた。
「僕が好きなのは琴ちゃんだよ」
 彼の心臓が破裂しかねないほど脈打ったが、できるだけ平静を保って、告白をやり遂げた。もちろん、顔は薄暗い街灯の下でも赤いのがわかるほどであった。
「あ、あたし?」
 しかし、彼女のほうはそれ以上に顔が赤く、狼狽していた。
「そう。琴美ちゃん」
「え、え、え、でも、なんで?」
「それを聞くかなー。好きなものは好きじゃだめ?」
 彼は彼女らしい問いに思わず微笑んだ。
「えーと、その、いいけど……でも、どうして? じゃない、いつから?」
「いつからか……忘れちゃったな。多分、きっと、一目惚れしたんだよ」
 彼は楽しそうに答えた。いつからなんて考えた事もなかった。
「一目惚れって、初めて会ったのは生まれたその日じゃない」
「そうだね」
「生まれたその日から片思い……」
「生まれたその日からの純愛だよ。そんじょそこらのラブストーリーには負けないね」
 彼は腕組みをして感慨深げに目を閉じて頷いた。
「ていうか、勝ちたくもないわよ」
 彼女は混乱しつつもツッコミは忘れない。さすがは十七年の歴史である。
「そんな風に言わないで欲しいな。はっきり言って、さっき『いいよ』って言ったときより、告白したときの方が心臓バクバクなんだよ」
「やっぱり、いくら勉強が出来ても達ちゃんは馬鹿だわ」
 彼女は戸惑いや気恥ずかしさを横に置いておいて、そう決め付けた。
「自分でもそう思う。で、琴ちゃんの返事を聞きたいんだけど?」
「なにの?」
「だから、告白の」
「情けないわね。さっきは究極の幼なじみをなめるなって言ったのに」
 彼女はやっと落ち着いて自分の優位を取り戻したのか、意地悪そうに横目で見ながら微笑んだ。
「うぐっ。だけど、ハッキリした言葉が欲しいんだよ」
 なんだか、倦怠期直前の夫婦の会話のようである。性別が逆だが。しかし、彼らは倦怠期とは程遠い。彼女は照れながら彼の方に勢いをつけて向き直った。
「もうっ。じゃあ、言ってあげる。一度っきりだから、よーく聞きなさいよ」
「うん」
「あたしも好きです。ずーっと前から好きです。多分、達也と同じときから」
 彼女は言った途端に顔から火を噴出したような気がして顔を伏せた。
「よっしゃ!」
 彼は天に拳を突き上げて快哉を叫んだ。彼のキャラではない感じがしたが、余程嬉しかったのだろう。踊りだしさえしていた。
「恥ずかしいから、踊らないでよ! さっきのとき消しにするわよ」
「あ、やめる。やめる。でも、嬉しいな」
 彼は慌てて怪しい踊りを中断した。しかし、満面の笑みまでは消えていなかった。
「まったく。あたしの方が心臓バクバクよ」
 彼女はまだ赤い顔をしながら胸を抑えた。そうしないと飛び出すんじゃないかって不安もあった。
「似たもの同士だね」
「何言ってんだか」
 彼女は顔をそむけた。これ以上、赤い顔を見られたくはない。
「まあ、というわけで、僕は琴ちゃんに提供しなくちゃいけないんだ」
「どういうわけよ!」
 彼女は慌てて、彼の方を向き、ふたたび話題を元にもどした彼に怒鳴った。
「わかんないかな? 琴ちゃんが他の誰かから提供されてミックスになったら、男同士になっちゃうだろ? 僕はできれば、そういう特殊なのは避けたいんだ。で、僕が誰かに提供して女の子になってもいいんだけど、お互いに別人のでするのはなんだかなーって感じがするでしょ? それなら、僕が琴ちゃんに提供すれば、一石二鳥! 得体の知れないだれかのなんかとしないで済む。ベストな作戦と思わない?」
 彼は史上最高の名案を披露するかのように自信満々であった。
「ちょっと待ってよ。そんなの、あたしがミックスにならなければいいだけじゃない」
 彼女のその言葉に彼は軽いため息を漏らした。
「琴ちゃん。琴ちゃんは誰かのために走ってる?」
「え? えーと、どうかな? どっちかというと、あたしが走りたいから走ってる」
 主旨のわからない質問だったが、彼女は素直に答えた。彼がこう言う質問をする時はちゃんと意味があるのを知っていたから。
「じゃあ、どうして一番になりたいの? 誰よりも速く走りたいの?」
「そんなの決まってるじゃない。気持ちいいからよ。短距離の先頭は誰もいないトラックを独り占めできるの。最高の気分よ。それに速く走れば走るほど、世界が変わるの。なんていうか、変わるの」
 彼女は恍惚に近い表情を浮かべた。きっとその世界を思い浮かべているのだろう。機械では味わえない、人の力のみによる最速の領域。
「じゃあ、オリンピックの金メダルは? 人類世界最高記録は?」
「最高の気分でしょうね」
 彼女は断言した。多分、走る人のほとんどそうだと言いたげに。
「誰でもそこにいけるわけじゃない。琴ちゃんはそこにいけるかもしれない人なんだよ」
「だけど、そんな理由で達ちゃんの人生を台無しになんかしたくない」
 恍惚の世界から戻り、首を振った。走るのは自分の趣味である。それに他人を、ましてや彼を巻き込みたくはなかった。
「琴ちゃんは僕の事が好きなんだろ?」
「一度しか言わないって言ったでしょ」
 彼女はさっきの台詞を思い出して赤くなって、それを誤魔化すように怒鳴った。
「僕の事が好きなら、僕を幸せにしてよ。僕が女の子になっても、琴ちゃんがいてくれたら僕は幸せだよ。琴ちゃんが誰よりも速く走ってくれたら、僕は嬉しいんだよ。全然、台無しなんかじゃない」
「達ちゃん……」
「そりゃあ、自分が走れればいいんだけど、人に夢を託しているように思われるかもしれないけど。琴ちゃんが速く走るための手伝いをするのが僕の、夢というか、生き甲斐なんだ。勉強をがんばってるのも、大学でスポーツ医学や指導を勉強したいからなんだ」
 彼は難関私立の大学の名前を幾つか挙げた。どれも陸上、しかも短距離では名の知れた大学である。もちろん、体育科があり、その種の研究も国内最高レベルの学府ばかりである。
「……達ちゃんは達ちゃんだね」
 昔から自分で考えて、ちゃんと計画して行動する。そのためか、ちょっとのんびりしている印象を受けるかもしれないが、効率的に物事を進める。それが彼女の知る『達ちゃん』であった。
「何か言った?」
 どこの大学がどんな研究をしているか、公表している範囲であるが、熱心に語っていた彼が彼女の呟きに反応して訊き返した。
「ううん。なんでもない。……でも、おじさん、おばさんに無断でそんな重大な事決められないでしょ?」
 もちろん、進学進路ではなく、性器交換のことである。息子が娘になるのだ。本人のみならず、親にとっても大事件のはずだ。性別が変化して物分りがいいなんて、物語の中だけのファンタジーである。
「実を言うと、お父さんとお母さんには、もう許可は取っているんだ。さすがにすぐにいい返事はもらえなかったけど、僕が本気なのことをわかってくれて、『お前の人生だから後悔しないのなら』って許してくれたんだ。だから、後は琴ちゃんとおじさん、おばさんさえ、うんって言えばいいだけだよ」
 彼は言い辛そうに彼女に告げた。彼女を抜きにして自分だけで話を進めていたのに気まずさを感じ、また、自分の両親の事を改めて考えてみると、親不孝な気もしないでもない。
「ほんと、憎らしいほど手回しがいいわね」
 さっき思ったことをふたたび思い出して苦笑を浮かべた。
「僕の取り柄だからね」
「まったく、もう」
 彼女は降参とばかりにそれだけ言った。
「で、琴ちゃんの返事を聞きたいんだけど?」
「なにの?」
「だから、交換の」
「情けないわね。究極の幼なじみじゃなかったの?」
 ついさっきと同じやりとりに彼女は笑い出しそうになった。
「じゃあ!」
 彼女は姿勢を正して直立不動になり、おもむろに軽く右手を上げた。そして、厳かに口を開き、
「宣誓。上原琴美は下村達也と交換し、ミックスになり、誰よりも速く走る事を誓います――達ちゃんに金メダルをプレゼントしてあげるわよ」
 最後は茶目っ気たっぷりに彼女は微笑んだ。
「一緒に取ろう、金メダル!」
 彼は手を挙げ、彼女が宣誓のために挙げた手と小気味よく打ち合わせて満面の笑みを浮かべた。
「さあ、かえろ!」
「うん」
 彼女たちは駆け出さんばかりに軽快な足取りで彼らを待つ家へと急いだ。

おしまい




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