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 季節は巡り、春となった。だけども、僕の心はとてもではないが春めいたものにはなれなかった。僕は僕自身の冬に終わりを告げるために、勇気を振り絞った。しかし、春は来ず、この世の終わりを迎えた。
 それも、予想はしていた。それが義理であることは知っていた。小さいころから、毎年貰っていたから習慣だったことぐらい僕にもわかっていた。幼馴染が恋人に発展するなんて、物語の中だけの話で実際はそんなに甘くないことはよくわかっていた。
 だから、ショックはないはずだった。だけど、僕の心は砕けた。僕の熱い想いの詰まった心は、彼女の言葉が染み込むと、熱いグラスに冷水をかけたかのように砕けた。僕はこのまま身体も砕けて欲しいと思った。砕けて、僕のこの汚れきった身体と心を大地に還して、浄化して欲しいと思った。――そう、全てを浄化する力を持つという、人魚の歌のように。
 もう、僕は死んだのだ。だから、僕には身体も心も必要ない。
 誰かが僕を呼んでいるような気がする。でも、それは気のせいだろう。たとえ、僕を呼んでいても、僕には関係のないことだ。もし、僕に話しかけているとしても、それは人間ではない。打ちひしがれている僕に話しかけるなんて、人でなしのすることだ。それが慰めの言葉でも。
 頭を殴られた。目の前がちかちかする。そうだ。忘れていた。僕の身近に人でなしが一人いた。兄さんの主税(ちから)だ。そう言うと、もう一度、頭を殴られた。不意じゃなかったので、少しはましだが、やっぱり、痛い。
「何を黄昏てやがる。たかだか、ふられた位で。この世の終わりみたいな顔しやがって」
 兄さんは無神経だ。僕は兄さんを無視した。関わってよいことなど、この世の中に何もない。それが特に兄さんに関することならなおさらだ。
 更に頭を殴られた。僕はそのうち、兄さんに殴り殺されるかも知れない。
「心に隙があると人魚になりやすいって言うぞ。そんな風にしてると、人魚になってしまうかもしれないぞ」
 兄さんは言う。ここ、十年、人がある日突然、人魚――あの下半身が魚の――になるという奇病が流行っているそうだ。僕は見たことは無いけど。世界中で原因とか調べてるけど、全くわからないらしい。だから、兄さんの言うのは迷信だ。それに、治療方法を探しているけど、今のところ、全く何も出来ないそうだ。不治の病らしい。だけど、僕にとってはどうでもいいことだ。
 人魚になる――
 僕はそれでも構わないと思った。人魚になれば、人とあまり関わらなくていい。僕にはありがたいことだ。
 ……彼女は泣いてくれるかもしれない。僕のために。それは僕にはとてもありがたいことだ。
 そうすれば、彼女は僕を忘れない。僕は彼女を縛る鎖になれる。それは僕にはとてもとてもありがたいことだ。
 だけど、僕はそのことは口にしなかった。出したら、本当に兄さんに殴り殺されていたと思う。兄さんは人魚が嫌いなのだ、個人的な理由で。
 兄さんは何かを言っているが、僕の耳には届かない。僕の耳はあの時――彼女の言葉を聞いたときに死んだのだから。
 それでも僕は鬱陶しくなり、兄さんを再び無視して、部屋へと引きこもることにした。部屋に入るとそのままベッドにうつ伏せに倒れこんだ。スプリングが軋み、僕の身体を押し返し、支える。シーツのさわやかな冷たさが頬に伝わる。カーテンを閉めた薄暗い部屋で独りっきり。部屋の外から聞こえてくる雑音は、遠い国の出来事のように現実味を感じられない。それが今は心地よかった。
 そういえば、なぜ最初から部屋に引き篭らなかったのだろう? こうして部屋があるのに。僕は誰かに構ってもらいたかったのかもしれない。そうだとすれば、僕は最低な人間だ。兄さんに悪いことをした。でも、関係ない。そう、何も関係がない。僕は顔をシーツに押し付け、そのまま寝てしまったようだ。

 僕は音を聞いた。水滴が落ちる音だ。ゆっくりと、ゆっくりと落ちる音。そして、水面を波紋が走る音を聞いた。速く、速く走る音。
 誰かが蛇口を閉め忘れたのだろうか? 水が溜まるほど漏れている。お母さんがまた、もったいないと愚痴をこぼすだろう。閉めないと。どこの蛇口だろう?
 暗闇の中、耳を澄ました。僕は音を聞いた。水滴の散る音、波紋が広がる音。そして、僕は歌を聞いた。
 どこか外国の言葉だろう。僕の知らない、聞き慣れない言葉だ。でも、僕には何を言っているかわかった。とても悲しい歌だ。僕にはわかる。僕ならわかる。とてもとても悲しいことが。
 僕の心は熱くなった。そして、涙があふれた。彼女の言葉を聞いても出なかった涙が。恥ずかしいからではなくて、本当に泣けるなら泣きたかったのに、出なかった涙があふれて、頬を伝い、落ちた。
 ……水滴は僕の涙だった。僕は泣いていることに気が付かなかっただけなんだ。水滴が散る。波紋が広がる。僕の心が熱くなった。悲しい歌声が僕の心を熱くしている。
 歌いたい。
 僕は思った。でも、声はどうがんばっても出なかった。喉を通る空気の音さえ聞こえなかった。でも、僕は歌いたかった。すべてを引き換えにしても歌いたかった。
 そう思った瞬間、声が出た。とても綺麗な、僕のじゃない声が出た。でも、構わない。これで歌える。
 僕は歌った。僕が何を歌っているかは知らないが、声が知っていた。僕は悲しい歌に応えるように、支えるように、励ますように歌を歌った。悲しい歌声も僕の歌声に応えた。僕らはいつしか、声を重ね、ハーモニーを奏でていた。歌声が高まり、何も聞こえなくなり、すべてが溶け合って混ざるような不思議な感覚がした。まるで、それはあったかい海に浮かんでいるような心地よい感覚だった……。

 水音がした。それと同時に下半身が妙に冷たいのを感じて、僕は慌てて身体を起こした。そうだ。僕は部屋で寝ていたんだ。この歳で布団に世界地図を書くなんて冗談じゃない! でも、僕が目にしたのは、世界地図以上のものだった。
 僕の下半身は虹色に光で変わる鱗で覆われ、二本だった脚は一つの大きな魚のような尾になっていた。水浸しになったベッドの上に大きな透明の尾ひれが揺れていた。
 僕は何がなんだかわからずに、股間のほうに目を移そうと顔を俯けると、軟らかい長い髪がはらりと落ち、視界の両側に深い青のすだれを垂らした。だけど、僕はそんなことはどうでもよかった。とにかく、股間を見た。
 ない……。男の象徴どころか、股すらもなくなり、二枚の腹ひれの生えた股間が目に入った。完全に魚の下半身だ。わかっていたが、僕はかなりショックだった。それと同時に目に入った丸い胸とその上に付いた桜色の突起などはどうでもよかった。
 僕は何がなんだかわからず、叫んだ。裏返っていて変な声だったが、関係ない。僕は脚を動かそうとしたが、尾ひれが魚のように跳ねるだけだった。
「うるさい!」
 兄さんが僕の部屋の扉を乱暴に開けて入ってきた。そして、そのまま、固まった。しばらく、固まってから、天井を仰ぎ見て、何かつぶやいてから、僕の方をまっすぐに見た。怒っているのでもなければ、気持ち悪がってもない。ただ真剣な目だった。僕はそのほうが怖かった。怒っている兄さんの方がまだよかった。
「だから、いったんだよ。バカが」
「……バカっていうな……」
 僕はむくれてそれだけ言い返した。兄さんは横柄で人でなしだが、たいてい正しい。だから僕は兄さんがキライだ。
 兄さんは無言で僕に近づいてきた。また殴られる。僕は目を瞑って身体を硬くした。
「……」
 でも、違った。僕は兄さんに抱き上げられた。王子さまがお姫さまを抱っこするように。
 僕は驚きで目を大きく見開いて、兄さんを見た。兄さんは無言のまま、僕の長い尾ひれが入り口で擦れないように気を使いながら、ゆっくりと部屋を出て、一階へと向かった。
「に、兄さん?」
 僕は不安になり、呼びかけた。もしかしたら、このまま捨てられるかもしれない。
「兄さん?」
 僕は青くなった。魚の尻尾となった下半身では、陸に打ち上げられた魚同然で生きてはいけない。
「うるさい。黙れ。人魚は人魚形態だと皮膚、特に鱗が乾燥すると命に関わるんだよ。とりあえず、昨日の残り湯だが、風呂に入っとけ」
 兄さんはぶっきらぼうにそう答えて、器用に足で乱暴に脱衣所の引き戸を開け、風呂場に入り、浴槽に優しく僕を入れてくれた。まだ肌寒いから、昨日の残り湯と言っても、かなり冷たいはずなのに、あまりそれは感じなかった。それどころか、外にいるよりも気持ちよかった。
「僕はどうなるの?」
 僕は水に浸かる事で少し落ち着いて兄さんに聞いた。兄さんは人魚に詳しい。
「……まず、病院へ行って、人魚症候群の診断証明を貰って、それを持って、役所に行って、『虹川 公彦(にじかわ・きみひこ)』の死亡届を出す。そのあと、人魚出生届けを出して、『虹川 なんとか子(仮)』になる。それだけだ。後は自分で決めろ」
 兄さんはぶっきらぼうに答えた。そういえば、前に兄さんが言っていた。人魚になると同一人物と言う証明がないから、死んだことにされて、財産なんか全部処分されてしまうとか。僕の場合は、財産なんてないから、関係ないけど、僕はこれで戸籍上は養子になるのだ。でも、それは書類上のことで、僕には関係ない。
「兄さん……」
 僕は何かを言わなければならないと思ったが、何を言えばいいかわからなかった。だから黙り込んでいると、兄さんは風呂場から出て行った。僕は一人、風呂場に取り残された。
「どうなるんだろう。僕……」
 何気にすくった水が大きな水かきのある指の間から落ち、狭い風呂場に反響した。

 それからのことは、僕の意志はまったく関係なく進んだ。
 僕の両親は共働きなので夜遅く帰ってきた。そして、僕のことを知って、父さんは激怒した。それから、母さんを
「お前の教育が悪いからだ。お前まで働いて子供を見ていないからだ」
 となじった。母さんはわけもわからず泣き崩れたままだった。
 兄さんが二人をなだめつつ、これからの話をしようとしなかったら、何も決まらないまま次の朝になっていただろう。
 兄さんが話しているその途中でも、何度も父さんは席を立ちそうになるし、母さんは泣いてしまうし、明日一日、兄さんが付き添いで手続きや準備を整えるという事を決めるだけに、真夜中までかかった。僕はその間、何も言えなかった。まるで、ドラマを見ているようで、僕にはまるで、目の前の事は現実味が無かった。
 僕はその夜、狭くて暗い浴槽の中に窮屈に身を沈めて、眠った。その様子はまるで棺桶だけど、僕にとっては母さんのおなかの中のようで、とても安らいだ。そのとき、初めて、僕は自分が人魚になったのだなと感じた。


――『人魚化症候群』または『人魚症候群』、通称『人魚病』『マーメイド病』
 突然、数時間のうちに人間がいわゆる『人魚』の姿に変化してしまう奇病である。
 多くの学者、医師が研究を行っているが、その原因は最初の症例報告から12年経った今もって謎であり、その発病の原因、予防、治療方法は全くわかっていない。
 人魚になったものたちは、その姿のほかに、最大の特異な点として、その歌声がある。彼女らの歌声は物質を無害化する不思議な効果――『浄化作用』と呼ばれている――があり、その原理も何一つ解明されていない。



其の歌声は博愛なる福音


作:南文堂


 翌日、兄さんに付き添われて病院へ行き、診察を受けて、僕は『人魚化症候群』と診断された。でも、僕のこの姿を見て、そうじゃないと言う人がいれば、会ってみたいものだ。
 診察のときにお医者さんに根掘り葉掘り、人魚になったときの状況を聞かれた。僕はうんざりしたけど、それに答えなければ、診断書を出してくれないというので、仕方なく答えた。診断書がなければ、その後の手続きできないのだ。世の中、何かおかしい。僕が人魚なことは誰が見ても明らかなのに。
「人魚になった場合、人魚の生き血を飲むと、人間の足に戻れます」
 お医者さんは診察が終わってから、僕にそう言った。人間の脚に戻れるなんて、僕は知らなかったので、驚いた。だけど、兄さんに言わせると、あとで手渡される『人魚生活の手引き』に書いてあり、知っている人は知っている有名なことらしい。
「一時的ですがね。まあ、個人差というか、体調や感情、環境にもよりますが、数時間から十数時間で元に戻ります。それと、人間と同じ足になると一切しゃべれなくなりますが、少なくとも人魚のままよりましでしょう」
 お医者さんは気楽にそう言った。僕はお医者さんにとっては他人事で、どうしようもないことだろうけど、少し気を使って欲しいとむっとした。
「それから、人魚の姿で歌を歌うと『浄化現象』がおきますので、歌うときは充分に注意してください。浄化現象を起こすと、個人差がありますが、化学物質が分解されてしまいます。特に人工のものは分解が激しいですから、そばにある合成プラスティック製品、化繊の服などはひとたまりもなく塵と化します」
 お医者さんは僕の感情を無視して話を続けた。これは僕も知っていることだった。このために人魚は汚染された海や川、大地を浄化するために必要とされ、そして、その能力ゆえに疎まれているらしい。人間って勝手なものだと思った。
「それから、人間の足になっているときは、歌ってなくても浄化作用が身体から滲み出ます。とはいっても、その力は微弱ですので、触ったものがすぐにとか、長時間でも皮膚に触れてしまうほど近くなければ浄化してしまうこともありませんから、安心してください。念のために長時間、身に着けているもの――まあ、着衣などは天然素材のものにすることを薦めます」
 その後も説明が続いたが、ずーっと、そんな感じなので、僕はなんだか、嫌な気分になった。だから、早めに病院をあとにすることにした。
 早速、教えられたようにトイレの個室に入って、針で手の平を刺して、自分の血を舐めた。
 虹色に光る鱗が色を失って、くすんだ感じになり、尾ひれの真中に縦に溝ができ、その溝が深くなるに従って、徐々に人間の脚の形に変わっていった。
 もちろん、股間には少し盛り上がった丘とうっすらとしたヘアーがあるだけの、女の子の下半身だった。僕はわかっていたし、覚悟もしていたし、人魚になったことに比べれば、たいしたことは無いと思っていたけど、実際、見たら、結構ショックだった。
 そのとき、何故だか、告白してふられた幼馴染みの顔が浮かんだ。僕は頭を振って、そいつの顔を振り払った。
 とにかく、僕は人間の脚に戻った。これで兄さんに抱っこしてもらう必要はなくなった。こんな機会は滅多にないので、少し残念だけど、仕方ない。兄さんは人間の足に戻れることを知っていたのだろう。ちゃんと下着とズボンを用意してくれていた。
「公彦、ちょっとこっち向け」
 病院を出て、表通りに出ようとしていた僕に兄さんはそう言った。
 僕は何がなんだかわからずに言われた通りに振り向かせると、兄さんはカメラ付き携帯で僕を撮影した。正面、斜め、横、顔アップ。僕が呆然としている間に撮影を済ませてしまった。
「よしっ。弟が妹になった記念撮影完了。人魚の姿の時もいいが、陸の上では締まらんからな。それに、その姿の時は文句も言えないしな」
 僕が理由を聞こうとする前に兄さんはにこやかにそう答えた。
 僕が喋れなくなったからと言って、この兄は!
 僕は喋れなくても関係なく、口をパクパクさせるだけだが、思いっきり罵倒した。当然、兄さんは平然と受け流したが、それはたとえ喋れたとしても同じなので、別に構わない。逆に、いつもそれであげ足を取られたりするので、喋れない方がラッキーだったかもしれない。僕は強引にそう思う事にして、とりあえず、少しだけすっきりした。
「おっ。今日は短いな。それじゃあ、次は市役所だ。今日は予定満載だからな。さっさと済ませるぞ」
 兄さんは軽く笑ってそう言って、さっさと歩き出した。僕は慌てて兄さんを追った。置いていかれたら、ややこしい手続きを自分でしなくちゃいけない。僕はそんな自信はない――いや、面倒なことはごめんだからだ。だから、この際、兄さんをこき使う。それが、日頃の憂さ晴らしというものだ。
 兄さんと二人でそのまま市役所に行って、手続きをした。どういう手続きか知らないが、結構、色々な書類にサインさせられた。面倒だけど、サインだけは本人じゃなくちゃいけないのは基本だ。
 そうして、僕は『虹川公彦』として死に、『虹川季子(にじかわ・きこ)』として生まれ変わった。名前は『きみひこ』の真ん中を抜いたと言うひどく投げやりな名前と思うかもしれないが、僕はキライじゃない。むしろ気に入っている。
 そして最後に、人魚で女の子になってしまった僕の身の回りの品を揃えるためにデパートを巡って、その日が終わった。
 デパートでは、こういう場合、色々可愛い服なんかを試着させられたりするのかと思ったが、店員はサイズを測ると、奥に入って、すぐに服を何着か持って現れた。
 どれも今の僕に似合いそうな普通の女の子の服で、店員さんがセンスある人で助かった。
 それらを試着して、店員さんに服の着方を教わって、それで買い物は終わった。なんだか拍子抜けであったが、恥ずかしい格好させられなくて、僕はほっとした。
 僕は家に帰って、居間で疲れた脚をマッサージしていた。兄さんが言うには、人魚の人間形態は無理矢理そうしているので、歩いたり走ったりは人間以上にきついらしい。僕は兄さんの情報が正しいことを身をもって知ることになって、こうして、脚をマッサージする羽目になっている。でも、嫌じゃない。白くて、柔らかくて、すべすべしている脚をしなやかな指で揉むのは気持ちよかった。
 僕は気持ちいいマッサージを続けながら、ふと、明日の学校の事が心配になった。こんなひ弱な脚で大丈夫だろうかと。体育とか、学校行事とか……。
 もうすぐ春休みだから、春休みはジョギングとかして、少しは鍛えておいた方がいいかもしれない。
 学校といえば、学校にはすでに事情を説明しているので、僕は少し早く学校に行き、職員室に寄って、担任と一緒に教室に行けばいいということになっていた。それに、クラスのみんなは仲がよかったし、ほとんど僕の友達であるから、僕が人魚になってしまったことの心配はないが、脚が弱いとか、喋れないとか、そういった人魚ならではの困ったことを知っておかないととみんなに迷惑をかけるかもしれない。
 僕はそう思って、マッサージを止めて、病院で手渡された『人魚生活の手引き』を引っ張り出した。
『――人魚の脚から人間の脚になるときには、強い浄化作用が身体表面で起こるため、着衣を脱ぐことを薦めます。
 人魚の脚に戻るときは、腰の辺りに違和感を覚えるので、そのときは下着を脱いでおきましょう。戻るときに下着が人魚の脚を傷つける場合があります。
 人魚の脚は陸上ではデリケートで傷つきやすいため、地上で人魚になった場合はむやみに動かないでおきましょう。また、人魚になった時は乾燥に気をつけましょう。乾燥がひどいと呼吸困難になったり、鱗が割れたりする事があり、場合によっては死に至るケースがあります。
 人魚の時に脚を怪我した場合は、怪我がある程度治るまでは人間の脚にはなれませんので、注意しましょう。――』
 ……
 僕は冊子を閉じて、ごろりと横になった。人魚って、面倒だな。マッサージしてた時に、「人魚もまんざら悪くない」なんて思った僕はかなり軽薄だと思った。
 ……歌いたかった。
 今は人間の脚になっているので、歌うどころか、話す事もできない。たとえ、人魚の脚に戻っても、歌う事は出来ない。わかっているが、それだけに歌いたかった。それも、思いっきり。
 何故だかわからなかった。僕はカラオケにもよく行くし、歌を歌うのは嫌いじゃなかったけど、何が何でも歌いたいほど好きでもなかった。もし、人に歌がすきかと訊かれたら、「普通」と答えていたと思う。だけど、今は歌いたくて仕方なかった。
 僕はなんだかわかるような気がした。人魚となった人たちが世間を、国を、陸をすてて、海に還っていくのか。多分、歌いたいのだろう。思いっきり。
「そんなところで寝っ転がってると踏むぞ、季子」
 踏むぞといっておきながら、既に兄さんは僕を踏んでいる。両親は昨日から僕を避けているが、兄さんは変わらない。うれしいと一瞬思ったが、いじめられていることに気が付いて、その気分は吹き飛んだ。
『何か用?』
 僕は体を起こして、横座りすると、側に置いておいたスケッチブックにマジックで書いた。面倒だけど、しゃべれないので仕方ない。たとえ、手話が出来ても、相手が読み取れなければ意味もない。
「ふむ……まあ、可愛くなった分だけは、不幸中の幸いか、な?」
 兄さんは僕の問い掛けを無視して、僕の身体を見回してそう言った。視線はいやらしくはないが、なんだか服を着ていても恥ずかしくなって、両腕で身体を隠そうとした。
 僕は、背中の真ん中まで届く深い海の蒼を抜き取ったような髪で、瞳の色もそれと同じ色をしている十七、八の人魚の少女になっていた。抜けるような白い肌で、きめも細かい。ほんのりと、ももいろ珊瑚のような色に染まる頬、桜貝のような艶のある唇で、自分で鏡を見て、ひいきを差し引いても、美人と思った。それに形のいい大き目のバストと引き締まったウエスト、そこから丸いお尻とすらりとした脚につながる。多分、クラスの女子の誰よりも美人でグラマーだと思う。
 兄さんが可愛くなったと言うのもわかる。だけど、それとこれとは別でである。
『何か用?』
 もう一度、僕はスケッチブックを兄さんの目の前に押し出して、マジックで書いた文字を指差した。
「せっかちな奴だな……まあ、いい。用というのは、海に還るなんて言い出すなよ。少なくとも、学校卒業するまではな」
 僕はどきりとした。さっき、それも悪くないと思っていた。
「季子がそうしても、俺は止めはしない。それも一つの選択肢だ。だけど、よく考えてからにしろよ。だから、学校を卒業するまでは我慢しろ」
 兄さんは僕のことを心配しているのかもしれない。僕はちょっと兄さんを見直した。
「それじゃあ、そろそろ寝ろ。どうせ、今夜は寝不足になるんだからな」
 僕は兄さんの言葉の意味が最初はわからなかったけど、兄さんは含み笑いをして、居間から出て行ったのを見て、意味がわかって、顔が紅くなるのを感じた。とりあえず、手元にあったクッションを兄さんの背中に投げつけた。
 前言撤回。兄さんはやっぱり、デリカシーのない、人でなしだ。

 僕は次の朝、起きる予定の時間を少し寝坊したが、それでもいつもよりかなり早く起きた。
 起きてすぐにシャワーを浴びた。水に触れるのがこんなに気持ちいいのは不思議だけど、僕は人魚になったのだから、そう感じるのは当然かもしれない。
 シャワーから出ると張りのある肌が水を弾き、軽く身体を拭くだけで充分だった。そうして、脱衣所に置いていた下着を両手に持って広げた。もちろん、女の子のものだ。この姿で、男物を着たら、変態だ。僕としても、こんな可愛い娘が男物の下着を着ている姿を鏡越しでも見たくはなかった。
 それはわかっているのだが、女の子の下着はなんだか恥ずかしい。しかも、いざ自分がつけるとなると、なんだか変態な気がする。でも、着ないわけにもいかない。昨日、デパートでつけ方は習った。着てしまえば、女の子の下着も悪くはない。というか、女の子の身体に合わせて作っているのだから、悪くないわけはない。ブラジャーなんかは、胸を締め付けるけど、胸が変に揺れたりしないので、痛くなくていいし、自分が女の子であることを嫌でも意識させてくれるので、この格好で醜態を晒さないのにはうってつけだと思う。
 だけど……
 しばらく、脱衣所で下着を持って悩んでみたが、寒くなったので、覚悟を決めてつけることにした。お尻を包む柔らかい布。胸を支える滑らかな布。素材はシルクと女の子初心者にしては贅沢品たかだか、人魚だから仕方ない。こんなのをつけるのに、何を悩んでいたのかと、僕はさっきまでの僕が馬鹿らしく思えた。
 僕は部屋に戻って人魚用の学校制服を手に取った。普通の学校指定の制服だと、化繊が入っているために人魚には向かないらしい。人魚の場合、制服はセーラー服かブレザーのどちらか全国統一の制服を着ることが許されているという。
 僕は店員にしてもらった説明どおりにセーラー服を着て、スカートを穿いた。なんだか、足元が心もとないが、制服だから仕方ない。それに、ズボンと言うのは女性用はすごくラインが見えて、かえって恥ずかしかったりするし、人魚になってしまうときにズボンだと大変なので、スカートのほうが都合がいい。いざという時は、下着だけ脱げばいいが、ズボンだと両方下ろさないといけない。
 そうこういっている間に、僕は学校へ行く支度を完了したので、階下の居間へと降りることにした。
 台所では兄さんが朝食の用意をしていた。父さんと母さんはすでに仕事に出かけているので、これがうちのいつもの風景である。とはいえ、ちょっと寂しかった。せめて、今日ぐらいはいて欲しかった。
「おはよう、季子」
 僕は「おはよう」と言おうとしたが、口をパクパクさせて肝心の声が出なかった。ああ、そうだった、声が出ないんだった。僕は仕方なく、会釈した。
「しゃべれないのだから、せめて、表情ぐらいは愛想よくしろよ。それじゃあ、機嫌が悪く見えるぞ」
 兄さんは僕に注意した。確かに、今までは声の調子が機嫌を表していたけど、これからは表情になるから、悔しいけど兄さんの言うとおりかもしれない。
「それじゃあ、練習だ。もう一度、――おはよう、季子」
 兄さんは僕の表情を読み取ってか、もう一度挨拶した。僕はなんだか、改めて、愛想よく挨拶するのがすごく恥ずかしくて、顔を紅くして、さっきより深くお辞儀しただけだった。
「秋葉原で、『きこちゃん、もへぇ〜』とか言ってもらいたいのか? 猫耳カチューシャと付け猫尻尾なら貸すぞ。それが嫌なら、もう一度、――おはよう、季子、今日もいい天気だね」
 兄さんはもう一度、挨拶した。兄さんの性格上、これで僕がちゃんとしないと、放っておかれることになる。別にそれはそれで構わないけど、なんだか悔しいし、さびしい。僕は、出来るだけ引きつらないように笑顔を作って、軽く会釈した。恥ずかしかったけど、自分でも上手く出来たと、内心ほっとした。
「表情がまだ硬いが、まあ、いいだろう。その笑顔を忘れるなよ。お前は人魚になったんだからな。肝に銘じておけよ」
 兄さんはそういいながら、テーブルにご飯に味噌汁、目玉焼きと野菜サラダを並べて、僕に朝食を促した。
 僕は兄さんの言葉の意味がよくわからなかったが、詳しく説明を聞くには時計の針は回りすぎていたので、少し行儀悪いが、飲み込むように朝食を胃に押し込んで、席を立った。
 いってきます。
 と言えないのが辛いところだけど、僕は兄さんに手をふって、玄関の扉を開けた。
 さあ、これが僕の人魚としての第一歩だ。

 女装して表を歩くには、かなり恥ずかしかった。他人にとっては、僕はどこから見ても女の子なのだろうけど、僕的には自分の姿が見えないから何も変わらない。道路の端っこの方を少し足早に歩いて、誰にも見つからないようにしようとしたけど、無駄な努力だった。朝が早いといっても、僕にとってであり、世間ではさほど早くないらしい。通りには、通勤のサラリーマンや少し遠い学校に通う学生と、そこそこ人通りがあった。
 誰にも見つからないなんて無理なんだろうな、と僕は思って、ため息をつこうとすると、ふと視界の端に人影を感じた。見られる事に神経過敏になっていた僕はすぐにそちらを向いた。けど、その影は表通りのショーウィンドウに女の子の姿が映っていただけだった。
 ほっと安心すると同時に、そのショーウィンドウに映った物憂げな女の子に僕は少し胸がときめいてしまった。でも、すぐにそれが自分が映った姿と気がついて、なんだか可笑しくなって一人で微笑んだ。
 僕は再びときめいてしまった。
 笑顔を浮かべる僕は文句無しに可愛かった。華やいだ感じがして、僕が男だったら、コロっといってしまいそうなぐらい可愛かった。
 そうか、僕は他人にしてみれば、女の子なんだ。それも飛びっきり可愛い。じゃあ、何もこそこそ歩く必要はないじゃないか。
 僕はなんだか気が軽くなった。知り合いになら話は別だが、すれ違う人はほとんど、あった事もない人だし、あった事があっても、僕が人魚になった事は知らない。今の僕を見て、僕だと思う人なんて、よっぽど想像力豊かか超能力者ぐらいだ。
 僕の足取りは軽くなった。スキップしなかったのが不思議なぐらいだ。それまで見られる事は苦痛だったけど、今となっては嬉し恥ずかしの快感だった。よく見ると、僕を見る目は――特に男の人は、呆けたようで、なんだか面白い。僕を見ていた同い年ぐらいの男子高校生と目を合わせて、にっこりと微笑み返してみたら、真っ赤になって、慌てて持っていた参考書を読む振りをした。上下が逆なのにも気がつかないなんて、ギャグ漫画みたいだ。
 そんな事をしている間に、僕は学校の校門に着いてしまった。もう少し遊びたかったけど、明日もあるので未練はなかった。それよりも、ここから先は僕を知っている人間がいるところだと思うと、緊張した。でも、僕が僕とわかる人間なんていないということを思い出して、堂々と思い切って校庭の真中を校舎に向かって歩き出した。
 堂々と言っても、内心は緊張しまくっていたから、膝が笑いそうになっているのを誤魔化すようにゆっくりと静かに歩かないといけなかったけど。何とか、こけずに歩けた。
 少し余裕が出てきて、クラブの朝練をしている連中が僕のこと噂しているのが聞こえた。本人達は聞こえていないつもりだろうけど、人魚になると耳がよくなるみたいで、小さな声でもよく聞こえる。どうやら、僕のことは転校生と思っているみたいで、僕とは気がついていないみたいだ。
 それにしたって、可愛いなんて、照れるな。可愛いなんて言われたら、男としては侮辱だけど、今はなんだか照れくさい。でも、まあ、可愛いんだから、しょうがないか。
 僕はいい気分で校舎に入って、そのまま、職員室に向かった。
 担任の黒岩先生は僕のことを見たら、どう思うだろう? やっぱり、可愛いと思うかな?
 僕は職員室に向かう短い廊下の間に、先生に僕のことをどう思うかを訊いたら、どんな反応を示すかを勝手に想像して、可笑しくなって、声は出ないけどクスクスと笑った。
 僕は職員室の前に立って、扉をノックした。中から少し威圧的な声で返事が返ってきた。
 地理の大久保先生だ。さすがに暴力はふるわないけど、僕ら生徒をよく怒鳴る。特に機嫌の悪い時はちょっとしたことで怒鳴られる。苦手な先生だけど、ここで引き返すわけには行かない。中には黒岩先生もいるだろうから、ちょっとの我慢だ。
 僕は扉を開けて、お辞儀して、職員室に入った。
「なんだ、お前は? うちの制服じゃないな。他校の生徒が何の用だ? それに、お前は部屋に入る時に挨拶も出来んのか!」
 大久保先生が肥った身体をゆすって立ち上がり、あからさまな嫌悪の表情を浮かべて、僕に怒鳴った。
 挨拶しろといわれても、僕は今、喋れない。そう言おうとしたが、声の出ない事を思い出して、カバンの中からスケッチブックを取り出そうと、カバンを開けようとした。
「なんの用か知らんが、とっとと出て行け」
 大久保先生は僕の側までやって来て、僕のさっき入ってきた扉を開けて、僕を突き飛ばすように廊下へと追いやろうとした。僕は首を横に振って、事情を説明しようと、スケッチブックを急いで取り出そうとしたけど、急ごうとすればするほど、上手くいかない。
 そうこうしているうちに、僕は大久保先生に軽く肩を押された。僕は一昨日までだったら、そんな事をされてもどうともなかったのだろうけど、今は人魚で女の子だから、思わずよろけて、敷居の段にかかとをつまずいて、転んでしまった。
 僕は思いっきり、尻餅をついて、目から星でも出そうなほど痛かった。
「あっ……」
 大久保先生は「しまった!」という顔をしていた。それから、そんなに強く押した覚えはない、軽く当っただけだ。とか、言い訳をしている。僕はそんな言い訳なんて聞きたくない。無視して、顔をそむけると、スケッチブックを取り出そうと開けていたカバンから、教科書や学校に提出する書類や筆記用具が廊下に散乱した。
「もしかして、虹川か?」
 大久保先生の背後から誰かがひょっこりと顔を出して、僕に訊いた。その人はセルロイド黒縁眼鏡越しに心配そうに僕を見ている。少し痩せた中背のちょっと気の弱そうな青年にみえる――僕の担任、黒岩先生だ。
 僕は安心して泣きそうになった。でも、泣くのはさすがに恥ずかしいので、我慢した。それから、廊下に散らばったノートや教科書、書類などを拾って、カバンに詰め込み、スケッチブックにマジックで、
『はい。虹川です。黒岩先生。人魚になったので、人間の姿の時はしゃべれないんです』
 出来るだけ大きな文字ではっきりと書いて、二人の目の前に出した。
「それならそうと早く言わんか。まったく、人騒がせなっ」
 大久保先生はそう言うと、憮然と自分の席に戻っていった。
「いやぁ。悪かったね、虹川。まさかこんなに早く来るとは思ってなかったんで。すまなかった。それに、すっかり可愛くなって、とても虹川とは思えなかったよ。あはははは」
 黒岩先生は僕に笑ってそう言って、職員室のソファーに座ったので、僕もその向かいに座った。
 僕は兄さんの用意した書類を入れた封筒を黒岩先生に出すと、先生は書類の確認をして、それを脇に置いた。
「しかし大変だったな、虹川。まさか、人魚になるなんて思ってもみなかっただろう。辛いことがあるかもしれないけど、頑張れよ。先生も応援してるぞ」
 僕は人魚になって初めてかけられた暖かい言葉に胸の奥が熱くなった。思わず涙が出てきそうだ。やっぱり、先生は先生だ。兄さんにも先生の爪の垢を煎じて朝昼晩と飲んでほしいぐらいだ。
 僕は先生にありがとうと言おうとしたが、また喋れないことを忘れて口をパクパクさせてしまった。
「なんだ?」
 黒川先生が怪訝な顔をしている。僕は慌ててスケッチブックに『ありがとうございます。とってもうれしいです』と走り書きをした。黒川先生が少し困ったような顔をした。きっと恥ずかしいのだろう。面と向かってお礼を言われたら照れるよね。

「――と、まあ、学校での注意事項はそんなもんだ。さて、そろそろ、教室に行こうか」
 先生は、僕に学校が僕を女子生徒として扱うことや、人魚ならではの禁止事項などを説明し終わると、立ちあがって、教室に向かおうとした。僕はかばんの中にスケッチブックを押し込んで、急いで後を追った。
 僕は先に歩いている先生に必死になってついていった。
 男だったときに先生の歩く速さが速いなんて感じたことはなかったのに、やっぱり、人魚になって脚力がなくなったし、女の子になって歩幅が狭くなったから、そう感じるのだろう。これからはこういうことに慣れないと……やっぱり、明日からでもジョギングしよう。みんなと歩くのに置いていかれたら、いやだし。
 僕はそう考えながらも、まだ肌寒い春先なのに、汗がにじむほど急いだので、そんなに遅れずについていくことができた。
 教室についたときは少し息が切れていたけど、別にしゃべるわけじゃないので構わなかった。
 黒岩先生がちらりと僕のほうを振り返って、僕のいることを確認すると、何気もなく教室のドアを開けた。
 まだ心の準備が!
 僕は心の中で悲鳴を上げたが、もう、開いてしまった扉はどうしようもない。僕は先生の後について、教室に入った。
 せっかく、先生において行かれないように小走りになって火照った身体が少し落ち着いてきたところなのに、先生のせいで、鏡を見なくても自分が真っ赤な顔をしているのがわかるほど、顔が熱かった。
 先生のばかっ! 一言ぐらい言ってくれたっていいじゃないか。
 僕は真っ赤な顔をクラスのみんなに見られないように俯いて、不満に心いっぱいになりながらも、教壇の横、先生の横に立った。
 不意に僕はクラスのみんなの視線を感じて、真っ赤な顔から血の気が引いた。そうだ。僕は女装してみんなの前に立っているんだ。通学路や校庭では僕が僕と知ってる人はいなかっただろうけど、ここには僕を僕と知っているみんながいる。僕はそれに気がついてしまった。ああ、僕の馬鹿! 何でそんなことにも気がつかなかったんだ。先生が何かみんなに話していたみたいだが、何を話しているか全然聞いてなかった。
「――わ。……かわっ! 虹川!」
 僕は先生に呼ばれているのに気が付いて、思わず顔を上げてしまった。クラスのみんなが僕を見ているのに気がついて、怖くなって、どうすればいいかわからなくなって、隣にいる先生に救いを求めて見上げた。
「それじゃあ、黒板に書いて、自分で自己紹介できるな、虹川」
 黒岩先生は僕の救いの視線に気が付かずにそう言った。
 僕は首を横に振りたかったけど、そんな事をすれば、みんなに変な奴と思われる。人魚になったというだけでも充分なのに、これ以上変だと思われたら、絶対みんなに嫌われちゃうに違いない。
 僕はどうしようもなく、みんなに背中を向けて、黒板に向いた。みんなの顔を見なくて済むからいいかと、一瞬、思ったけど、背中にみんなの視線を感じるような気がして、余計怖くなった。
 でも、僕は勇気を振り絞って、チョークを手にとって、できるだけ手を伸ばして、高く、そして、できるだけ大きい字を黒板にチョークで書いた。
『虹 川  季 子
 にじかわ き こ

 人魚になって しゃべれなくなって 速く走ったり
 飛んだりはねたりとか あんまりできなくなって
 みんなに迷惑かけるかもしれないし
 女の子になってて 変に見えるかもしれないけど
 これから よろしくお願いします』
 僕はそう書いて、チョークを置くと、回れ右して、みんなに向かって、できるだけ深くお辞儀した。
 僕にはもうそうするしか他はなかった。
 僕は頭を下げすぎて、次第に血が頭に昇り、意識が朦朧となりつつも、震えようとしている膝を必死に我慢させた。
 どれだけ時間がたっただろう?
「虹川」
 僕は誰かに呼ばれたような気がして、顔を上げた。すると、僕の一番仲がよかった友達の武田君がちょっと困ったような表情で立っていた。
 僕は絶交されるのじゃないかと、緊張した。
「あー、なんだ。俺はお前の友達だし、これからも友達でいるつもりだ。これからもよろしくな」
 武田君はそれだけ言うと、さっさと着席した。
 茶髪で格好つけで、バンドを始めた理由が女の子にもてるからとか言うような、こういう青春ドラマみたいなのが嫌いな武田君がそんな風に言ってくれるなんて、僕はとても信じられなかったけど、それが間違いなく本当だとわかると、涙が出てきそうになった。
「私たち女子も虹川君、いえ、今は虹川さんね。歓迎するわ。これからもよろしくね、虹川さん」
 武田君の言葉の余韻が抜けきらないうちにクラス委員長の河野さんが立ち上がって、にっこりと笑って、そう言ってくれた。
 僕は泣くのは恥ずかしいから泣かないでおこうと思ったけど、もう、恥ずかしいなんてどうでもいい。みんなの優しい言葉がとっても嬉しい。僕は声が出せたら、きっと大声を上げて泣いていただろう。
 頬を伝う涙が熱かった。僕は幸せ者だ。こんなクラスメイトに出会えて。ああ、もし、歌っていいのなら、この気持ちを歌いたい……

 人魚になっても、授業はやっぱり退屈だった。
 三学期も終わりに近づき、学年末考査も終わってしまえば、授業など聞くに値しない。授業の内容は学内の試験に出ないし、それにやっている内容はどうでもいい事なので、大学受験にも関係ない。もしあったとしても、塾や予備校でやってしまっている事ばかりである。学校の成績は内申書や推薦を取るためだけの形だけのものだ。だから、生徒も先生もやる気はない。
 クラスのみんなも僕と同じように退屈を持て余しているか、予備校の予習など、内職をしている人ばっかりだ。
 僕は窓から差し込む春めいた陽射しに眠くなるのをこらえるのにちょっと努力していた。さすがに寝てはまずい。
 一昨日まで僕の席は廊下から三列目の前の方だったけど、今日からは窓際の一番後ろになっていた。しかも、隣の席や前の席とも、普通よりも離れているので、ちょっと離れ小島のようで、一番後ろの席だとは言え、結構目立つ。
「これは別に差別をしているわけじゃないんだ、虹川」
 ホームルームの時間に黒岩先生は僕にそう言って、この席の説明をしてくれた。
「人魚になると、その……人の姿でいる時は周りを無意識のうちに『浄化』してしまうと聞いている。『浄化』自身はとても素晴らしい能力だとは思うが、その、なんだ……日常生活で『浄化』されては困るものも多いのもわかるよな、虹川?」
 黒岩先生の言うことに僕は素直に頷いた。クラスのみんなの制服やカバンとかを無意識とは言え、『浄化』しちゃうのは、まずい。
「そうか。わかってくれたか。さすがは虹川だ。お前はみんなのことを考える優しい奴だからな」
 黒岩先生はホッと胸をなでおろして安心してくれた。
 僕はそのことを思い出して、少し嬉しくなって、自然と顔が緩んだ。
 黒岩先生は僕のことをちゃんと見ていてくれたのだ。高校二年のこのクラスもあと残りわずかだけど、先生やクラスのみんなの僕への期待を裏切らないように頑張ろう。
 僕が決意を新たにしている間も、退屈な授業は無関係に進んでいった。

 僕が教科書を出し終わるとほとんど同時に次の授業のリーダーの笹岡先生が入ってきた。
 笹岡先生は女の先生だけど、オッサン顔で、しかもメリハリのない平べったい顔なので、生徒の間では『笹カマ』と呼ばれている。
「起立、礼、着席」
 委員長の号令で授業開始の挨拶を済ませると、笹カマは自分の世界に浸るように授業を始めた。やっぱり、退屈だ。
 僕は退屈を我慢しながら授業を聞いていたけど、不意に机の中のスケッチブックが手に当って、さっきの休み時間のことを思い出した。
 さっきの退屈な一時間目の授業終了のチャイムが鳴り、委員長の号令で礼を済ませると、先生はそそくさと教室を出て行き、みんなは好き勝手に歩き回っていた。いつもの教室の休み時間だった。
 僕はいつもはみんなと同じように友達と話したりして歩き回るけど、今日は机の中にスケッチブックを待機させて、席に座ったままでいた。
 というのも、人魚になった感想なんかを聞かれるかもしれないからだった。
 喋れないので、筆談になるからあまり早く答えられないかもしれないけど、できるだけ答えれるように頑張ろうと気合を入れていた。
 だけど、休み時間が終わろうとしていても、誰も僕のところにやってこなかった。僕はなんだか拍子抜けになって、気合を入れていた僕が馬鹿みたいに思えた。
 多分、僕が喋れないので、みんなが質問に殺到すると僕が困るだろうと、クラスのみんなで話がついているのかもしれない。もしそうなら、僕のことを思ってくれての事だろうけど、ちょっと余計なお世話だ。僕はそんなの全然困らないのに。
 僕は少しがっかりした。だけど、これもみんなの優しさだと思うと、嬉しくも思える。
「――はい、結構よ。それじゃあ、次は、三月十六日だから、出席番号、十六番の虹川君。続きを読みなさい」
 僕は自分の名前を呼ばれて、現実に引き戻された。
 しまった! 今は授業中だったんだ。しかも、一番ボーっとしちゃいけない授業だったんだ。
 笹カマは自分の授業で内職されたり、寝られたりするのが大っ嫌いな先生で、試験が終わったこの時期でも気を抜いていると容赦なく減点する。
 僕は目だけ動かして、隣の机を覗こうとしたが、遠い上にどこを読めばいいかも指差して教えてくれなかった。教えたことがバレれば、一緒に減点されるから教えてくれないのも仕方ない。大体想像はつくので見当をつけて、読もうかと思ったが、間違っていたら、素直に「わかりません」というよりも減点がでかい。僕のリーダーはあまり成績がよくないので、減点されるのはかなり痛い。
 僕がどうしようか迷っていると、笹カマの目がだんだん怒りを含んで、眉尻が上がってきた。
 まずい! 早く、わかりませんと言わなくっちゃ。
 しかし、僕が「わかりません」と言うよりも先に笹カマの口が動いた。遅かった……
「もう、いいわ! 授業を聞いてなかったんでしょう? やる気がないなら、帰りなさい! 試験は終わっても、授業は終わってないのよ。人魚になったからって、甘えは――」
 笹カマは突然、怒鳴るのを止めて、赤くなった顔を青くした。怒鳴りすぎて、血管でも切れたのだろうか?
「……に、虹川さん。私はそういうつもりで言った訳ではないのよ。つい……そう、つい、いつもの調子で、うっかりしていたわ。悪気はなかったのよ。日が浅いから、私もあなたと同じで慣れていないのよ。わかってくれるわね?」
 笹カマは僕に突然言い訳し始めた。最初は何の事かわからなかったけど、すぐに僕が人魚だった事を思い出して、納得した。そうだ。この姿の時は喋れないのだ。
「もういいわよ。座ってちょうだい。えーと、それじゃあ、代わりに十七番の根岸君。続きを読んで」
 笹カマはその場から逃げ出すように、僕の代わりを指名して、授業を進めようとしていた。
 僕は内心、ざまーみろと思いながらも顔には出さずに静かに席についた。僕の代わりになった根岸がたどたどしく教科書を読み始めた。
 こうして、また、いつもの授業の風景に戻った。
 窓から入る陽射しが結構、暖かい。こんな陽気だと眠くなって仕方がない。だけど、それはまずいので、僕はあくびを噛み殺して、睡魔に耐えた。
 こうなると当らないとわかっているのは、なんだか気が抜けて、ちょっと辛いものがある。

 二時間目と三時間目の間の休み時間は少し長めだから、もしかしてと質問にくるかなと思ったけど、どうやら、それもないみたいだった。
 僕はなんだか、みんなに仲間外れにされているような気になって、怖くなった。
 朝のホームルームで僕を優しい言葉で迎え入れてくれたクラスのみんながそんな事するはずないことはわかっているけど、やっぱり、人魚になったということで、僕自身に引け目があるのかもしれない。
 僕はこのままだと、いじけてしまいそうな気がして、とにかく誰かと一緒に居たかった。
 教室を見渡すと、武田君がこちらに背中を向けて他の友達達と話をしているのが見えた。
 僕は迷わずにスケッチブックとペンを持つと席を立って、武田君の方へと近寄っていった。
 武田君は僕には気が付いていないらしく、夢中で話をしていた。武田君がこれだけ盛り上がっているのなら、きっと女の話だろう。また、ナンパに成功でもしたのかも知れない。僕も早く武田君の話を聞きたい。
 そうだ。どうせなら、武田君を脅かしてやれ。
 僕は不意に悪戯心が芽生えて、教育指導の先生がよくやる、エンマ帳で生徒の肩を叩くようにして、スケッチブックで武田君の肩を軽く叩いた。
「おわっ!」
 武田君は座っていた机から落ちそうになりながら驚いて振り返って、目を見開いてこっちを見ている。よっぽどびっくりしたのだろう。僕とわかっても、まだ目を丸くしたままだった。
 ふふふ、大成功だ。
「な、なんだよ、に、虹川。何か用か?」
 武田君はちょっとらしくないぐらい声がひっくり返っていた。武田君は悪そうに見えるけど、結構、小心者なんだ。
『用ってわけじゃないけど なに話しているのかなと思って』
 僕はくすくすと笑いながらスケッチブックにそう書いた。
「何って……いわれても、なぁ」
 武田君は言いにくそうに、それまで話していた友達たちに同意を求めた。その友達たちも同じように困った顔で黙ってうなずいている。
『どういうことだよ?』
 僕は仲間はずれにされているのかと、ちょっとむっとした。
「いや、そういうわけじゃないんだけどよ。ただ……わかるだろ? お前の今の姿って、どう見ても、女なんだよな。お前が虹川なのはわかっているけど、いつもやっているような話を女の前でするのはさすがに……わかるだろ? 虹川、そういうの。お前も男だったわけだし」
 武田君は僕にそう説明してくれた。それなら、僕にもわかる。確かに、女の子の前でワイ談するのは気が引けるというか、あまりしたくないと言うか、はっきりしたくない。
『ごめん 気が付かなかった』
「わりぃな」
 武田君は片手で僕を拝んで僕に謝ってくれた。僕はこくりとうなずいて、それに答えて、素直に自分の席に戻った。
 武田君は僕のこの姿に慣れていないだけで、この姿にもう少し慣れたら、きっと前みたいに話ができるようになれると思う。なにせ、僕と武田君は親友だから。
 僕は席に戻ると、する事もないので、仕方なく日差しの入る窓の外を見た。日差しはあったかくても、外は風があって寒いらしく、次の体育の準備のためにグラウンドに出ている別のクラスの人たちが背中を丸めている。でも、その中で一人だけ、元気一杯で、てきぱきと他の生徒を指示して準備を進めている女子がいた。僕は自然とその女子を目で追った。
 美布由(みふゆ)だ。
 僕はすぐにその女子が誰だかわかり、なんだか息苦しくなって、窓の外を見るのをやめた。
 美布由は僕の幼馴染だった。明るくて元気で、美人で、誰にでも優しくて、面倒見もよくて、みんなの人気者だ。でも、本当はそんなことはない。僕が人魚になったことは知っているのに、見舞いにも来なかったし、電話もかけてこなかった。僕をふった手前、来にくいのはわかるけど、それでも、幼馴染なら見舞いにぐらい来てもいいじゃないか。
 美布由の優しさなんて、クラスのみんなの優しさに比べたら、上っ面だけのものだったんだ。幼馴染の癖にそれに気づかないなんて、僕はバカだった。そんな奴を好きになるなんて、僕はオロカ者だ。だけど、そんな奴にフラレて、僕は運がいい。
 そうだ。僕は運がいい。だって、こんなにいいクラスメイトに囲まれて、しかも、美布由なんかよりもグラマーで美人になれた。髪だって、美布由自慢の髪よりこんなに長くて綺麗だ。今度、見せ付けてやろう。美布由も元男に負けて、さぞ悔しがるだろう。いい気味だ。
 僕はそう思いながら、自分の髪に触れて、あることを思い出した。
 どうも息苦しいと思ったら、髪を濡らすのを忘れていた。
 人魚は水中でエラ呼吸、空気中で肺呼吸ができるけど、肺もエラも少し能力的に体を維持するのに不足しているそうだ。そして、それを補助するために髪の毛でも呼吸ができるようになっているらしい――髪呼吸と言われているそうだ。そのため、人魚はみんな長髪らしいけど、僕以外の人魚に遭ったことはないから、本当かどうかは知らない。
 その髪呼吸を上手くするためには髪の毛が少し濡れていないといけないそうだ。とはいっても、水が滴るほどじゃなくて、湿っている程度でいいらしい。まるで、河童の皿みたいだ。
 僕はカバンの中から園芸用の飾りっ気もない霧吹きを取り出して、髪に吹きかけていった。
 人魚生活の手引きには濡れたタオルで髪の毛を湿らせると書いてあったが、兄さんがそれでは上手く濡れてくれないし、すぐにタオルが乾いて役に立たなくなると言って、霧吹きを用意してくれたのだ。
 兄さんの事だから、「女の子らしく」とか言って、香水を吹きかけるようなのを持ってくるかと思ったが、意表を突かれた。確かに、香水を吹きかけるようなのは嫌だが、こうなるともう少しデザイン的なものがよかった。なんだか、これじゃあ、僕がサボテンみたいだ。
 心の中で文句を言っている間に僕は髪の毛を濡らし終わった。少し呼吸が楽になったような気がしたので、満足して、霧吹きをカバンに戻した。
 人魚も色々大変なのだ。だから、それに気を使わない美布由は冷たいのだ。

 僕は困っていた。
 本当は別に困る必要もない事だけど、「それじゃあ、はいそうですか」と解決するほど単純じゃない。複雑な事情なのだ。
 ――つまり、トイレに行きたい。
 授業が終わる十分前ぐらいに急に行きたくなった。でも、授業中に手をあげて、トイレに行くなんて恥ずかしい事はできないので、授業が終わるまで何とか我慢した。そこまではよかったのだけど、問題はそこからなのだ。
 学校にトイレは女子用を使うように言われている。僕は外見も中身も人魚と言う事を別にしたら、まるっきり女の子だから仕方ない。この姿で男子用を使ったら、僕もさすがにまずいと思う。学校側も、男子生徒に変な気を起させてはいけないと思っているし、僕も起こして欲しくはない。それはわかるけど、問題は女子だ。
 あたりまえだけど、僕は一昨日まで男だった。クラスの女子は僕を受け入れてくれると言ってくれたけど、僕にトイレの音を聞かれるのはさすがに恥ずかしいのじゃないかと思う。そんなので、嫌われたらいやだし、僕もなんだか気まずいから嫌だ。
 だけど、このまま我慢できるものじゃない……どうしよう……。
 そうだ!
 僕は名案を思いついた。
 ここの教室は二つ向こうにトイレがある。だから、クラスのみんなは一番近いそのトイレを使っている。それなら、そのトイレとは反対側の遠い方のトイレに行けばいいのだ。
 そこのトイレを使っているクラスの女子とは顔を合せる機会は少ないし、それなら気まずくない。
 僕はそう思ったら、もう我慢できずに、急いで席を立って、いつもと反対側のトイレに急いだ。
 ちょっとだけ遠いだけなのに、妙に遠く感じる。急ぎたいのは山々だけど、あまり急ぐと漏れそうだ。女は男よりも我慢しにくいみたいで、僕は下半身に全神経を集中して小股で歩いた。
 女子トイレに入るのは抵抗があるなぁ。と、学校から女子トイレを使うように言われた時は思ったけど、もう、そんな事を考える余裕は僕にはなかった。女子トイレの扉をためらいなく開けて、中に入った。
 中に入ると、壁はピンクのタイルで男子みたいに小便用便器がない。それ以外は見慣れた学校のトイレだった。ちょっと独特な匂いがするような気がするけど、そんなことは、今はどうでもいい。僕は空いている個室を見つけて、その中に飛び込んだ。ドアを閉めて、下着を下ろし、しゃがむと同時に勢いよく我慢していたものが噴き出した。
 女の子のトイレは初めてじゃなかったけど、まだ数回しかした事がない。だから、この感覚に馴染んではいなかったので、なんだか変な気がする。でも、今は溜まったいたものを出す快感の方が上だった。この快感は男も女も同じなんだななんて、しみじみ感じてしまった。
 僕は事が済んで、やっと一息つけた。そうすると、濡れた股間がなんだか気持ち悪い。トイレットペーパーで丁寧に拭いた。
 いちいち拭かないといけないのは男の時とは違って面倒だ。だけど、僕は女の子になったのだから、仕方ない。
 僕は水を流すと個室から出て、手を洗い、ハンカチで拭きながら振り返ると、女子たち、何人かに囲まれていた。
 その囲んでいるいる真正面に立っているのは、僕のよく知っている女子、美布由だった。しかも、怒っているみたいだ。僕はちょっと腰が引けた。情けないと思わないで欲しい。美布由は滅多に怒らないので、怒ると怖いのだ。
「何してるの?」
 美布由は僕に向かって、冷たい声でそう言った。いつもみたいに愛想のいい言い方じゃなかった。
 僕はトイレをするだけなので、スケッチブックもメモもペンも持ってきていないので、喋れない事を伝えるのに、必死に口を指差して手を振った。
「ああ。喋れなかったのね。じゃあ、手に書きなさい」
 美布由は僕の方に手の平を上にして出してきた。美布由の後ろの女子達も美布由の迫力に後退っていた。その気持ち、よくわかる。僕もちょっと後ろに下がりたい気分だ。だけど、ここで下がれば、美布由の怒りを更に買うのはわかっていたので、僕は勇気を振り絞って、美布由の手を取った。
 僕は美布由の手の平に『ト・イ・レ』とゆっくりはっきり書いた。
「トイレぐらい誰でもわかるわよ。二組のあなたがどうしてこっちのトイレに来てるのか訊いてるのよ」
 美布由ははっきりと不機嫌な顔をして僕にそう言った。
『はずかしいから』
 僕は再び、美布由の手の平にそう書いた。
「はずかしい?」
『クラス 女子 つかうから』
「同じクラスの女子が使うから、恥ずかしいって事? それなら、どうして私たちなら恥ずかしくないって事になるのよ? ともかく! あなたは二組なんだから、二組に近いトイレを使いなさいよ。こっちのトイレに来られたら、みんな迷惑なのよ。わかった?」
 美布由は僕をまくし立てるようにそう言って、少し身体を開いて、扉への道を開けてくれた。喋れない僕には上手く反論を言う暇も手段もないから、大人しく出て行くしかなかった。
 僕はなんだかよくわからなかったけど、打ちのめされた気分になって、足が重かった。
 一昨日、人魚に――女の子になったばっかりの初心者だぞ。女子のトイレに縄張りがあるなんて知らないのなんて、当たり前じゃないか。それに、たかだかトイレぐらいであんな言い方をしなくてもいいじゃないか!
 ……そうか。美布由は僕が他のクラスの女子のトイレを覗きにきたと思ったんだ。僕がそんな事するわけないじゃないか! 幼馴染のクセにそんな事もわからないなんて、美布由は僕の何を見てたんだよ。というか、僕をそんな風に見てたんだな。くそっ! 美布由のバカっ!
 僕はとぼとぼと廊下を歩きながら、次第に膨らんできた美布由に対して恨み言を心の中で呟いていた。教室に戻る頃には恨みは怒りに変わっていて、それが収まらない。おかげで次の授業は何をしてたか、全然憶えていない。
 これもみんな、美布由が悪い。そうだ。美布由がみんな悪いんだ。僕が人魚になったのも、美布由にふられたのも、みんな美布由が悪いんだ。

 午前中の授業が終わり、お昼休みになって、お弁当の時間になった。だけど、僕は誰と食べればいいんだろう?
 いつもは武田君たちと食べていたけど、さっきの休み時間に言われたように、一緒に食べるわけにはいかない。かといって、一人で食べるのはなんだかわびしい。僕の両親は共働きなので、一緒に食事するのは休みのときぐらいで、兄さんと二人で食べる事が多い。兄さんがバイトなど用事で帰って来れない時は一人で食べるのだけど、僕は一人の食事が嫌いだ。全然ご飯が美味しくない。だから、学校でのみんなと一緒に食べるお昼ご飯は僕の一番の楽しみだったりする。
 武田君たちにお昼ご飯だけ、一緒にいさせてもらえるようにお願いしようかな?
 僕が迷っていると、人影が目に入った。顔を上げると、クラス委員長の河野さんがすぐ側に立っていた。河野さんは細いけど、顔色もあんまりよくなくて、ちょっと病的な感じで、お世辞にも美人じゃないけど、勉強はめちゃくちゃできて、学年トップとかも何度もとった事がある。先生達も一流国公立も大丈夫と期待しているし、クラス委員長の仕事もちゃんとしているすごい人だ。
 その河野さんが僕に何の用だろう?
「虹川さん。よかったら、一緒に食べない?」
 ぽかんとしていた僕は一瞬、河野さんが何を言ったのかわからなかったけど、わかった途端、僕は目をぱちくりさせてしまった。
 河野さんがどうして?
「他に予定があるなら、無理にとは言わないけど……」
 河野さんがそう言ったので、僕は慌てて、首を横に振った。
 そうか、一人で寂しくしてたから、誘ってくれたんだ。やっぱり、優しい。河野さんは美布由ほど美人じゃないけど、その何倍も、いや、何十倍も優しい。
「そう、それじゃあ、一緒に――っ!」
 僕は感激して、目をうるうるさせて、思わず、河野さんの手を両手で握ってしまった。
 突然だったので、河野さんは驚いて声も出せないで、ちょっと、引きつったようになっていた。僕はそれに気がついて、あわてて、手を離した。
『ごめんなさい ものすごく うれしくって つい』
 僕はスケッチブックにそう書いて、謝った。考えてみたら、一緒にお弁当食べましょうと誘って、感激して手を握られたら、それはびっくりするよね。僕は激しく反省した。
「い、いえ、いいわよ。ちょ、ちょっとびっくりしただけ。……私はちょっと……手を洗ってくるから」
『あ、ぼくも』
 スケッチブックにそう書いて、僕も一緒について行った。
 そこで初めて知ったんだけど、河野さんはとても綺麗好きらしい。手が真っ赤になるまで洗っている。なんだか、ちょっと、怖いぐらいだった。やっぱり勉強ができる人は健康管理とかもキッチリしてるのかもしれない。僕には真似できないな。
 僕は教室に戻ると、自分の椅子を持って、河野さんの隣に置いた。
「虹川さんも一緒でいいよね、みんな?」
 河野さんがグループの他の女子に僕を混ぜてくれるように訊いてくれた。
「え、ええ。いいわよ。よろしく、虹川さん」
「別にいいけど。よろしくね、虹川さん」
 などなど、みんなは快く、仲間に入れてくれた。
 僕はそれにお礼の言葉を言えないので、朝の兄さんのしてくれた訓練を思い出して、極上の笑顔で感謝の気持ちをこめて、お辞儀した。
 顔を上げると、みんな呆けたような顔をしていた。僕、何か失敗したのかな? とびっきり上手くできたと思ったのに。なかなか難しい。
「さ、さあ、早くいただきましょう。お昼休みが終わってしまうわ」
 河野さんが僕に助け舟を出してくれて、みんな思い出したようにお弁当を広げだした。
 そこから、僕はしばらく、異世界に行っていた。
 男だった時に周りで聞いていても圧倒されるのに、その環に加わると、圧倒と言うか、打倒されている感じだった。
 ご飯なんてそっちのけで、誰かが誰かに告白したとか、誰かと誰かが付き合っているとか、別れたとか、校内の噂から芸能界の噂まで幅広く、そして、ドラマの話になったかと思うと、近所にできた新しいアクセサリー類を扱っている雑貨屋の話になって、急に予備校の話題になって、どこそこの予備校の英語の教師はホモだとか、スケベだとか、めまぐるしく話題が変わる。しかも、ほとんど僕の知らない世界の話題なので、話に加われないし、知っていても、このスピードには僕の筆談ではついていけない。だから、僕はただ、へぇ〜とか、ふーんとか、そういう表情で相槌を打つだけだった。
 でも、それでも、みんなでわいわいやりながら食事するのは楽しかった。そのうち、話題なんかもわかるようになって、書くスピードが上がったら、話に加われるかもしれないし。僕はその日を想像して、なんだかもっと、楽しくなった。
 長いのか短いのかわからないお昼ご飯の時間が終わると、それぞれ、予備校の課題や予習のために解散してしまった。河野さんのグループは全員、進学組でしかも、有名私立とかを狙っている人ばかりなので、仕方なかった。僕も自分の席に戻って、乾きかけた髪の毛に霧吹きで水分補給しながら、午後の授業が始まるのを待った。
 満腹感と暖かい陽射しで、少しまどろみかけながら僕はこのクラスで本当によかったと心底思った。
 このクラスにいれる幸せを、喜びを歌いたかった。でも、この姿では歌えない。人魚に戻って、歌えるようになったとしても歌えないけど……。
 ?!
 僕は腰の辺りが急にむずがゆくなった。人魚に戻る時の合図だ。昨日、一回味わったけど、この感覚は忘れようがない。お尻のあたりから太もものあたりが力の抜ける感じで、何かが這い回るような感じがする。ものすごく嫌な感じなのだ。なにかが身体の内側を這い上がってくるような感覚がして、僕はそれを抑え込んだ。それが限界を超えれば、下半身が人魚に戻ってしまう。
 僕は急いで立ち上がって、タオルを持ってトイレへと駆け込んだ。
 空いている個室に飛び込んで、ドアを閉めると下着とスカートを脱いで、立ったまま襲ってくる感覚を抑えるのをやめた。
 その途端、脚がこむらがえりになったみたいに引きつって、左右の脚がぴったりとくっつくと、肌が虹色に輝くと粘土か何かの変形アニメを見るみたいに形が魚の尾ひれに変わって、それと同時進行で肌が七色に輝く鱗に変化していった。
 尾ひれだけで立つのもできなくはないけど、怪我しそうなので、ゆっくりと便座に腰掛けた。もう、変身時の浄化作用は収まっているから、座っても大丈夫だろう。
 僕は改めて自分の脚を見た。人間の脚から魚の尾ひれに変わるときの副作用で現れる水で濡れて、きらきら光る人魚の尾ひれは綺麗だけど、やっぱり、これを見ると、僕は人間じゃなくなったんだと痛感させられる。人魚でいるのが嫌いなわけじゃないけど、やっぱり、そう感じてしまう。だからこそ、こんな僕を受け入れてくれるクラスのみんなを僕は本当に嬉しくてありがたいと思う。
「ありがとう、みんな」
 僕はせっかく喋れるようになったので、誰も聞いていないかもしれないけど、小さな声でそう言った。
 それから、僕は安全ピンの針先で爪と第一関節の間に軽く突き刺した。
「……っ!」
 僕は突き刺したところから吹き出るルビーみたいに赤い血の滴を口に運んでぺろりと舐めた。
 なんだか吸血鬼みたいで嫌なんだけど、仕方ない。こうしないと、人間に戻れないのだ。
 すると、今度はさっきの映像の逆回しのようにして、人魚の尾ひれが人間の脚になった。僕は濡れた下半身を持ってきたタオルで拭くと下着とスカートを穿いて教室に戻った。
 教室に戻ると、みんなが僕の方を見ているような感じがした。もしかしたら、僕が慌てて出て行ったのを心配してくれたのかもしれない。僕はみんなに心配かけないように、にっこり笑って、みんなに応えて、自分の席についた。
 やっぱり、このクラスは最高だ。

「季子、おかえり」
 僕が家に帰ると兄さんがいた。大学は既に試験が終わってお休みらしく、いってみれば、暇人なのだ。兄さんを見ていると、大学生は気楽そうで羨ましい。僕も来年の試験にさえ受かれば、晴れて大学生だ。ああ、早く来年になってくれないかな?
「学校はどうだった? いじめられなかったか?」
 台詞だけ聞けば、僕のことを気遣ってくれるように思えるけど、兄さんは面白がって僕に訊いているだけだ。その証拠に顔が笑っている。
『あいにく、ぼくのクラスは結束が固いんだよ。いじめなんてあるわけないじゃないか。残念でした』
 僕はスケッチブックにそう書いて答えた。
「そうか。それはよかったな。風呂に水を張っておいたから、用がないなら人魚に戻っておけよ。人魚にとっては人間の姿はそれだけで疲労が溜まるからな」
 兄さんは僕の答えが面白くなかったのか、話題を変えてきた。せっかく、僕のクラスの結束の固いってことを話してやりたかったのに。お風呂に水なんて……え?
『水? お湯じゃなくて?』
「季子は煮魚になりたいのか? そんなの誰も喰わんぞ。ぬるま湯でも一晩浸かってたら確実にのぼせるぞ。それに人魚は少々冷たい水でも平気なんだよ」
『ふーん、そうなのか』
「部屋で明日の学校の用意しておけよ。人魚に戻ったら、お風呂場からは自力で出れないからな」
 僕は部屋に戻って、明日の学校の準備を済ませると、お風呂場に行った。
 お風呂の元栓は締められており、兄さんが言った通り、本当に風呂桶の中は水みたいだ。僕は服を脱ぐと裸になって、水風呂に恐る恐る足を突っ込んだ。
 冷たいのは感じたけど、それだけだった。不快どころか、逆に心が安らぐ気がする。やっぱり、人魚の本能なのだろうか?
 僕は肩までお風呂に浸かると、ちょっとためらった。
 人魚に戻る方法は、昼間学校で戻ったみたいに『生き血』の効力が切れるのを待つか、水に身体を沈めるかなのだけど、そのために肺の空気を吐き出さないといけない。言ってみれば、溺れている状態になれというのだ。
 言うのは簡単だけど、結構、抵抗がある。誰だって、好き好んで溺れたいなんて思わない。
「まあ、そんな事だろうと思ったよ」
 僕が悩んでいると、いつの間にか兄さんが洗い場に立っていた。
 どういう事と思ったんだ? ……あっ!
 僕は自分が女の子の身体な事を思い出して、股間と胸を腕で隠した。
 くそっ! 見られた? 弟の僕の裸を覗きに来るなんて、ドスケベの変態だ!
 僕は兄さんを睨もうとしたが、兄さんは僕の頭を掴んで、水の中に力ずくで沈めた。
 こ、殺される! どうして? ……そうだった! 兄さんは人魚が嫌いなんだ。昔の恋人が人魚になって、それでふられたから、兄さんは人魚が嫌いなのだ。僕も人魚になったから、離れていかないように殺すつもりなんだ!
 僕は必死にもがいたが、女の子の腕力ではどうする事もできず、焦れば焦るほど、どうする事もできず、貴重な肺の空気を思いっきり吐き出してしまって、代わりに水を思いっきり飲んでしまった。
 もうダメだ……? って、あれ? 急に息が楽になった。
 そう思うと、僕の頭を押さえていた手は外されている。なんだかわからないけど、チャンスだ。
 僕は水から顔を出すと、洗い場で濡れた手を拭いている兄さんを見つけた。
「ひどいじゃないか! 僕を殺す気か!」
 僕は兄さんに怒鳴った。
「人魚が溺れるか、バカ。人魚になりたての時は、肺に水を入れるのが抵抗あるから、人に沈めてもらうのが普通なんだよ。一回やって、大丈夫とわかれば、次からは自分でやれるからな」
「それじゃあ、そう言えよ! いきなりなんて、ほんとに死ぬかと思ったじゃないか」
「言ったら、緊張して、身体を硬くされるだろ? そうなったら、なかなか沈めれないんだよ。こういうのは不意にやるからいいんだよ。焦って、すぐに水を飲んでくれるから、苦しみも少ないしな」
 確かに、そうかもしれないけど、他にもやり方があるはずだ。兄さんは優しさとは無縁のほんとに人でなしだ。
「……はぁ……そうかもしれないけど、クラスのみんなの優しさを兄さんと美布由に分けて欲しいよ」
 僕はため息をつくしかなかった。どうして同じ人なのに、こうも違うのだろう? 全ての人がクラスのみんなのように優しかったら、きっと、世界は平和で、差別もなくて、理想郷だったに違いないと真剣に思う。
「美布由ちゃん? 俺はともかく、あの娘は優しい娘だぞ。幼馴染みのお前が一番わかってるだろ?」
「どこが! あんな奴、優しいふりをしてるだけだよ」
 僕はそう言って、今日あった事を兄さんに全て話した。
「……ふーん、なるほどね。ところで、美布由ちゃんの手に字を書くのは、お前が提案したのか?」
「何でそんな事訊くんだよ? 美布由が自分の手に書けって、手を出してきたんだよ」
 兄さんは僕の話を最後まで口を挟まずに聞いてから、変なことを訊いた。兄さんが何を知りたいのか、よくわからない。
「じゃあ、優しいじゃないか」
 兄さんは結論までの説明を省いて言った。兄さんはいつもこうだ。兄さんはいつも僕を馬鹿にしているんだ。そりゃあ、学校の成績とか、兄さんには劣るかもしれないけど学校の勉強だけが全てじゃない。
「言ってる意味がわかんねーよ」
 だけど、僕は反論できるほど口が立たないので、顔を横に向けるしかなかった。悔しいけど、向こうは大学生だから、高校生の僕が言い負かされるのも仕方ない。そのうち、言い負かしてやるつもりだけど、今はまだ無理だ。
「……まあ、そのうちに、季子にもわかるよ。そのとき、後悔しないように友達は大事にするんだな」
 兄さんは僕を子供扱いするように、頭に手を置いた。
「い、いわれなくても大事にするよ。クラスのみんなは最高の友達だもん」
 僕は一瞬、頭に手を置かれて、ホッとするような気がして、あわてて兄さんの手を払いのけた。
 兄さんはなんだか含みのあるような微妙な笑顔を浮かべられて、僕は急に不安になった。兄さんのこういう表情は初めてだ。
「さて、それじゃあ、食事になったら、迎えに来るから、それまでに上ぐらい着とけよ。その格好は親父とお袋には刺激が強すぎる」
 兄さんは微妙な笑顔をやめて、いつものような人をおちょくったような笑顔を浮かべて、風呂場から出て行った。そこで、僕は自分が裸だった事を思い出して、かっとなって、尾ひれを使って、すりガラス越しに見える兄さんの後姿に水をぶっ掛けた。
「スケベ! バカ兄!」
 僕は胸を隠して、すこし少なくなった浴槽の水の中に沈み込んだ。
 兄さんは僕をおちょくってばかりだ。僕が人魚になっても変わらない。もう少し気を使って欲しい。デリカシーの欠片もない。最低だ。

「虹川さん、ちょっといいかしら?」
 僕は授業が終わって、教科書とノートを片付けていると、河野さんが僕のところへやってきた。
『何か用事?』
 僕はスケッチブックをめくって、そう書いてあるページを見せた。
 僕が人魚になって、今日で五日目、人魚である事はだいぶんと慣れてきたけど、この喋れない事は不便で仕方ない。兄さんに言われて、よく使う台詞はあらかじめ書いておくようにして、大分楽になったけど、それでもやっぱり不便だ。
「悪いんだけど、さっきの授業で使った白地図パネルを社会資料室に戻しておいてくれないかしら? 私が返しておくように言われたんだけど、ちょっとしなくちゃいけない事があるの。いいかしら?」
 河野さんは僕に申し訳なさそうに頼んできた。僕の返事は決まっている。スケッチブックのページをめくった。
『いいよ』
 僕は笑顔でそう書いてあるページを河野さんに見せて、教壇の上に置いてある白地図パネルを持とうとした。だけど、白地図パネルをまとめていた紐が古くなっていて切れてしまい、白地図のパネルを派手な音をたててばら撒いてしまった。
 僕は急いでパネルを拾い集め、壊れていないかを確かめた。
 よかった、壊れてない。紐もくくりなおせば、問題ない。
 僕がふと視線を感じて顔を上げると、クラスのみんなが僕を注目していた。なんだか、みんな、怯えたような表情だ。……あ、そうか。パネルを壊したら、クラスの責任になるかもしれないんだっけ。
 僕はみんなに笑顔でオッケーサインを出して見たけど、みんなの表情はまだ怯えていた。
 壊れてないのに。みんな心配性だな。そう思って、僕は紐をくくりなおして、今度は紐がほどけても落とさないようにしっかりと抱えて持って、教室を出た。
 僕はちょっと小走りで社会資料室に向かった。早く返すといっても、走る必要もないし、今日の授業はもう終わりなので、別に急ぐ必要はないんだけど、ぐずぐずしててノロマと思われるのは嫌だし、早く戻れたら、河野さんたちと一緒に帰れるかもしれない。
 あと六日ほどで学校が終わる。授業があるのは今日を入れて四日。三年になれば、進路ごとにクラスが分けられてしまう。河野さんのグループはほとんど有名私学か国公立を目指そうというような人ばっかりなので、国公立進学コースになるだろう。僕は一般文系進学コース。同じクラスにはなれないと思う。だから、この四日が最後になってしまう。
 河野さんたちとせっかく友達になったのに、僕が人魚のせいで、あまり話しできない。だから、なるべく一緒にいて、できるだけ話をしたいと思う。
 だけど、僕の筆談もだいぶスムーズになってきたといっても、やっぱり、遅い。それに、女子の話題は僕にはちんぷんかんぷんだから、僕が加われる話はほとんどない――会話するといえば、朝の挨拶と、今みたいに河野さんに用事を頼まれる時ぐらいだけど、一緒にいるだけでも、それでも話をしていると同じだと僕は思う。喋るだけが話じゃない。
 だいたい、僕は女の子初心者なんだから、ベテランのみんなと同じようには行かない事ぐらい、わかっている。みんなと一緒にいれるだけで寂しくないし、ずっと一緒にいれば、女子の話題も自然とわかるようになると思う。だから、今はそれだけで充分だ。だけど、そのうち、きっとスムーズに話できるようになれる……と思う。
 そうだ。これを返しにいったら、図書室に行ってみよう。人魚になった人の手記とかそういった本があるかもしれない。それに何か上手い方法が書いてあるかもしれない。そうしよう♪
 僕は白地図パネルを資料室に返すと、その足で教室に戻った。
 教室は誰もいなかった。僕のかばんだけが、ぽつんと机の上においてあっただけで、なんだかとてもさびしい感じがする。天気もどんより曇って、今にも降りだしそうで、暗くて重いので、なおさらだ。
 僕は、河野さんか誰かがいるかもしれないとちょっと期待したけど、よく考えてみれば、用事があると言っていたので、いるわけがない。当たり前だ。
 カバンを持つと、僕は図書室に向かった。図書室なんて、ほとんど利用した事ないから気がつかなかったけど、僕の教室から結構、遠い。資料室まで小走りで行って戻ってきたから、足がだるい。足を鍛えるのに毎朝、ウォーキングしているけど、効果が出るのはだいぶ先みたいだ。最初はジョギングしようと思ったけど、兄さんが言うには先ずは歩いて、足をある程度鍛えないと膝などをいためるらしい。人魚の足って、本当にただ立って歩くだけで精一杯のひ弱な足だ。
 そうこう考えているうちに図書室にたどり着いた。うちの学校の図書室は結構充実していて、本の数も多いらしい。探している本が見つかるといいけど、ダメだったら、図書室にあるパソコンでインターネット検索してみよう。
 僕はとりあえず、どこを探せばいいかわからなかったので、カウンターに行く事にした。図書室の先生なら、何か知っているかもしれない。
 カウンターに居た先生は去年の担任の先生だった。僕の顔を見てびっくりしていた。もう、だいぶ、驚かれるのには慣れたけど、あまり気持ちのいいものじゃない。
 僕は用件をメモに書いて、先生に見せた。
 早く、先生の驚きの顔と好奇の目から逃げたかった。僕も好きで人魚になったわけじゃない。これば病気なんだから、そういうのは止めて欲しい。
「えーと、そうね……多分、エッセイのコーナーか、科学のコーナーにあると思うんだけど……あ、真壁さん。悪いんだけど、虹川さんの本を探すの、手伝ってあげてくれない? あなた、虹川さんとは知り合いでしょ?」
 先生は振り返って返却の本を整理していた美布由に声をかけた。僕は驚いて、カウンターの中を覗き込むと、美布由と目が合った。向こうも驚いているようだけど、こっちも驚いた。
 カウンターの影になってて、見えなかった。そういえば、美布由は図書委員だった。しかし、よりによって、美布由に頼むなんて!
 僕は案内を断りたかったが、先生の行為を断るのは勇気がいるので、おとなしく案内されてやる事にした。そうじゃなければ、誰がこんな女の案内なんて頼むか!
「……人魚になった人の手記といったら、白浜孝美の『人魚注意報』と『素敵に人魚姫』。最初のがなったばっかりのころの、次が人魚だけの合唱団『真鈴合唱団』に入ってからのことが書かれてるわ」
 美布由は僕の前をゆっくりと歩きながら、時々、僕の方にちょっとだけ振り返りながら、静かな声で僕のリクエストした内容の本を紹介しだした。紹介しながら、『人魚注意報』『素敵に人魚姫』と背表紙に書かれた本を本だなから抜き出していた。
「他には佐藤聖子の『人魚はつらいよ』が有名ね。人魚になったあとの苦労話が面白おかしく書いてある本よ。読みやすくて、テレビとかでも少し話題になったわ。続刊がでてるけど、ここにはないわ」
 美布由は僕が何か言う前に、『人魚はつらいよ』を抜き出して手に持った。そして、そのまま、また歩き出した。僕は仕方なく、美布由についていった。なんだか、美布由のペースで面白くない。
「伊藤順次郎海洋生物学博士と手塚弘医学博士が共同で書いた『人魚症候群――本来の性質と虚報による誤解』は、学術的に人魚の性質を正確に記述してあって、一般人の人魚への誤ったイメージや思い込みも調べているわ。他にもあるけど、後は似たり寄ったりの内容よ。どうする? 春休み前で、5冊までは貸し出しできるけど」
 美布由は科学の本が集まっている本だなの前で止まって、ちょっと分厚めの本を抜き出して、手に持った。少し重そうだ。
 非力になった僕が持って帰るのは大変そうだ。最後のやつが一番重そうで、一番読まなさそうだから、それ以外というのを伝えようと最初の三冊を指差して、指で丸を作り、最後のを指差して首を振った。
 美布由は最後の本をもとあった場所に返そうとすると、本棚の向こう――確か、小さな閲覧所になっているところから人の話をする声が聞こえてきた。僕は聞くとはなしに聞いてしまった。
「――でも、あれよねー。内申書のためだから我慢してるけど、正直な話、関わりたくはないわねー」
 河野さんのグループの一人の、渡辺さんの声だ。
「でも、それもあと三日じゃない。一年とか言われたら、たまんないけど我慢しましょ」
 河野さんの声だ。我慢て何の事だ?
「確かにそうよね。まあ、あたしたちは国公立コースだから、来年一緒にならないもんね」
 クラスの誰かのこと?
「そうそう。たかだか、一週間ぐらい我慢したら、内申書に色つけてくれるって言うんだから、安いものじゃない。先生もいじめとかあると、来年、内定してる学年主任になれないかもしれないし、必死よね」
 内申書? いじめ? 学年主任? 何の話だ?
「武田も、万引き見つかって補導されたのを誤魔化してもらうのに必死で青春ドラマしてたわね。最高に笑えたわ」
「そうね。私も笑うの我慢するのに苦労したわ」
 武田君がどうした? 万引き? 青春ドラマ? 何の話だ?
 僕が混乱していると、不意に誰かが僕の手を引いた。
 美布由が僕を別の場所に連れて行こうとしている。その目がとても悲しそうだ。
 どういうことだ?
「でも、必死と言えば、最初の日に手握られて、明美、ものすごくあせってたでしょ?」
 くすくす笑いながら渡辺さんが話している。最初の日? 手を握られる? ……もしかして……
「まさか手を握ってくるなんて思わなかったもの。びっくりするわよ。今思い出すだけでも、手を洗いたくなっちゃうわよ。気持ち悪い。人魚の菌がうつったら、どうしてくれるのよって感じよ、まったく!」
 河野さんの不快そうな声が静かな図書室に響いた。
 僕は目の前が急に真っ暗になったような気がした。
「あははは、明美ったら、マジでびびってんの。いいじゃない。人魚になったら、虹川みたいに美人になれるかもしれないわよ? 整形代いらずよ」
 渡辺さんの明るい声がなんだかすごく、現実離れして聞こえる。話している場所が近くなのか遠くなのかわからない。
「冗談じゃないわよ! 美人になっても、人魚よ。あなたも握られて見なさいよ。水かきが第二関節のところまであるのよ、気持ち悪い。まるで、河童よ」
「河童と言えば、よく休み時間、霧吹きで髪濡らしてるじゃん。本人は香水でもつけてるつもりなのかしら? みっともないわね。もしかして、髪の毛、カツラで本当は頭のてっぺん皿だったりして。今度、髪の毛引っ張ってみようか」
「なにバカ言ってんのよ。そんなことしたら、折角の演技が無駄になっちゃうじゃない。みんなで相談して『いじめのない素敵なクラス』を演じてるんだから、忘れないでよ。三年になったら、関わりなしで、無視すればいいんだから」
「わかってるわよ。そんなこと。第一、あの子に触りたいなんて誰も思わないって」
「それも、そうよね――! 虹川さん! いつからそこに?」
 僕は自分でもわからずに、いつのまにか河野さんたちの前に出ていってしまっていた。
『コウノさん いま はなしてたこと ウソだよね?』
 僕はポケットのメモ帳に走り書きして河野さんに見せた。
「今の話? 何のことかしら?」
 河野さんはそう言ったけど、様子は空々しかった。
『ボクのことがキモチ悪いとか ウソだよね?』
「そんなこと言うわけないじゃない。あなたが人魚でも、私たちのグループに入れてあげているのよ、私たちは」
 河野さんは、うっとうしそうに僕にそう答えた。
『えんぎって本当なの? わたなべさん』
 僕は矛先を変えた。
「な、何の事かしら?」
 渡辺さんの目が泳いでいるのははっきりわかった。
『友達になれたと思ってたのに どうして僕を裏切るんだよ』
 僕はそう書こうとしたけど、
「あら? もう、こんな時間。塾があるから、失礼するわ。また、明日ね、虹川さん」
 河野さんは立ち去ろうとした。僕は河野さんの手を掴んで止めようとした。だけど、河野さんはそれに気づくと、すごい勢いで手を引っ込めて、僕の方を強張った顔で睨みつけた。
「何も言ってないって言ってるでしょっ! 友達なんでしょ? 信じなさいよ! それとも絶交する?」
 河野さんはほとんどヒステリックに金切り声を上げた。そして、場所を思い出して、声のトーンを落として、続けた。
「だいたい、私たちのグループに入れてあげているのに、人の話を立ち聞きして。私たちを疑うの? 何様のつもりよ。人魚のクセに! あなたなんて私たちが相手してあげなかったら、誰も相手なんかしてくれないクセに! その私たちを疑うの? それならいいわよ。好きにすれば? あなたが勝手に私たちのグループから出て行くんなら、あなたの勝手よね。そうしたければ、そうすれば?」
 河野さんは更にそう言った。僕は自分の耳が信じられなかった。河野さんがそんな事を言うなんて。僕はこれは夢だと思っていた。さっき聞いたのは聞き違いと思いたかった。だけど、これは現実……。
 そう思うと、僕の目の前はぐるぐると回った。なんだか訳がわからなくなって、僕はとにかくこの場所からどこか他に行きたかった。僕は知らずに逃げ出した。
 誰かが僕を呼ぶような声が聞こえたけど、僕には関係ない。僕はこの場所に居ちゃいけないんだ。

 僕は図書館を飛び出して走った。だけど、ほんの少し走っただけで、すぐに足が引きつって、走れなくなった。
 僕は足を見た。スカートから出ている足は細くて弱々しい足だ。人魚の足だ。忌々しい足だ。
 どうして僕は人魚なんだ。人魚じゃなければ、少し走ったぐらいで足がつることなんて無かったのに。
 どうして僕は人魚なんだ。人魚じゃなければ、みんなと仲良く友達でいれたのに。
 どうして僕は人魚になったんだ。僕が何か悪い事をしたわけじゃないのに……。
 足は痛かったけど、僕は立ち止まりたくは無かった。足を引きずるように、歩きつづけた。どこかへ行きたかった。どこかが、どこかはわからないけど……。
 どれだけの時間、どこをどう歩いたのかわからなかったけど、僕は校舎の裏手の方に来ていた。だけど、どこだろうと僕には関係ない。
 僕の頭の中はさっきの河野さんとの会話が耳鳴りしていた。時間が経っても、あれが現実なんて信じられなかった。でも、あれは現実だという記憶が僕の心に凍り水を浴びせる。夢も見せてくれない。
「虹川!」
 僕は誰かに呼ばれたので、反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、息を切らせた武田君だった。万引きを帳消しにしてもらう武田君だった。
 僕は逃げようと思った。どうせ、武田君も河野さんと同じなのだ。僕はもう、これ以上傷つきたくない。真実なんて大っ嫌いだ。
 僕は回れ右をして、彼のいない方に走り出そうとした。
「!」
 肩が抜けるような痛みが走り、僕は驚いて振り向くと、誰かが僕の腕を掴んでいた。武田君だ。武田君が僕の腕を掴んでいた。人魚の僕の腕を。
「校内中、探し回って、やっと見つけたのに、いきなり逃げんなよ」
 武田君は不機嫌にそう言った。僕の腕を掴んだまま。ちょっと震えているけど、人魚の僕の腕を掴んだまま。
「なんだか、よくわかんねーけど、俺はお前のダチだろ? ダチぐらい信じろよ」
 武田君は言い難そうにそう言った。
 僕は恥ずかしくなった。武田君が万引きを帳消ししてもらうなんて、河野さんたちが勝手に言ってるだけの話。何の証拠も無い。
 もしそうだとしても、そんなのはついでなんだ。そんなのが無くても武田君は僕のことを友達だと思ってくれてたはずだ。たまたま……いや、そんな万引きなんて、河野さんたちの根も葉もない噂なんだ。武田君は僕の友達で、その友達の事が信じられないなんて、僕がどうかしてた。
 そう思うと、僕はすごく嬉しくて情けなくて、とにかく泣きたくなって、おもわず、武田君に抱きつくようにして、声は出なかったが、泣いてしまった。
 つい、一週間前ぐらいまでは同じぐらいの身長だったのに、今は僕の方が頭一つ分ぐらい低い。武田君の胸に顔をうずめるような格好になった。男としては情けないけど、それ以上に今は泣きたかった。
「お、おい……虹川……」
 困ったような武田君の声に僕はちょっとだけ我に帰って、武田君を見上げた。
「……」
「……」
 武田君と目が合った。だけど、武田君は何も言わない。僕は何も言えない。見詰め合ったままだった。
「……なんだかいけそうだ……」
 ほんの少しの沈黙の後、武田君はぽそりとそう言って、僕の腕を引っ張って、歩き始めた。僕は何が何かわからず、ただ、引っ張られて、歩いた。捕まれた腕がちょっと痛かった。
 武田君は僕を校舎裏にある体育用具倉庫のところまで引っ張ってきて、鍵を開けて、僕をその中に引きずり込んだ。
 薄暗い倉庫の中は体育の授業で使うマットなどが置いてあって、汗臭い匂いがして、僕は顔をしかめた。
 僕はなんで、武田君が僕をこんなところに連れてきたのかわからなかった。理由を聞こうと思って、振り返った。
「!!」
 振り返った途端、何かが僕の顔の上に覆い被さってきた。――武田君だ。
 武田君が僕にキスしてる!
 僕は武田君から離れようともがいたが、女の子の力ではどうしょうも無かった。
 武田君は、キスしたまま手馴れた手付きでスカートのホックを外して、スカートを脱がした。そして、そのまま、柔道の小内掛けをされたような感じでマットの上に押し倒された。
 武田君は手探りで僕のスカートを拾うと、倉庫の奥の方へと投げ捨てた。そこでやっと、抱き締める力を緩め、唇を離した。
 無理矢理、唇を押し当てられて、ひりひりする。押し倒された時に打った背中も痛い。
 僕は武田君を睨んだ。友達でも――いや、友達だから、こんな事はやってはいけないことだ。
「俺に抱かれるのが嫌か? じゃあ、逃げてもいいんだぜ? ただし、パンツ丸出しでな」
 武田君は睨んでいる僕の顔をニヤニヤしながら見て、両手を離した。一瞬、僕は逃げようとしたけど、武田君の言っている意味がわかって、逃げるのを躊躇した。
「こないだまで、男だったけど、やっぱり、パンツ丸出しは恥ずかしいか? 一丁前に女してんじゃんかよ」
 ニヤニヤしている顔を僕は睨みつけるだけだった。悔しいけど、今の僕にはそれ以外に何も出来ない。
「まあ、そんな顔するなよ。俺が本物の女にしてやるよ。うれしいだろ? 人魚の女を抱いてくれる人間様の男なんて滅多にいねーぜ。友達のよしみだ。死ぬまで感謝しろ」
 僕は武田の台詞に頭に血が昇って、殴りかかった。だけど、女の子の腕力で、しかも寝ていてはどうしようもない。あっさり避けられて、腕を捕まれた。
「暴れられると面倒だな。声が出せないのは安心だがな」
 武田は自分の制服のネクタイを解いて、僕の両腕を縛って、バスケットボールを入れている籠に結びつけた。
「――! ――!!」
 僕は声は出なかったが、心の底から罵声を浴びせた。自由な足をじたばたさせた。
「うっせいな」
 武田のその呟きと同時に小気味よい音が響いて、僕の頬に痛みが染み込んできた。武田が僕をぶったんだ。
 僕は驚きのあまり、動きを止めてしまった。
 武田は大人しくなった僕の上着を脱がせようとしたが、手を縛っていたので、脱がせきれずに腕にたくし上げただけで、ブラジャーを乱暴に剥ぎ取った。
「けっこうでかいじゃねーか」
 武田は僕の胸を力一杯、鷲づかみにした。
「!」
 痛さのあまり、身を捩ると、明かり採りの窓から覗く人影を見つけた。僕は助けを求めようと、その人影に訴えかけようとした……けど、それは河野さんと渡辺さんだった。
 二人はビデオカメラのようなものを持っていた。
 僕はそれを見た瞬間、何もかもわかった。
 河野たちは僕に仲良しクラスが演技だった事がバレて、そのことで騒ぎ出さないように、武田に僕を襲わせて、僕の口封じをするつもりなのだ。
 信じてたのに。
 僕は信じてたのに。
 信じたたのにまた裏切られた。
 僕は体中の血が沸騰しそうだった。頭の芯が真っ白になるぐらい熱くなった。
「?!」
 僕は腰の辺りが変な感じ、気持ち悪さを感じた。武田は僕の胸を触っている。けど、腰にはまだ触ってない――これは、人魚に戻る時の感覚だ。僕はその襲ってくる感覚を拒まなかった。
 変化はすぐに始まった。白い細い足は、虹色鱗の逞しい尾ひれに変わった。穿いていたパンツは変身時の浄化作用でボロボロになって、腰の辺りにまとわりついている。だけど、そんなことはどうでもいい。
 武田は人魚に変身した僕に驚いて、胸を揉むのを止めて、固まっていた。僕は固まっている武田を尾ひれで叩き飛ばした。武田は倉庫の壁に叩きつけられ、その衝撃で落ちてきた用具の下に沈んだ。いい気味だ!
 僕は、倉庫の中を覗いている二人の方を睨んだ。二人とも、武田と同じで固まっている。人魚がそんなに珍しいか!
「信じてたのに! みんな、みんな、だいっきらいだ!」
 僕は体の中に駆け巡る怒りを歌にした。何も考えずに、思いっきり歌った。そうしたかったからそうした。
 僕は荒れ狂う嵐のように、誰も寄せ付けない北の海のように、燃え盛る溶岩のように、体中の怒りを歌に変えた。

 どれだけ歌ったのだろう? 僕は自分の顔に雨粒が当るのを感じて我に帰った。
 あたりは塵の山に変わっていた。その向こうに、ほとんどボロ布と化した制服を身体にまとわりつかせて、半裸で呆然としている女子が二人――河野と渡辺がいた。武田は塵の山の中に埋っているが、二人と同じような格好だろう。いい気味だ。天罰だ。ざまあみろだ。
 僕は、少しだけいい気分になると、倉庫からだいぶ離れたところに、他の生徒や先生などがこちらを遠巻きに見ていたのに気がついた。
「先生! 僕、ここに埋っている武田に襲われました。それで、そこにいる河野と渡辺にそれをビデオに撮られそうになりました。退学にしてください」
 僕は大声で、先生達に裏切り者を訴えた。だけど、先生達は一向にこっちに来ようしないで、何かざわついていた。
「あ、そっか。僕、ほとんど裸だもんね。気を使ってくれているんだね」
 僕は塵の中に埋もれたかろうじてスカートの原形を留めていた僕のスカートを掘り出して穿いて、ボロボロになったが、なんとか胸とかは隠せるだけの生地は残っていた上着を着た。しかし、それでも、近寄ってこない。
 いくら待っても近寄ってこない先生達に、僕は痺れを切らせて、指をかんで自分の血を舐め、人間の足に戻り、僕の方から先生の方に近寄っていった。話せなくなるのは不便だけど、筆談でも事情は説明できる。それよりも、あの裏切り者達に復讐しないと気がすまない。
 でも、僕が近寄っていくと、先生達は逃げ腰になった。
「?」
 僕はなんで、逃げ腰になるのかよくわからなかった。それに、先生達は僕ではなくて、その後ろを見ていた。
 僕は先生達の視線の先、自分のいた体育倉庫を振り返った。
 体育用具倉庫だった建物は、鉄骨が剥き出しになり、壁も屋根もほとんど塵となって、無くなっていた。たくさんあった用具も大半が同じように塵の山に変わっていた。
 これが人魚の歌の力。
 これが人魚の力。
 僕は不安になって、もう一度、先生達の方を見た。今度は僕を見ていたけど、誰の顔にも恐怖が張り付いていたのがはっきりわかった。
「……ばけもの……」
 遠巻きに見ていた人たちの誰かが言った一言に、僕は「違う」と首を振って、一歩踏み出した。そして、それがきっかけになった。
 僕の前にいた先生も生徒も一目散に逃げ出した。なりふり構わず。
 そして、僕は一人残された。

 どこをどう歩いたわからないけど、学校の外に出たみたいだ。冷たい雨が僕の身体を容赦なく降りかかった。大粒の雨はまるで小石を投げつけられてるみたいだ。
 そうか、僕は空にまで嫌われているんだ。僕を好いてくれている人なんて誰もいないんだ。美布由だって、兄さんだって、武田君や河野さんやクラスのみんな、学校の先生もみんな、みんな、僕を嫌っているんだ。僕はここにいちゃいけない人間なんだ。
 そうだ。僕は人間じゃないんだ。人魚なんだ。人間の世界に居ちゃいけないんだ。歌いたくても思いっきり歌えない人間の世界になんて、いちゃいけないんだ。
 ……海。そう、海だ。人魚の世界、海に還ろう。海に還って、思いっきり歌おう。人間のいない広い海に。
 僕は気がつくと河川敷にやって来て、土手を下りて、川に分け入っていた。
 この川を下れば、僕は海に還れる。
 川の水は凍てつくように冷たいはずだけど、僕には気持ちがいい。
 ああ、還れる。僕の世界へ。海についたら、思いっきり歌おう。僕の世界で僕のことを歌おう。
 僕があと一歩、踏み出せば、川の流れに身を任せれるところで、誰かが横からぶつかってきた。
 僕は不意だったので、倒れてしまって、川の水を思いっきり飲み込んでしまって、下半身が人魚に変わってしまっていた。だけど、どのみち、人魚になるつもりだったし、手間が省けただけだ。
 もともとボロボロになっていたスカートが変身の浄化作用で完全に塵に帰った。でも、僕にはもう必要ないものだ。
「どこに行くつもりよ!」
 ぶつかってきた誰かが怒鳴った。僕には声だけで、それが誰かわかる。美布由だ。
「僕は海に還るんだ。人魚は人間の世界に居ちゃいけないんだ。僕はみんなに嫌われているんだ。僕はそんな世界になんていたくない! 離せ! お前も僕のことが嫌いなんだろ」
 僕はそう言って、川へ泳ぎ出ようとしたけど、美布由が僕の腰の辺りをしっかりと掴んでいる。人魚に変化する時も離していなかったのだろう。制服が浄化の作用でボロボロになって、レイプされたみたいだ。
「どうして、公彦はいつもそうなのよ! いつも逃げてばっかりで! 男でしょ! ちょっとは立ち向かいなさいよ!」
 美布由は紫色の唇を震わせて怒鳴った。
「僕はもう公彦じゃない。僕は人魚なんだ。ここに居ちゃいけないんだ」
「誰がそんな事決めたのよ! 海に行ってどうするの? どうやって、暮らすの? 公彦なんてサメに襲われて食べられるのがオチよ! 逃げてばかりの公彦が暮らしていけるほど、海は甘くないのよ!」
「そんな事ぐらいわかってる! じゃあ、どうすればいいんだよ! 僕はみんなに嫌われているんだ。僕は邪魔者なんだ。僕はバケモノなんだ」
「どうしてそう決め付けるのよ。みんながあなたを嫌ってるわけないでしょ?」
「嫌ってる! 僕がそう決めたんだ!」
「嫌ってない! あたしが嫌ってない!」
「うそつけ! 僕のことふったくせに!」
「嘘じゃない! 公彦、あなた、自分が嫌われないように、きっちり告白せずに、告白するのかしないのか、曖昧な事ばっかり言って、はっきりしないで、自分が傷つかないように自分のことばっかり庇うような告白するからよ。公彦のそういう所があたしは嫌いなの。だから、それを直して欲しいの。だから、ちゃんと告白してくれないのなら、答えはノーだって言ったのよ。ちゃんと告白すれば、イエスってこと、どうしてわかんないのよ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃないって言ってるでしょ!」
 美布由は僕の胸倉を掴んで、僕の顔を引き寄せると、震えた唇を僕の唇に当てた。
「!」
 僕はいきなりの事にびっくりして、言葉を失った。
「どう? これで、信用した? ファーストキスよ。もうすぐ高三になるって言うのに、今時、大事に取っておいた大バカの最初のキスよ。わかった?」
 ムードも何もない、泥水の味のキスだったけど、武田君のそれとは全然違った。雲泥の差だ。それだけで、僕には美布由の心がわかった。僕はだまって頷くしかわからなかった。
「そう……よかった……しんじてくれて……」
 僕に掴みかかっていた美布由が安心した笑顔を見せて、不意に崩れた。僕はそれを慌てて支えた。そのとき、美布由の身体が恐ろしいほど冷えている事に気がついた。春先の三月とは言え、山から雪解けの水が流れてくるこの季節、川に入るのは人魚でなければ、自殺行為だ。
「美布由!」

 結局、僕はなんとか美布由を岸にあげるたが、その先、どうすることもできず、たまたま近くを通りかかった人に僕たちは助けられ、美布由は救急車で病院へと運ばれた。
「バカだと思ってたが、ここまで大バカとはな!」
 僕は病院で駆けつけてきた兄さんに思いっきり殴られた。
 美布由は病院に運び込まれた時、低体温症を起して、かなり危なかった。今はなんとか回復して、容態は安定していたが、救助があと数分でも遅れていれば、命はなかったそうだ。
「美布由ちゃんがどんな気持ちだったか考えた事あるのか」
 美布由は僕が人魚になったことを知ると、図書館やネットで人魚の関連の資料を調べまくったらしい。そして、僕が困った時に手助けできるように準備していたらしい。手続きや何かは、自分がそばにいても何もできないから、別の事で手伝おうと言う事だ。美布由らしい発想だ。
「小さい頃から一緒にいるんだろうが。性格ぐらいわかってるだろが!」
 デパートで試着した服は実は美布由が選んだもので、人魚用の服はどこでも売ってるものじゃないらしい。
 人魚用の服を売っている店を検索しておいて、学校が終わると速攻で下見してまわり、兄さんが病院で撮影した写真をメールで受け取り、僕に似合っていて、おかしくなくて、僕が着るのに抵抗の少ないものを選んで店員さんに伝言しておいたらしい。
「自分ばっかりが不幸ですって面しやがって」
 人魚になったものに触られると人魚になるなど、世間で信じられているデマをしっていたから、美布由はみんなの前で僕に手を触らせたのだ。あのあと、美布由はクラスのみんなに人魚への偏見を無くすように説明してただろうと思う。きっと美布由はそうする。僕にはわかる。
「いつもいつも、どれだけの人に心配かけさせて、辛い思いをさせれば気が済むんだ! バカヤロウ!」
 美布由がトイレで怒っていたのは、また逃げてきた僕に腹を立てていたのだ。人魚になったら、人間のときよりも立ち向かわないといけないことが多い。逃げてばかりではどうしようもないことを、様々な体験記で読んで知っていたからだ。美布由はいつも僕を心配していた。だから、いつも厳しかった。
 分かっていたはずなのに、僕は何もわかっていなかった。僕は本当にオロカものだ。
 僕は殴られて痛かったが、なんだかそれが別の世界の出来事みたいに他人事のように感じて、本当に痛いのかどうかわからなかった。なんだか、心が抜けてしまったみたいだ。
 このまま、殴り殺されるのが、僕にはお似合いだ。
「ち、主税君! もういい。これ以上やったら、公彦君――季子ちゃんが死んでしまう」
 本当は殴りたかっただろう、美布由のお父さんが止めに入ってくれた。もし、止めてくれなかったら、僕は本当に殺されていたかもしれない。口の中がかなり切れて、鉄を舐めてるような血の味がする。
「おじさん。止めないでください。こいつのバカさ加減は殺して治さないと治らないんです! 自分勝手で美布由ちゃんを殺しかけたんですから! おじさんもおばさんも、こいつを殴ってやってください」
 いつも冷静な兄さんが息を荒くして怒鳴っている。こんな兄さんは初めて見た。
「いや、しかし……」
 ためらっているおじさんの横の美布由のお母さんが無言で、床に座っている僕の前にやって来て、膝をついた。
 ぱぁん!
 僕は一瞬、何があったのかわからなかったけど、あっちこっち殴られて痛いのに頬が熱くなってきた。ただ、ビンタされただけなのに。
 僕はなんだかわからなかったけど、ものすごく痛かった。
 それから、おばさんは不意に僕を抱き締めた。強く、暖かく抱き締められた。
「……まったく、あなたはバカなんだから……」
 急に涙が込み上げてきた。声こそ上げれなかったけど、大声を出して泣いた。心の中で「ごめんなさい。ごめんなさい」と繰り返し言いながら泣いた。

 それから少しして、遅れて駆けつけてきた両親が美布由のおじさんおばさんに頭を下げ、僕にも頭を下げさせた。そして、家につれて帰られて、こっぴどくお説教をされた。だけど、そんなのは堪えない。美布由のおばさんに抱き締められた、あれに比べれば。
 僕は暗いお風呂の中で丸くなって考えた。
 僕がどうするのが一番なんだろう?
 いや、僕はどうしたいのだろう?
 僕のしたいことってなんだろう?
 ……
 こんな単純な当たり前なことなのに、僕は答えが出ない。僕は一体何がしたいのだろう?
 ああ、わからない……僕は本当のバカだ……自分のしたいこともわからないなんて!
 僕は今まで、どうやって生きてきたのだ? 僕は今まで、何がしたくて生きてきたんだ? ……わからない。
 ……僕は暗い水の底で一生懸命考えた。
 僕は何がしたいのか。

 僕は校庭の片隅にある小さな人工池の縁に腰掛けて、尾びれで水をかき回しながら、待った。長い間、手入れされていない人工池だから、水はにごり放題で少しキモチ悪かったが、水に触れていられるのはなんだか安心できた。
 やっぱり、僕は人魚なんだな。
「なに一人でニヤニヤしてるのよ」
 そう僕に声をかけてきた人は、僕が待っていた人だ。
「美布由♪」
 僕は最高の笑顔で美布由を迎えた。
「……き、キモチ悪いわね。主税お兄さんちゃんに頭殴られて、変になったの? いきなり、きみ――季子の制服、入れた袋、送りつけてきて、『これを着て、学校裏庭の池の前に来てくれ』なんて……嫌味?」
 美布由は眉間にしわを寄せて僕に文句を言った。確かに、美布由のサイズにはあっていなかったみたいで、ウェストあたりは苦しそうだし、胸の辺りは余ってそうな感じだった。美布由は人工池のほとりにおいてあったコンクリートの椅子に腰を下ろした。
「違うよ。僕は美布由にお礼が言いたかったんだ」
「お礼? お礼と服がどういう関係があるのよ?」
 美布由はもう少しで怒り出しそうなほど、不機嫌だった。僕は目をつぶって、一息おいてから、目を開けて、まっすぐに美布由を見た。
 美布由は僕のその表情にちょっと驚いて、なぜだか、顔を紅くしていた。
「美布由、ありがとう」
 僕は美布由に静かにそう言った。
「な、なによ! 急に改まって、三日前のことなら、別にいいわよ。人として当然のことをしただけだし、あたしはしたいようにしただけよ」
 僕はなんだか珍しく狼狽している美布由を見て、おかしくなって、くすくす笑った。
「うん。でも、ありがとう。僕、今まで、いろんな人に支えられながら生きてきたのに、全然それに気づかなかったんだ。美布由にも、兄さんにも、美布由のおばさんやおじさん、お母さんやお父さんやみんなに」
 僕はそう言って、世界を抱き締めるように両腕を広げた。
「そ、それがどうかしたのよ。そんなの、あたしだって同じよ」
「あれからいろいろ考えたんだ。僕は何がしたいのか? 僕がみんなにしてあげれることはあるのか?」
 僕は一生懸命考えた。生まれて初めて真剣に考えた。
「でも、結局、何も思いつかなかった。今まで考えた事も無かったんだし、たった三日で思いつくようなものじゃないかもしれない」
「……それで?」
「何も思いつかなかったけど、僕はいままで、自分で何も知らない卵だったんだって、わかったんだ。まわりが気を使ってくれて、守られて、波に漂うだけの行き先もない卵だったんだって」
 だから、僕は何をしたいのか、考えもせずに、なんとなく生きてたんだ。
「そう。それはよかったわね」
「うん。だけど、それに気づけたのは、美布由のおかげだよ。だから、ありがと」
 僕は美布由に最高の笑顔を向けた。
「な、なに言い出すのよ。き、季子が勝手に自分で思ったんでしょ。あたしは何もしてないわよ」
「ううん。そんなことない。だから、美布由にお礼が言いたかったんだよ。でも、ありがとうって言うだけじゃ、僕の気持ちは全然足りないから……僕の気持ちを伝えたいんだ」
 僕は真っ直ぐ、美布由を見た。
「十分伝わっているわよ。何年、季子と一緒にいると思ってるのよ」
 美布由は僕に見つめられて、そっぽを向いた。
「それと……あの日のやり直しもしたいんだ。もう遅いかもしれないけど……」
 僕は消え入りそうな小さな声でそう言った。だけど、美布由の耳に届いたらしく、美布由ははっとした顔で僕の方を見た。
「……だから、僕の歌を聴いて欲しいんだ。これが、僕の気持ち」
 僕は美布由が何か言う前に歌い始めた。
 僕の歌に歌詞なんて要らない。気持ちがそのまま歌詞になり、メロディーになり、リズムになる。
 卵だった僕を守ってくれていた兄さんや美布由にありがとうというために僕は歌う。
 卵から孵ったばっかりの僕は稚魚で、まだまだみんなの支えが必要だけど、僕は僕の道を進むことが出来る尾ひれを手に入れた。その喜びを歌う。
 僕を支えてくれた、そして、支えてくれるすべての人々に感謝を込めて歌う。そう思うだけで充分だ。
 そして、僕の愛しい人、美布由への気持ちを。
 僕の声に水が、大地が、風が応じる。それがハーモニーになる。僕は世界に溶け込むように歌った。かなたまで遠く、どこまでも広く、心よりも深く、僕の歌が響いていくような感じがした。
 なんだか、河野さんも武田君もクラスのみんなも先生達もその他、僕を嫌っている人のことも許せるような気がした。そんなのが小さい事なんて思ったからじゃない。
 そう、小さい事なんてとんでもない。みんな、一生懸命なんだ。一生懸命が小さいわけが無い。偽りだったとしても、みんな、僕に優しくしてくれたじゃないか。それだけで充分だと思った。僕はみんなに何もしてないのに。僕は求めすぎてただけなんだ。
 そう思うと、僕の歌は――僕は更に広がって世界と一つになった。
 この時間がいつまでも続けばいいと思った。だけど、次第に世界だった僕が一人の僕に戻った。
 ふと気が付くと、僕は池のほとりに座っていて、歌っていた歌の余韻が喉から消えていくのを感じて、自分が今歌っていたことを思い出した。
「美布由?」
 美布由は俯いて座っていた。
「……わよ」
「? なんて?」
 感度のいい人魚の耳でも聞き取れずに僕は聞き返した。
「ずるいわよって言ったのよ! 当たり前じゃない! 人魚の歌だもん! 感動するに決まってるでしょ!」
 美布由が顔を上げてそう怒鳴った。ぼろぼろに涙をこぼして美布由が僕に抱きついてきた。
 僕は美布由を抱きとめた。まだしゃくりあがるような嗚咽が聞こえる。僕はそれが収まるのを待った。
 美布由は嗚咽が収まると、僕の肩を持って、引き離すと、
「一人じゃないんだから。あたしも一緒なんだから。忘れないでよ。もう、逃げちゃだめよ。わかった?」
 涙で赤くはれた目で美布由は僕にそう言った。
「うん。わかったよ、美布由。僕はもう逃げないよ」
 僕は最高の笑顔で答えるつもりだったけど、涙がこぼれてしまった。

 きっと、僕が美布由を連れて泳げるようになったら、そのときにまた僕のありがとうを美布由に届けよう。

 僕は強くそう思った。
 これが、僕の人魚としての本当の第一歩。



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