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『いちごいちえ』

作:南文堂




 テレビの天気予報士が梅雨前線の話題を取り上げて、見慣れた半円と三角のくっついた万国旗のような線が北上、南下と忙しく説明し、結局のところ、天気は雨というたった一言で終わってしまう季節。
 うっとうしい長雨があがり、梅雨の晴れ間といわれるまぶしい日差しに美津紀(みつき)は目を細めた。
 五月の連休明けから体調がいまいちで、最初は五月病だろうと家族と笑っていた。美津紀も「ひどい家族」といいつつも、保育園年少組から中学二年の今まで無遅刻無早退無欠席、インフルエンザによる公欠もなしの完全無欠の皆勤賞をとっている健康優良少女であったので、自分の健康には自信を持っており、連休の家族旅行の疲れが出ただけとたかをくくっていた。
 しかし、一向に倦怠感が抜けないので親戚の伯父が勤めている病院で検査をしてもらったのであった。そして、今日がその検査結果を聞く日であった。
「まったく、せっかくの土曜日でこんなに晴れているのに病院なんて、ついてない」
 美津紀は幼さの残る頬を少し膨らませて文句を言った。
「結果を聞くだけだから、すぐに終わるわよ。終わったら、せっかく、お父さんも一緒なんだから、食事に行きましょう」
 彼女の母親は、苦笑しながら膨れた娘をなだめた。
 たかだか検査の結果を聞くだけなのに家族そろってお出かけなど恥ずかしかったが、外で食事というのは美津紀にとってうれしかった。しかも、前から気になっていたシティーホテルのランチバイキングである。お目当ては、そこの有名パティシエのイチゴケーキである。
「あ。お姉ちゃん、よだれ垂れてるよ」
「え?」
 美津紀は弟の指摘に思わず、口元に手を当てた。当然、よだれなど垂れているわけがない。花も恥らう乙女がそんな醜態を無意識でも晒すはずがなかった。
 美津紀は偽の指摘をした弟をきっと、にらみつけた。しかし、生意気盛りの彼女の弟は「やーい、ひっかかった」という笑顔を返した。
「カツアキ!」
 美津紀は姉の威厳を保つために弟を怒鳴ったが、あまり効果があるとは言えず、それがまた癪に障り、姉弟げんかに発展しようとしたちょうどその時、絶妙のタイミングで母親の一言が飛んだ。
「いい加減にしなさい、二人とも! そんなんじゃ、お昼は抜きよ」
 鶴の一声。まさにそれであった。二人はおとなしく矛先を納めて、表面上仲良く病院へと向かった。
「こんな元気な病人がどこにいるんだろうね」
 父親があきれたように苦笑した。その言葉に母親が「まったくね」と相槌を打って笑いあっていた。

 二重になった自動ドアを潜り抜けると、外の湿度九十パーセントの世界とは別世界が広がっていた。快適な温度湿度がコントロールされた待合室はじっとり汗ばんだ身体には少し寒かったが、その冷たさが心地よかった。
 基本的に紹介状がなければ診察してくれない地域の中心的総合病院であったため、待合室にいる人間もまばらで、少しのんびりした空気が流れている。土曜日の昼前で、大抵の診察客は既に診察を終えているかららしいが、空いていることは美津紀を安心させた。
(もし、友達のお父さん、お母さんに会ったら、心配されちゃうもの)
 美津紀は健康が何より一番の取り柄というのが彼女の友人の間での共通認識だった。本当は成績も良く、学年上位に常連で入っているし、顔立ちもかわいく、明るい性格で友達も多く、面倒見がいいためか、リーダー的な存在でもあった。しかし、友人が彼女を最初に評すのは『健康優良少女』であった。
 本人としては、「もっと他にあるでしょうが」と文句をいっているが、本心ではそういわれる事は嫌いではない。
 その彼女が病院に行ったとなれば、友達が必要以上に心配するだろうことも予想の範囲内であった。
(健康優良少女も辛いよ)
 美津紀は軽く気障っぽくため息をついた。検査の結果を聞きに来ている割にはお気楽なものである。
 本当のところ、体がだるいのは確かだが、ほとんど気のせいにできるレベルであった。心配性の父親が伯父に相談して、あまりに心配するので伯父も仕方なく、自分の勤めている病院へ紹介状を書いたというわけである。
(『おとうさんは心配性』ってギャグ漫画があったけど、あんな変態お父さんにならないかしら? 心配だな)
 美津紀はマニアックな漫画を思い出しつつ、名前を呼ばれるのを待った。
 人が少ない割には、呼ばれるまでに時間がかかる。暇をもてあました美津紀は隣に座っている家族を見た。弟の勝昭は雑誌コーナーにおいてある読み飛ばしてしまった数週前の漫画雑誌に夢中で読んでいた。母親は同じく女性雑誌を読んでいる。韓国の有名スターの裏話に食いついてしまったようだ。ああなると、鍋を焦がしても気がつかない集中力を発揮する。父親は家で取ってない新聞を吟味していた。また、新聞を変えるための検討をしているのかもしれない。
 どこにでもいるごく平凡な家族。美津紀は不意にその平凡さが心に染みて、急に胸が熱くなった。
「ともさか みつき様。友坂美津紀様」
 名前を呼ばれて、はっとした美津紀は自分が泣いていないか確認してから立ち上がった。
 しかし、家族の誰も立ち上がらない。
「お父さん、新聞見にきたんじゃないでしょ。お母さんも、どうせ、その雑誌、帰りに買うんでしょ? カツアキもいい加減にしなさい」
 美津紀は一緒に来ていながら本来の目的を完全に忘れている家族にあきれて、病院内ではお静かにという標語を無視して大きな声を上げた。彼らにとって美津紀の検査結果など、その程度のものであった。
 父親など、美津紀のことを心配して検査を受けさせておいて、受けたことで安心してしまい、心配が冷めればその程度であった。もっとも、美津紀が普段と全く変わりないのを見ていたので仕方ないといえば、仕方なかったが。
「ともさか みつき様。ともさか みつき様。いらっしゃいませんか?」
「あ、はい。すいません」
 もう一度、看護士に呼ばれて慌てて返事をして、両親と共に診察室に入っていった。弟の勝昭は行っても仕方ないと、待合室で漫画を読み続けることにして、ついてこなかった。
 美津紀は診察室に入ると消毒液のにおいが鼻について、ちょっと緊張した顔つきになった。
「おまたせしました、友坂美津紀さん」
 温和そうな初老の医師が振り向きながら、美津紀の緊張を解くような笑顔を浮かべた。彼女だけでなく、両親も少し緊張していたのだろう、軽く息を吐く音が聞こえて、美津紀は苦笑した。似たもの親子である。
「ええと、検査の結果は……異常なし。たぶん、季節の変わり目で少し疲れが溜まっているんでしょう。早寝早起きと規則正しい食事と運動をしていれば、よくなりますよ」
 医師は笑顔で美津紀の検査結果を伝えた。我知らずに美津紀は思わず、安堵の息を吐いて、慌てて口に手を当てた。
「心配してたんだね。大丈夫だよ」
 医師は美津紀の頭を優しくなでた。そんなに子供じゃないと言いたいが、そのなでられる感触が心地よくて、言うタイミングを逃してしまった。我に返ったときには既になでられ終わった後である。
「先生、セクハラですよ」
 何も言わないのは悔しいと美津紀は拗ねるように言ってみた。本気でないのは誰の目にも明らかである。
「美津紀! 先生に失礼でしょう」
 母親は世間知らずの自分の娘を戒めるようにぴしりと叱った。
「いやいや、これはレディーに対して私が失礼でした。お許しください、ミス・トモサカ」
 医師は見かけによらず、優美な仕草で気品溢れる本物の英国紳士のように美津紀に謝罪した。それがまるで映画のワンシーンのようで、美津紀は少し頬を高潮させ、映画のように返す言葉を捜した。
「いいえ、わかってくだされば結構ですのよ、ドクター・カドマツ」
 陳腐な台詞だが、小市民家庭の中学二年女子ではこれが平均限度一杯だろう。医師もにこやかに笑って、それに応えた。
「体調を早く回復するのにお父さん、お母さんに食事のメニューやなんかを教えておくから、マドモアゼルには少しばかり、席を外していただこうか?」
 診察室の奥から笑いを堪えながら美津紀のよく知る顔が現れた。
「笑わないでよ、伯父さん。似合わないのはわかってますよーだ」
 美津紀はそう言って、勢い良く立ち上がり、出て行こうとした。しかし、その前にふっと目の前が真っ白になり、前後上下があやふやになった。
「倒れる」
 美津紀は身を硬くしたが、身体を誰かが支える感触を感じ、倒れるのは免れたことを知り、ほっとした。そのうちに視界が戻り、父親が心配そうな顔でしっかりと美津紀を支えているのが目に入った。
「ありがとう、お父さん」
 美津紀はなんとか平衡感覚が戻ったことを恐る恐る確認しながら、父親から身を離した。
「まったく、気をつけろよ。美津紀はそそっかしいところが、母さんに似てるんだから」
「お父さん。それはちょっと聞き捨てならないわね」
「きゅ、急に立ち上がるから、立ちくらみになるんだ。気をつけなさい」
 母親に睨まれて父親は急遽話題を変え、美津紀に注意した。
「はーい、気をつけます」
 美津紀は立ちくらみを起こしてこけそうになるという失態をうやむやにしたくて、そそくさと診察室を出ていった。

 美津紀が待合室に戻ると弟の勝昭はまだ漫画本と格闘していた。読んでいる号を見ると、どうやら、前のを読んで、読んだことのある回のまで読みたくなったのだろう。熱心なことだと感心した。
 両親が医師と話があるので待っていなければならないが、美津紀にとって病院というのは来慣れていないだけに珍しさもあるが、それ以上に居心地の悪さを感じて仕方なかった。
「あ、そうだ。由貴にメールしておかなきゃ」
 そう思って、自分の携帯を探したが、見当たらない。
「あ! お母さんのバッグの中だ」
 美津紀は病院内では携帯の電源を切るという常識的なマナーを守り、もし、診察することになってもいいようにポケットに入れずに、母親のバッグの中に入れたことを思い出した。
「外で使うし、いいよね?」
 誰とはなしに確認すると、美津紀は両親のいる診察室に戻った。しかし、診察室には両親はおらず、看護士が忙しそうに器具の手入れをしていた。
「あの、すいません。門松先生はどちらに行かれました?」
 自分の主治医の居場所を聞くのが一番の近道と頭をめぐらして、看護士に尋ねてみた。
「あれ? 門松先生は廊下の突き当り、第三会議室に行きましたよ。カンファレンスすると言ってたから急いでいったほうがいいわよ」
 看護士は自分の仕事に集中して、美津紀の方を見ずに答えた。
「ありがとうございます」
 美津紀はカンファレンスの意味がわからなかったが、急いだ方がよさそうなことはわかり、廊下を迷惑にならないように急いだ。
 会議室には表札があったので、美津紀にもすぐにわかった。中から彼女の両親の声が聞こえるので、間違いようもなかった。その声がなにやら大きな声だったが、美津紀は迷わず、そっとドアを開いた。携帯を貰うだけだから、母親だけ呼び出せば事足りる。何か大事な話をしているのかもしれないから、邪魔してはいけないと彼女なりに気を使ったのであった。
 日ごろの油さしがいいのか、ドアは音もなく開いて、美津紀は部屋の中に滑り込んだ。ついたてがあるので、入ってきても彼女の姿は中の人には見えない。美津紀はそっと、母親だけ呼び出そうとついたてから顔を覗かせようとした。その時――
「冗談にもほどがありますよ、義兄さん」
 険悪な父親の声に美津紀の体が硬直した。
「こんな悪趣味な冗談がいえるか」
 なにやら、父親と伯父が言い争っている。二人の声の後ろには母親の嗚咽が聞こえて、美津紀の頭は少しパニックになった。
「兄さん。お願いだから、お願いだから嘘といって。間違いといって」
 母親の狂いそうな声が聞こえて、美津紀の鼓動が早くなった。
(なんだろう? すごくイヤ)
 美津紀は心臓を押さえつけるように胸に手を当てた。やっと膨らみかけたやや遅い成長の胸が強く押されて痛んだが、そうしないと心臓が飛び出すかもしれないと痛みを無視した。
「残念ですが、友坂さん。検査の結果は、変わりません。お嬢さんは、珍しい血液病にかかっております。余命は、長くて三ヶ月でしょう」
 先ほどの温かみのある初老の医師の声がまるで、かみそりのように冷たく部屋に響いた。
 母親はその宣告に再び大泣きした。
「治療法は? 治療法はあるんだろ? 今の医学は発達している。なあ、義兄さん」
「すまない」
「すまない? なんだよ、それ」
「この病気の治療は今の医学では不可能なんだ。症例自体が世界でも三十例もないんだ。しかも、子供の症例は数例あるだけ。死亡率は百パーセントだ」
「じょ、冗談じゃない! あの子はあんなに元気じゃないか! 死亡率百パーセント? 何かの間違いに決まってる」
「残念ですが、彼の言っていることは本当です。有効と思われる薬はあるのですが、その薬は抗がん剤の一種で、国内で認可されていない副作用の強いものです」
「副作用が強くても、治るなら」
「治る事はありません。上手く効いても延命は一ヶ月程度なのです。効かないケースも多い。しかも――」
「投与した時に、へたすればショックで死んでしまう。特に子供は! 何もできないんだよ」
 机を激しく叩く音が聞こえた。悲しいその音に美津紀は心が引き裂かれそうになった。
(なんなの? 一体、何の話?)
「そんな、あんまりよ。あの子はまだ、十四年しか生きてないのよ。それなのに、それなのに……美津紀が、美津紀があと三ヶ月の命なんて――」
 母親の慟哭が会議室を満たし、美津紀の胸に突き刺さった。
「うそ、でしょ?」
 美津紀は隠れていたはずなのに、いつの間にかついたてからふらふらと歩み出ていた。
「美津紀!」
 八つの目が驚きと絶望と困惑とに揺れながら彼女に注がれた。美津紀はそんな視線を全く感じずに、自分の視線もあやふやになりつつ、夢遊病者のように彼らの近づいた。
「うそ、よね? 三ヶ月なんて」
「美津紀……ちゃん」
「うそよね? さっき、異常なしって言ったじゃない」
「美津紀ちゃん」
「うそだよね? そんなことないわよね? だって、あたし、健康よ。ほら、どこも痛くない。どこも悪くない。ねえ、見て。見てよ。ちゃんと見てよ。どこも悪くないんだから!」
 最後はなんだかわからない叫びになっていた。しかし、四人の大人は誰も美津紀と目をあわそうとしなかった。それが答えであった。
 美津紀はわけもわからず、走り出した。
「美津紀!」
 彼女を後ろで呼ぶ声が聞こえるが、振り返らずに全力で駆けていった。
「あ、お姉ちゃん。お父さん、お母さん、遅いね。まだかかる――って、お姉ちゃん?」
 待合室で漫画を読み終わった弟の呼びかけを無視して病院の外へと飛び出していった。

 梅雨明けするには少し早いが、ここ数日、いい天気が続いていた。空梅雨というわけではなく、梅雨の中休みで、週末には再び雨になるというのが天気予報であった。
 世間の主婦たちはその中休みの間にと、忙しく庭やベランダに洗濯物の白い花を咲かせていた。
 しかし、美津紀の部屋は明るい日光を拒むように硬くカーテンで閉ざされ、電気もつけられていなかった。
 もし、カーテンがあいていたら、電気がついていたら、その惨状に誰もが息を飲んだだろう。クッションやぬいぐるみのようなものが部屋の中に散乱し、一部は引き裂かれて、中の綿がはみ出して部屋に舞い散ってあった。綺麗に並べられるはずの本はめちゃくちゃに床に散らばり、その間に小物が散乱している。まるで、部屋の中を台風が通過したような、そんな散らかりようであった。
 その部屋の壁際に置かれたベッドの上でシーツにくるまり、小さく身を固めていた少女がいた。少し頬の痩せ、そのくせ、目だけが異様にぎらつき、世の中全てを恨んでいるような光を放っていた。
「なんで、あたしだけ……」
 ベッドの上の少女、美津紀はそれまで幾度も繰り返された呟きをまた繰り返した。
 別の病院で検査してもらったが、結果は同じであった。
 美津紀の病気は末期になるまでおそろしく病気の進行が遅い。そのため、自覚症状は死の数日前まで全くといっていいほどないのが特徴らしい。末期になって検査して、病名が判明すると同時に亡くなるケースも珍しくないらしかった。
 緩やかに進行し、ある一点を超えると一気に死に突き進む。その一点がいつかはまったくわからない。悪魔のような病気である。医師たちの三ヶ月もはっきり言うと、あまりあてにできないらしい。
 しかし、美津紀にとって、その三ヶ月が、四ヶ月でも二ヶ月でも変わりはない。迫り来る死という絶望が間近にあるだけだった。
 病気がほぼ間違いないと知り、自殺すらも考えたが、結局それはしなかった。負けてなるものかという気持ちよりも、面倒だったというほうが強い。そんな事をしなくても、どうせ死ねるんだからと自殺を心配した両親に乾いた笑いで答えていた。
 恐怖に怯えながらも、自暴自棄になり、周囲につらく当り散らしていたが、結局、そのたびに虚しさだけが募るだけで、その虚しさが恐怖へ変わっていった。
 美津紀の目に涙が滲んだ。
「なんでよ? もう、涙は枯れたと思っていたのに」
 彼女はシーツに顔をうずめて、低い嗚咽を漏らした。

 数日後、何をするわけでもなく、美津紀は壁に身体を預けて、部屋を見ていた。
 あれほど荒れ果てた部屋は綺麗に片付けられていた。母親が掃除してくれたのである。暴れたのは数日前が最後で、あとは生気が抜けた人形のように言われるがまま動き、食べて、寝ていた。
「もう、何もしたくない」
 美津紀はそう思っていたが、だんだんと死が近づいている事を思い出すと、それがとてもおそろしく感じるようになってきた。
「このまま、あたし、死んだら、何もしないで死んだことになる」
 この世に生きた証を何も残さずに消えていく。感情でもなんでもなく、本能的に背筋が凍った。
「なにかしなきゃ」
 そう焦ったが、自分に残された時間で何ができるのかと考えると、
「あと二ヶ月で何ができるのよ?」
 そうせせら笑う自分が現れる。結局、何もできないような気がして何もできず、貴重な時間だけが過ぎていった。
「もういいや」
 そう思う心と
「何かしなきゃ」
 と思う心が交互に浮いては沈み、沈んでは浮き、美津紀の心の中は以前にもまして荒れていた。
 その日も何をするわけでもなく、部屋の窓から外を眺めていた。
 彼女の家の前を一人の少年が楽しそうにスコップを担ぎながら通り過ぎようとしていた。泥で汚れたジャージに、気温も上がり、昨日の雨のせいで蒸し蒸しした日なのに長袖のシャツを着ていた。しかも、ご丁寧に首にはタオルを巻いて、麦藁帽子を背中に下げている。その姿は、お世辞にも格好よくなかったし、その本人もそう思っていないだろうが、そんな事は気にしていないふうであった。
 美津紀はその少年を知っていた。小学校低学年までよく一緒に遊んだ、幼馴染みである。小学校のクラスが変わって、女子は女子、男子は男子で固まるようになって、あまり遊ばなくなった。家が近すぎて、年賀状も交換しない。よく知っているはずなのに、ほとんど知らない男の子――遠野耕太(とおの・こうた)。
「コウちゃん」
 美津紀は思わず、窓を開けて、その少年のあだ名を呼んだ。耕太は突然あだ名を呼ばれて、周囲を見渡したが、人影もなく、彼女の家を見上げて、彼女を見つけて驚いてはいたが、にっこり笑った。
「いま、僕を呼んだの、友坂さん?」
「なにしてるの? スコップなんて持って」
 美津紀は久々に明るい声で耕太に問いかけた。彼の笑顔がそうさせた。彼はあまりハンサムではないが、昔から人懐っこい笑顔がかわいい。女子の間でも母性本能をくすぐると密かな人気があった。
「うん。学校のバラ園を世話してるんだ。学校のスコップは、今日はドブ掃除に使うから一本もなくって、仕方ないから、おじいちゃんの家から借りてきたんだよ」
 担いでいたスコップを軽く上げた。かなり使い込まれていたが、手入れが行き届いていて、太陽の光を眩しく反射した。
「バラ園? そんなのあったっけ?」
「あるよ。ほら、南側の池があるだろ? その横の災害備蓄倉庫の向こう」
 耕太は真っ当な学校生活をしているかぎり、行く事はまずない場所を口にした。美津紀は記憶の糸を手繰り寄せるが、バラ園などしゃれたものと一致する風景は思い浮かばなかった。
「あんなところに? でも、花壇はあったような気がするけど、バラ園だったの?」
「ずいぶんと長い間、手入れをしてないからね。花壇に見えたなら、まだましな時だったんだね」
 耕太は苦笑してその認識を認めた。彼が手入れを始めた時はゴミ捨て場と思ったほどの荒れようだった。忘れ去られる場所なのに不良の溜まり場にならなかったのは、体育教官室が近かったという偶然のおかげにほかならなかった。
「コウちゃんって、バラ好きだっけ?」
 美津紀は小首を傾げた。確かに、小学校の時も朝顔を他の誰よりも大きく立派に育てて、いっぱい花を咲かせたり、園芸が好きという、小さな男の子にしては変わった趣味ではあったのは知っていた。しかし、バラが好きというのはイメージになかった。どちらかというと、清楚な花が好きなイメージがあった。
「うーん、どっちかというと、あんまり」
 耕太は困ったように彼女の質問に答えた。
「え? じゃあ、なんで? 先生にでも押し付けられたの?」
「ちがうよ。自主的にやっているんだ。先生には許可してもらったんだ」
 窓から身体を乗り出す美津紀にあぶないと手振りで止めた。彼女は自分が二階の窓から話していることを思い出して、乗り出した身体を部屋の中へと引っ込めた。
 それを見て安心した耕太は話を続けた。
「バラは匂いがきついし、なんだか派手だから、僕の好みじゃないんだけど、でも、みんなで見るのは楽しい花だから。ほら、華やかだろ? それに、いい匂いがするからみんな見に来るし。せっかく、学校にバラ園があるんだし、もったいないなだろ? バラだって、綺麗に咲いてみんなに見て欲しいとおもっているだろうし」
 耕太は好みではないといいつつ、楽しそうに語った。
「そうなんだ」
 美津紀は彼の屈託のない笑顔が眩しく見えて仕方なかった。まるで今の季節の太陽のように思えた。
「うん。それじゃあ、また」
 彼は話を切り上げて歩き出そうとした。そのとき、美津紀はなんだか置いていかれる気がした。そして、その途端、頭の奥に何か光が差し込んだ。
「待って! あたしも手伝う!」
 美津紀は再び窓から身を乗り出して耕太を呼び止めた。
「え?」
「いいでしょ? それともだめ?」
 驚いて振り向いた耕太に美津紀はできるだけかわいらしく、精一杯媚びるようにお願いした。それが通用したかどうかは、耕太の顔が夏の暑さ以外で赤くなった事で証明されていた。
「いいけど、あんまり楽しくはないよ。疲れるし、土で汚れるし、虫だっているし」
 花を育てるのは綺麗で楽しい事ばかりではない事を知っている耕太は暗い顔をした。嫌になって途中で投げ出されるのはいいが、それで園芸を嫌いになられるのは悲しい。
「む、虫?! ……はあんまり好きじゃないけど……」
 美津紀はうぞうぞとはいまわる虫を想像して、少し顔を引きつらせたが、そんな事で引き下がるわけにはいかない。
「だけど、ちゃんとするから。いいでしょ? 一生のお願い」
 美津紀は両手を合わせて耕太に頼み込んだ。一生。という言葉を使った時、ちくりと胸が痛んだが、振り返らない事にした。
「うん、そんなにいうんなら、いいよ。イヤになったら、やめてもいいし」
 一度言い出すときかない性格を知る幼馴染みは、変わらない性格に嬉しさ半分、苦笑い半分でバラ園再生委員会の入会を認めた。現在のところ、会員は二人だが。
「そんなことない。友坂美津紀に二言はないわよ。死ぬまでちゃんと手伝ってあげる」
「へいへい。大げさだな。それじゃあ、汚れてもいい服に着替えておいでよ。待ってるから」
 二階の窓際で胸を張っている美津紀に笑いながら、耕太は担いでいたスコップを降ろした。
「うん、すぐに行くから、待っててね、コウちゃん」
 せわしなく美津紀は部屋の中に消えると、どたばたと音を立てて準備しているのを耕太はのんびり待った。
(そういえば、なんか病気でここ最近、学校休んでるって聞いたけど、治ったのかな? まあ、あんだけ元気なら治ったんだろうな)
 耕太はクラスの女子が話していたことを思い出しながら、ボーっとした。
(でも、コウちゃんなんて呼ばれるのは久しぶりだな)
 耕太は美津紀が昔の呼び方で自分を呼ぶのを思い出して、思い出しうれし笑いを浮かべていた。
「なに、にやついてるのよ。コウちゃん」
 一人悦に入っているところを呼びかけられて、耕太は驚いてこけそうになった。なんとか、こけるという醜態を晒さずにはすんだが、恥ずかしさに顔を赤くした。
 呼びかけた美津紀はジャージにトレーナー、頭には麦藁帽子をかぶっていた。お洒落な格好とは程遠いが、やはり、女の子である。耕太と同じ格好でも華やいで見えた。
「は、早かったね」
「あんまり待たして、行っちゃったら嫌だから」
 美津紀は真剣な顔でそう言うと耕太は思わず、吹き出した。
「そんな意地悪しないよ。じゃあ、行こうか、友坂さん」
 耕太はスコップを担ぎ上げ、歩き出そうとした。しかし、美津紀は不満顔で耕太を睨みつけた。
「どうかしたの? やっぱり、嫌になった?」
 耕太は怪訝に思ったが、すぐに理由を思いつき、寂しそうに訊いた。
「違うわよ。友坂さん――なんて、他人行儀に呼ばないで、昔みたいに呼んでよ、コウちゃん」
「え?」
 耕太は美津紀の不機嫌の理由が思わぬ事にびっくりして、固まった。
「それとも、昔の呼び方忘れちゃったの?」
「お、憶えてるよ、それぐらい」
「じゃあ、呼んでみてよ」
「み、ミツキちゃん……」
 美津紀にせかされて、耕太は暑さ以外の理由で喉を乾かしながら、なんとか彼女の昔の呼び名を言う事に成功した。
「うん、コウちゃん。これで、最強コンビ復活だね」
 美津紀は満面の笑みを浮かべると、片手を高く上げた。耕太は反射的にその手とハイタッチした。小さい時の二人のお約束であった。
 耕太はそのハイタッチで小学二年からさっきまでの、彼女との空白の六年を取り戻したような気分になり、笑いがこみ上げてきて、楽しそうに笑った。

 その日は朝から小雨が降り出して、うっとうしい天気になっていた。梅雨だからとはいえ、じめじめしたこの季節を喜ぶのはカエルぐらいなものだろう。もっとも、雨が降らなければ、降らないで、空梅雨で水不足と心配するのだが。
 そんなことはさて置いて、うっとうしい天気でも朝がくれば一日が動き出す。友坂家もそれは変わりなかった。
 昨日は久々に明るい美津紀を見ることができたが、今日もまた見られる保障はない。変な緊張が朝の食卓に漂っていた。
「お姉ちゃん、やっぱり、起きてこないね」
 小学生の弟、勝昭が食卓に朝食だけが並んで空席となっている椅子を見ながら独り言のように呟いた。
「だれが起きてこないって? カツアキ」
「お、お姉ちゃん!」
 食卓のある居間に姿をあらわした美津紀に家族全員が目を丸くした。別に変な格好をしているわけではない。普通に学校指定のセーラー服を着て、朝の支度を済ませた、ごく普通の、数週間前までの彼女の朝の姿であった。
「美津紀、あなた……」
 母親は口に手を当てたまま目を見開いて、涙を溜めている。父親も何かを我慢するかのように口をつぐんでいた。
「ごめんね、お母さん、お父さん、それに、カツアキ」
 美津紀は何か吹っ切れたような笑顔を浮かべた。
「美津紀……」
「今日から、学校に行くから。あたし、一生懸命、生きていこうと思う」
「美津紀……」
「ほらほら、朝から湿っぽいのは天気だけで充分だぞ。早く食べないと、遅刻しちゃうわよ」
 しんみりする食卓を明るくしようと、美津紀がはしゃぐような声で朝食を急かした。母親は耐え切れずに背を向けて肩を震わせていた。父親も何も言えずに朝食を口に運ぶ事しかできなかった。ただ、一人、一番歳下の勝昭だけが、彼女に向かって、笑顔を見せた。
「よかったね、お姉ちゃん」
 その言葉で父親の目からは堰を切ったように涙があふれ、母親は堪えていた嗚咽を漏らした。勝昭も目に涙を浮かべている。もちろん、美津紀の目にも。

 美津紀は学校に復帰し、クラスメイトたちに明るく迎えられた。彼女の病気は学校にだけ報せてあるだけで、生徒には報せないようにと彼女と彼女の家族が望んだのであった。
「でも、美津紀が貧血なんてびっくりだよ」
「ほんと、ほんと。貧血なんて、薄幸の美少女にぴったりな病気なのに」
「ひっどーい。それじゃあ、あたしが薄幸の美少女じゃないみたいじゃない」
「美津紀は薄幸の美少女というより、明朗快活元気印だもんね」
「もうっ、みんなして。これでも、かよわくて繊細でナイーブな、ガラスのように壊れやすい乙女チックな心の持主なのよ」
「自分で言ってる段階で、それはないって」
「ふーんだ」
「乙女チックといえば、聞いたわよ。美津紀、B組の遠野君と付き合ってるんだって? 退院そうそう、やってくれるわね」
「なっ! そ、そんなんじゃないって」
「照れるな、このっ。毎日放課後、校庭の片隅に仲良くしけこんでるって、ネタは上がってんだ」
「あ、あれは……」
「まあ、二人揃ってジャージ姿でほっかむりじゃあ、ロマンも何もないけどね。土いじりしながら恋の炎を燃え上がらせるなんて、難しそうだもんね」
「でも、遠野君らしいよね、なんだかほのぼので」
「いえてる」
「もう、違うって! 遠野君とは幼馴染で、バラ園を復活させるのを手伝っているだけよ」
「はいはい」
 美津紀は病院に行かなければならない日を除いて、ほとんど毎日、耕太の作業を手伝った。園芸の初心者で力もさほどない彼女にたいした事はできなかったが、一人いるといないでは作業の進み具合が格段に違っていた。バラ園は徐々に本来の姿を取り戻してきていた。
 そして、そうこうしているうちに梅雨明けが宣言され、学校は夏休みに突入した。
「もちろん、夏休みもするのよね?」
 終業式が終わって、美津紀はいつものように耕太の作業を手伝いながら訊いた。
「うん、そのつもりだけど、無理しなくていいよ。来れる時だけで、ミツキちゃん」
「冗談じゃないわよ。最初にいったでしょ、ちゃんと手伝うって」
 美津紀はムッとした顔で耕太を睨みつけた。睨まれた方は嬉しそうに笑っていた。
「うん。ありがとう、ミツキちゃん」
「あたしはしたくてしてるんだから、コウちゃんにお礼言われる筋合いはないわよ」
 屈託のない顔でお礼を言われて、美津紀は思わず顔を赤らめた。
「はいはい。わかってるよ。でも、一番綺麗に咲いたのをはミツキちゃんのものだよ。それぐらいさせてよね」
「バラって、咲くのは秋よね……」
 美津紀は少し俯いて唇を軽くかんだ。
「ん? 秋まで待てないなんて、ミツキちゃんらしいね」
 耕太は幼馴染みの気の短さをおかしそうに笑った。
「ち、違うわよ。あたしは、ただ、二学期にみんなが登校して来たときに、バラが咲いてたらいいなって思っただけよ」
 耕太の勘違いを正すわけにもいかず、美津紀は適当な嘘の言い訳を口にした。嘘だったが、口にして、それもいいなと思ったので、完全に嘘とは言えないと自分に言い聞かせた。
「そうだね。確かにいいよね。安心してよ、あそこのバラは夏の終わりに咲くから」
 耕太はバラ園の一角を指差した。
「え? 本当?」
「うん。この種類は四季咲きって言って、本当は春から秋に咲きつづけるんだけどね。手入れをしてなかったから、三番花を咲かせなくなったんだよ。でも、ちゃんと土を調え、水をあげて、肥料をやったから、今年は多分、夏休みが終わる頃に咲き始めると思うよ」
 充分に成長したバラは種類にもよるが、春から秋にかけて剪定や追肥など条件を整えると何度も花を咲かせる四季咲き性という性質を持っている。耕太は美津紀が手伝い始める少し前の六月中ごろに花がら摘みを行っていたので、次に咲くのは八月中旬から下旬と彼は予想していた。
「本当?」
 真剣な目で詰め寄る美津紀にちょっとびっくりしながら耕太は頷いた。
「絶対とは言えないけど、ちゃんと世話したら、多分」
 三番花はかなり好条件でないと咲かないこともあり、不安はあったが、頷かないわけにはいかない迫力があった。
「じゃあ、じゃあさあ。最初に咲いたバラの花、あたしにちょうだい」
「いいよ、それぐらい。でも、色とかよくないかもしれないよ」
 耕太は一番をもらいたがる美津紀が昔と変わらないと思わず微笑んで、忠告した。
「いいの。あたしはそれで」
 美津紀はにっこり笑ってそれに応えた。
「まあ、いいよ。ミツキちゃんには一番最初に咲いたのと、一番綺麗に咲いたのをあげるよ」
「ありがとう、コウちゃん。でも、いいのかな? 学校のものを勝手にあげる相手を決めて」
 美津紀はふと、優等生らしく、規則の事が気になった。
「世話をしているんだから、それぐらいのご褒美はくれてもいいと思うよ。それに、この肥料とか薬とか、苗とか僕の自腹だし」
「ええっ! 学校のじゃないの?」
 美津紀は耕太の告白に目を丸くした。美津紀が知っているだけでも、これまでにつぎ込んだそれらの量はなかなかのものである。中学二年のお小遣いではかなりの負担だろう。
「クラブ活動じゃないし、僕の趣味みたいなものだからね。学校にただで場所を貸してもらっていると思えば、大した事ないよ」
 確かにこれほどの面積を借りようと思えば、かなりのお金がかかる。しかも、耕太はちゃっかり、バラ園の脇に自分の花壇を作って、自分の好きな花を植えていた。
「でも、お小遣い足りなくなって、兄ちゃんに借りてるんだけどね」
 耕太は強がりを言ったけど、実はかなり苦しいと本音を漏らした。
「あたしも――」
「だーめ。ミツキちゃんの植えたい花があったら、それはミツキちゃんがお金を出せばいいけど、これは僕がやりたくてやり始めたものだから」
 美津紀が何か言うより先に耕太が彼女の言おうとしていた事を言えなくした。
「でも、あたしもしたいからしてるんだよ。仲間外れにしないでよ」
 美津紀は目に涙を溜めながらいった。耕太はその涙に驚いて、オロオロした。
「な、泣かないでよ、ミツキちゃん。そんなことで、仲間外れにしないって。ねえ」
「でも、でも……」
 たまった涙がこぼれ落ちる。耕太はますます慌てた。泣いている女の子は史上最強の生き物である。一介の男子中学生に太刀打ちできるはずがなかった。
「わかったよ。わかった。じゃあ、こうしようよ。次に肥料を買う時はミツキちゃんに出してもらう。その次は僕。それでいいだろ?」
「うん」
 美津紀は幼子のように小さく頷いた。
「もう、変わってるんだから、ミツキちゃんは。お金は出さなくていいっていったのに……」
 耕太は信じられないという表情をしながらも、美津紀の性格を思い出せば、それもそうだと納得した。

 夏休みに入ってからの天気はそれまでの梅雨の湿気を抜き去ろうとしているかのごとく、晴天が続いた。水をやる耕太たちもすぐに地面が乾くのではないかと不安になるほどであった。しかし、バラはそんな心配を他所に順調に成長を続けて、青々とした葉を茂らせて、太陽の恵みを吸い取っていた。
「さて、今日はこれぐらいにしよう」
 耕太は作業を打ち切り、腰を上げた。
「まだ、大丈夫だよ、コウちゃん」
「明日もあるし、気長にやろう」
 短期集中よりも、長期間の粘りと忍耐が園芸の才能である。耕太はペースを考え、根を詰めないことにした。
 しかし、美津紀には不満らしく、残念そうな顔になった。
「それにさ、僕も宿題しないといけないから。また、兄ちゃんに手伝ってもらうと、手数料取られるし、これ以上借金は増やしたくないよ」
「手数料取るの? まあ、正輝お兄ちゃんだしね。相変わらずだね」
 美津紀は耕太の話に目を丸くしたが、自分の記憶にある耕太の兄を思い浮かべてすごく納得した。
「鬼だよ、鬼」
 耕太は頭の上に指を立てて顔をしかめた。美津紀はその姿におなかを抱えて笑った。
「じゃあ、一緒にやろ、宿題。わからないところはお互いに教えあったら、早く済むし。ね、コウちゃん」
「え? いいの、ミツキちゃん? 助かるよ」
 耕太は天の助けと喜んだ。彼女の成績は学年上位である。彼女の宿題を写せれば、万事オッケーである。
 しかし、優等生の彼女はしっかりとそれを見抜いていた。
「でも、写すのは禁止よ」
「げっ。ミツキちゃんのケチ」
 釘を刺されて、耕太は膨れた。
「宿題は自分でしないと、ためにならないのよ。自分のためなんだから、頑張りましょ」
「はーい」
 優等生な言葉だが、不思議と美津紀が言うと嫌味がない。耕太は素直に返事して、冷房の利いている近くの図書館の自習室に宿題を持って集合と分かれた。
 近くの図書館は受験生が好んで使う静かなと自習室と、自由研究などをするための子供会議室のような自習室と二通りを作ってくれていた。ただ、子供会議室は宣伝不足のためか、あまり知られておらず空いており、そこを良く使う人間は穴場的に使いたいので宣伝もしないので、ますます知られていない。
 耕太はスコップを筆箱に、肥料を教科書に持ち替えて、図書館に急いだ。自転車で急いだために汗だくの上に喉が渇いてしかたなかった。自転車を駐輪場に放り込むと図書館に備え付けられてあるウォータークーラーの水を一気飲みして、クーラーの風に当たり、やっと生きた心地を取り戻した。
「ふう、極楽極楽」
「なに、おじいさんみたいなこと言ってるのよ、コウちゃん」
 既に到着していた美津紀が涼しい顔で老人くさい耕太を茶化した。
 美津紀は淡いブルーに白のストライプが不規則に入ったブラウスにライトブルーの格子柄のプリーツスカートを穿いて、少しお嬢様風のいでたちに耕太は思わず、どきりとした。
「ごめん。家を出ようとしたら、母さんと兄ちゃんが買い物、頼むんだもん。急いでそれを済ませてきたんだ」
 耕太は胸の動悸は走ってきたせいと決め付けて、平静を装う事に成功した。
「それはお疲れさま。席は取ってあるから」
「サンキュウ、ミツキちゃん」
 美津紀は笑いながら、せっかくウォータークーラーのところまで来たのだからと、ボタンを押して水を飲んだ。その姿に耕太は妙に色気を感じて、収まりかけていた動悸が再び早まった。
「まだ、顔が赤いね。回復力なさ過ぎだぞ、コウちゃん」
 水を飲み終えて、耕太の顔がまだ赤いのに気がつき、美津紀はからかうように耕太の額を指で軽くつついた。
「も、もう平気だよ、うん。顔は日に焼けてるだけだって」
「見栄張らなくてもいいのよ」
「見栄なんて張ってないよ」
 耕太は思わず大きな声を出して反論した。
「図書館ではお静かに」
 その様子を見ていたカウンターの司書が口に人差し指を当てて注意した。
「すいません」
 二人は相手のせいで怒られたと、責任の擦り付け合いをしながら、子供会議室に向かった。
 子供会議室はちゃんと席を置けば、五十人ほどは入れるぐらいの大きさがあった。その会議室の真ん中には六人が向かい合って座る少し大きめの机が六つほど並べられており、壁際に四つほど二人が向かい合って座れる机が置いてあった。どれも子供が楽に座れて勉強できるように高さが低めに作ってある。
 既に小学生の二、三のグループが自由研究発表のために集まって、調べものをしていて、少しにぎやかであったが、耳障りなほどでもなく、二人は取っておいた二人がけの席に座った。
 二人は椅子が少し低く感じたが、二人ともやや小柄なこともあり、苦になることはなかった。
「さて、それじゃあ、数学からやりましょう。あたし、二週間ほど学校休んでたから、おしえてね、コウちゃん」
 美津紀はそう言って、教科書とノートを取り出し、宿題の問題集を脇に置いた。
「僕が教えられるぐらいなら、期末のテスト結果で母さんに説教食らってないよ」
 耕太は中の中から中の下を行き来している自分の成績で、学年上位の美津紀に二週間のブランクという程度のハンディキャップで同等に並べると思うほど勉強を甘く見ていなかった。そして、それはすぐに正しいということを証明された。
「ここが、こうして、こうなるから、このエックスが求まるの。わかる?」
 美津紀の説明に唸り声を上げた。問題集の最難関問題に挑戦中である彼は頭が沸騰しそうだった。
「あー、ここまでは順調に来たのに。やっぱり、僕の頭だな」
 最初に美津紀の休んでいたところを軽く耕太が説明すると、彼以上に理解して、逆に彼に教えてしまうぐらいであった。
「そんなことないって。コウちゃんの教え方、とってもわかりやすかったもの。コウちゃんはやればできるって」
 美津紀は耕太の園芸に関する知識の豊富さと記憶力やその応用力、肥料や薬品の濃度の計算などを簡単にやっているので、やればできると確信していた。実際、耕太の教え方は要領を得て、上手かったし、教えることで理解が深まったのか、美津紀のヒントだけで、難しい問題も間違わずに解いていっていた。
 もっとも、教師が嫌がらせで入れたとしか思えない難関進学高校の入試試験問題には少々てこずっていたが。
「あーあ、来年は受験か。来年の今頃は、向こうの自習室で勉強の虫になってなきゃいけないんだろうな」
 耕太は問題を解くのを一時中断して、背もたれに身体を預けた。そして、閲覧所をはさんで反対側の、ここから見えない静かな自習室の方を向いた。
「そう、だね」
 美津紀は元気なく耕太の言葉に頷いた。
「ミツキちゃんは心配要らないよ。それだけできるんだもん。絶対合格するよ」
 その元気のなさに耕太は少し心配と驚きを感じながら、明るく笑った。
「うん……」
「やっぱり、敬信学院に行くの?」
 敬信学院はこのあたりでは有名な進学校であった。数年前までは敬信女学院といって、女子高だったが、少子化で共学になった学校であった。清楚で人気のある制服と進学率のよさが競争率を上げており、共学になっても難関の高校である。
 しかし、元女子高ということもあり、男子学生のための設備や進学指導に経験が浅いところがあった。そいうことから、そんな高難度の学校を好んで受験しようという男子生徒数が少なく、共学といってもほとんど女子高という男女比で、『ハーレム学校』などと揶揄されることもあった。そして、その名に釣られて受験する男も多かったが、容易なスケベ心では合格するのは難しい学校でもあったため、ハーレム比率は変動しなかった。
 いつしか、敬信学院の男子生徒といえば、『よっぽど頭のいい自信家か、よっぽどのスケベ』といわれるようになっていた。
「あたしは、いけるんなら、どこでもいい」
 美津紀は何かをかみ締めるように静かに言った。それが耕太には美津紀の受験に対する不安のように映った。
「だよな。でも、行けるんなら、僕も敬信学院、行きたいな」
「コウちゃんが?」
 意外な台詞に美津紀は耕太の顔を見た。意外なほど真剣な彼の顔に美津紀は思わず、胸が高鳴った。
「今、僕じゃあ、無理とか、スケベとか思ったんだろ?」
「ううん。そんなことない」
 美津紀は思いっきり首を振った。
「まあ、いいよ。今の僕の成績じゃあ、無理だからね。でも、がんばればいけるかもしれない」
「うん、コウちゃんならいけるよ。絶対」
 真剣な耕太に美津紀は力強く頷いた。美津紀は耕太には本当にそれだけの力があると思っていた。だから、気休めではなく真剣に頷いた。
「僕が行けるんなら、ミツキちゃんもいけるよ。絶対」
 耕太はその真剣な頷きに少し驚いたが、耕太も同じように真剣に頷いた。
「うん、そうだね」
「一緒にいこうね」
 耕太は話が一段落すると、思い出したように言い訳を始めた。
「あ。これだけは言っておくけど、どこぞのバカ兄ちゃんみたいに『ハーレムと聞いていかないわけには行かないだろう』なんて理由じゃないからね。本当だよ。ちゃんとした目的があるんだから」
「わかってるって。コウちゃんがどんな男の子かは、よーく知ってるから。正輝お兄ちゃんとは違うことぐらいわかってるって」
 美津紀は必死で言い訳する耕太をおかしそうに笑った。
「おねえちゃんたち、ラブラブやなぁ。でも、イチャイチャするんは、外でやってんか。暑うて、冷房が利かんようになるわ」
 子供会議室にいた小学生グループの関西出身の子供がおっさんのような口調で二人を注意した。二人は気がつかないうちに、おしゃべりしてもいい会議室でも少しうるさいぐらい大きな声で話していたようだ。
 小学生たちに笑われながら、二人は小さくなって小学生たちに謝り、おとなしく勉強を再開する事にした。
「高校、か……」
 美津紀は誰にも聞こえないように心の中で呟いた。しかし、それは彼女にとっては、考えられない未来の話であった。

 夏の盛りは地面が乾燥するので水やりは朝と夕方の二回して、地面の乾燥を防ぐ。
 バラに限らず、植物は水が不足すると、生き残るために葉っぱを落として水分の節約に努める。葉っぱが多いと水分を外へ放出してしまうからである。しかし、それは植物にとって、最後の手段で、葉っぱを落とすことは、葉っぱでされる光合成を捨てることである。水は節約できても栄養は不足する。
 しかし、やりすぎてもいけない。水が多いと根をしっかり張らなくなり、脆弱になってしまう。
 程よい水を与えることは植物を育てる基本であった。
 そして、肥料にも同じ事がいえ、肥料食いと異名を持つバラも、肥料が多ければ健全には成長しない。肥料が多すぎると花の色が悪くなることもあり、その匙加減は熟練の技が必要となり、職人技ともいえた。
 耕太は園芸が好きとはいえ、経験では中学二年の青二才である。しかも、経験の浅いバラである。失敗も数多く、予想以上に悪戦苦闘していた。
「うーん、虫がついてるな」
 園芸の専門家で、耕太が師匠と仰ぐ初老の男が渋い顔をした。
「虫……」
 バラの大敵である病気と害虫。どちらも注意を払ってきたが、完璧ではなかった。病気にもさせかけたし、害虫も一度、アブラムシを大量発生させて、危ういことがあった。
「まだ、少ないようだから、見つけて潰したほうがいいな。薬はできれば使わない方が植物にいいからな」
 庭師はゾウムシを一匹捕まえて、指先で潰した。耕太の後ろで美津紀が短い悲鳴を上げたが、やらねばいけないときが来ていた。
「手伝ってやりたいが、仕事があってな」
「そんな、見てくれただけで、感謝しています、神崎社長。あとは僕たちだけでやりますから」
「そうか。すまんな。美津紀ちゃんも、しっかりな」
 庭師はすまなそうに耕太と美津紀に謝るとバラ園を出て行った。その後姿を見ながら、美津紀は硬直していた。
「ミツキちゃん……」
「何も言わないで! わかってるから。でも、ここで引き下がったら、女がすたる! 女は度胸よ!」
 心配そうな耕太に美津紀はやけくそな気合を入れて、虫退治に取り掛かった。
 既に図鑑で害虫の種類は調べて、憶えている。目に見えないハダニなどは形も知らないが、その退治法も知っている。あと、美津紀に必要なのは勇気だけだった。
「おりゃあ!」「とりゃあ!」「ほにゃあ!」
 バラ園から奇妙な掛け声が聞こえ、運動場で練習していた運動部部員が気味悪がって覗きに来たほどであった。
 二人がかりで鬼神のごとく害虫駆除に奔走したため、二日目にはほぼ駆除を完了し、あとは順次見回りを強化しながらの掃討作戦に移行してよいと師匠の庭師から合格を貰った。
「はい、ミツキちゃん」
 耕太は良く冷えた缶ジュースを美津紀に手渡した。
「これは?」
「神崎社長からのおごり。がんばったごほうびだって」
 師匠の庭師はだいぶ前に車で帰っていった。多分、その時にジュース代を貰ったのだろう。美津紀はジュースを受け取ったものの、飲むのをためらった。
「どうしたの? ミツキちゃん」
「あたしたち、自分たちがしたくてやっているんでしょ? 神崎社長は仕事じゃないのに、わざわざ、見に来てくれているんでしょ? それなのに、ごほうびをもらうって、いいのかな?」
 美津紀は少し痛いような冷たさを感じながら、ジュースを見つめた。表面には結露した水が「おいしいよ」といわんばかりについていた。
「真面目だなー、ミツキちゃんは」
 耕太は美津紀の戸惑いを知って苦笑を浮かべた。
「ごめんなさい」
「ちがうよ。優等生だから、つまらないとか思ったんじゃないよ」
 耕太は首を振って、美津紀の「ごめんなさい」を否定した。
「神崎社長、褒めてたよ。ミツキちゃん、絶対逃げ出すと思ってたんだって。失礼だろ? ミツキちゃんがそんな女の子じゃないことぐらい知ってるのに」
 美津紀は黙って缶ジュースを見つめながら耕太の話を聞いた。
「いまどきの若い女の子にしては根性が据わってるって。当たり前じゃないか、ミツキちゃんだよ? 僕の最強コンビの相棒が根性据わっていないわけがないじゃないって言ったんだよ。神崎社長、うれしかったんだと思うよ。だから、ごほうびなんだ」
「コウちゃん」
「このごほうびは、夏休みも遊びまわらずに、毎日毎日水遣りと世話をしているのを見ていた神様がくれたささやかなごほうびだよ。真面目にやっている人間は、神様がきっと見ていてくれて、なにかごほうびをくれるんだよ、きっと。だから、ありがたく貰っておこう」
「神様……ごほうび……まじめに……」
 美津紀は罪のない耕太の台詞が胸に刺さった。
「じゃあ、あたしは?」
 美津紀は思わず、声に出した。しまったと思ったが、耕太には脈絡がなさ過ぎて怪訝な顔をされただけであった。
「うん。ミツキちゃんの頑張りへのごほうびだよ。乾杯しよう」
 耕太はジュースの蓋を開けると、中の空気が鋭い音を立てて外へともれた。美津紀も黙ってそれに倣った。
「虫退治完了祝いと、きれいなバラが咲くように祈願して」
「乾杯」
 二人はジュースをあおった。
 渇いた喉と疲れた身体には気持ちいい酸味のある甘いジュースだったが、美津紀はほんの少し苦さを感じた。舌のせいなのか、もっと別のもののせいなのか。
「美味しいね、ミツキちゃん」
 耕太がそんな美津紀の悩みを吹き飛ばすように笑顔を見せた。美津紀はその笑顔をしばらく見つめていた。
(あたしのごほうびは、あたしが真面目にやっていたごほうびは、きっとコウちゃんに会わせてくれたことなんだね)
 美津紀はなんだか知らないが、うれしくなった。そして、ジュースを飲み干そうとしている耕太を止めた。
「ねえ、もう一回、乾杯しましょ」
 さっきまでの沈んでいたのが嘘のように晴れ晴れとした表情でそういった。
「うん。いいけど、なにに?」
 耕太は申し訳程度にしか残っていないジュースの缶を軽く振った。
「ないしょ」
 美津紀は悪戯っぽく笑った。いえるはずがない。耕太と出会った事に乾杯など。
「内緒なんて、ずるいよ」
「いいの。ほら、ちょっと、貸して」
 膨れる耕太の持っていたジュースの缶を強引に自分のほうに引き寄せると、まだ大量に残っている自分のジュースを耕太の缶に注ぎ込んだ。
「これでよし。それじゃあ、かんぱーい!」
「え? あ! かんぱい」
 缶を当ててあまりきれいでない音を立てると、美津紀は一気にジュースを飲んだ。今度はどこまでも甘く酸っぱい味がした。
 耕太は動揺しながら、ジュースを慌てて飲み干した。念入りに、最後の一滴まで。
「よっぽど喉が渇いてたんだね、コウちゃん」
「う、うん。そうなんだ。あはははは」
 耕太は笑って誤魔化した。まさか、美津紀と間接キスだから最後の一滴までもったいないと思ったなどいえるはずがない。
 その日は、始終、二人とも変な間合いで笑いあっていた。

 気象庁が発表する日の出時間とほぼ同じ時間にセットされた目覚ましが数回ベルを鳴らして、止められた。
 耕太は二度寝することなく起き上がると大きく伸びをして、朝の支度に取り掛かった。
 着替えが終わって、今日持っていくものをチェックしていた。
「えーと、ミツキちゃんに借りてた漫画と……あ、そうだ。見たいっていってた、花言葉図鑑を持っていってあげよ」
 本棚からポケットサイズの本を取り出し、ディバッグ に詰め込むとそれを持って下に降りた。
「おはよう。あいかわらず、早いな」
 耕太が朝食をとるために台所に入ると、台所にある朝食用のテーブルに大学生らしき男が少し疲れた顔で座っていた。
「おはよう、兄ちゃん。また徹夜?」
 耕太はあきれたように自分の少し年の離れた兄、正輝を見たが、のんびりしている暇はない。ディバッグ を置いて、ご飯を茶碗によそい、インスタントの味噌汁を作った。
「うん、まあな。朝一番で大学にレポート持っていかないといけないからな」
「また、友達に売るつもり?」
「勉強もできてお金ももらえる。一石二鳥のアルバイトだよ」
 正輝は楽しそうに笑った。勉強の苦手な耕太には考えられないアルバイトである。正輝も別に勉強が好きなわけではないが、どういうわけか、学年トップを走りつづけ、今では名前を聞けば誰もが知っている有名国立大学の学生をしている。
「頭のできが違う」
 耕太は正輝と比較されるたびにそう言って笑っていたが、かなりコンプレックスであった。もっとも、学校の先生は、正輝が数々残した伝説のおかげで、「お前のお兄さんは――」という言い方は絶対にしない。逆に「お兄さんに似てなくてよかった」と心底、言われるぐらいであった。
「しかし、毎日、ご苦労だな」
 正輝は目覚ましに濃く入れた紅茶をストレートで飲みながら耕太のバッグを覗き込んだ。中には軍手やタオルなど園芸グッズが入っていた。
「地面が乾くとだめになるからね。朝の早いうちに水をやって、蒸発する前に吸い上げてもらわないと」
「お? 少女漫画が入ってる」
「ミツキちゃんに借りたんだよ。この間、家に行った時に読み出して、続きが気になるって言ったら、貸してくれたんだ」
「ふーん。確か、孤児の女の子が大物女流小説家の養子になって、子役をする話だったな。いい話だった」
「読んだことあるの?」
「まあな。少女漫画はちょっとうるさいんだぞ」
「……兄ちゃんって、いつ勉強してるの?」
「ひまな時」
 正輝がにやりと笑って耕太の問いに答えると、耕太はため息をついた。
「本当に出来が違う」
 耕太は失意を感じながらも、食べた食器を洗い桶に沈めると、ディバッグ を持って立ち上がった。
「それじゃあ、いってきます」
 耕太が出て行こうとした瞬間、電話が鳴った。耕太は、こんな朝早く誰だろうと思ったが、電話は正輝に任せて、出発しようとした。しかし、正輝は電話を取りながら、手をあげてジェスチャーで耕太の出発を止めた。
「はい、遠野です。――ああ、おひさしぶりです。ご無沙汰しておりますが、お変わりありませんか? ――ええ、はい。僕の方はあいかわらず、のんびりやってます。――ええ、はい。ぜひ、そのうち。それでは代わります」
 正輝は通話口を押さえて、耕太の方を見た。
「美津紀ちゃんのお母さんからだ」
 耕太は台所に戻り、受話器を受け取った。正輝はバトンを渡すと、トイレへと向かっていった。
 数分後、正輝がトイレから戻って来ると同時に耕太は受話器を電話機に戻した。戻してから、少し落胆した表情で小さくため息をついた。
「美津紀ちゃん、今日はお休みか」
「聞いてたの?」
 正輝の声に耕太は驚いたように振り返った。
「最後のしょげたため息を聞けばだいたいわかる」
「夏風邪をひいたんだって。ミツキちゃんは平気だって、行きたがってたみたいなんだけど、無理はさせられないからって」
 耕太は、美津紀が長期欠席から通院を頻繁にしていることは知っていたが、実際に病気が理由で休むのはこれが初めてで、そのことにあきらかにショックを受けていた。
「夏風邪はこじらせるとつらいからな。賢明な判断だ」
「わかってるよ、そんなこと」
 耕太は正輝の正論にいらついて声を荒げた。
「まあ、帰りにお見舞いにでもいってあげれば、美津紀ちゃん、喜ぶかもな」
 正輝はわかりやすいかわいい弟の反応に微笑みながら、ヒントを教えて、自分の部屋に戻っていった。
「お見舞い、か」
 耕太は少し考えていたが、予定していた出発時間を大分と過ぎていることを思い出して、慌てて家を出た。
 今日は一人で、しかも他にもやらないといけないことが急遽できたのであるから、のんびりしている暇はない。

 美津紀の家はこの辺では新しい住宅街で、耕太たちの住む、昔からある集落などとは違い、マスの目に道路が走り、整然としていた。
 午前中の作業を終わり、日差しがキツイ昼下がりに陽炎とともに耕太は自転車を走らせた。
 やはり一人での作業では思うほどはかどらず、時間がかかってしまい、午前中にお見舞いに行く計画は早々と頓挫して、今の時間となったのであった。
 以前ならば、一人が当たり前であって、誰かに手伝ってもらえる日がボーナスステージだったのを思うと、慣れは怖いと耕太は思いながら、母親に持たされたお見舞いのプリンがだめにならないように気をつけながら急いだ。
「やっと、ついた」
 家に帰ってシャワーを浴びて着替えてきたが、それは無意味といわんばかりに汗が噴き出して、シャツにしみを作っていた。
 耕太は少しためらいながらも、呼び鈴を押した。昔、何度も押した呼び鈴なのに、やけに緊張している自分が不思議だった。
「はーい。あら、耕太君」
 出てきたのは予想通り、美津紀の母親であった。耕太の小さい時の記憶とあまり変わらない姿に、なぜだか彼は少し安心した。
「あの、ミツキちゃんの具合はどうですか? あ、これ、母がつまらないものですがって。食べてください」
 耕太は気持ちが焦るのをなんとか抑えながら、手に持ったプリンの入った箱を差し出した。
「あらあら、気を使わせちゃったわね。ごめんなさいね――美津紀の具合はもういいのよ。多分、明日はちょっと様子を見るのに休ませるつもりだけど、明後日には花壇にいけると思うわ」
 美津紀の母親はプリンの箱を受け取り、優しく耕太に伝えた。
「あの、ミツキちゃんは?」
「ごめんなさいね。耕太君に風邪をうつしたらいけないし、今、寝ちゃったところなの。ごめんなさいね」
 直接会うつもりだった耕太は見るからに落ち込んでしまい、美津紀の母親が本当に申し訳なさそうに謝った。
「いえ、長引かせるといけないし、また、すぐに会えますから。あ、そうだ。これ。借りてた本と、ミツキちゃんが見たがっていた図鑑です。起きたら、渡しておいてください。お願いします」
 耕太は、無理を言うわけにはいかない。自分は大人なのだと自分に言い聞かせ、優等生の反応を示した。
「ありがとう。必ず、渡しておくわ。耕太君が来たことも」
 美津紀の母親は優しく微笑み、耕太から本を受け取った。その微笑が少し寂しそうな感じがして、耕太は不思議に感じた。
「おばさん、どうかしたんですか?」
「え? なにが?」
 美津紀の母親は驚いた表情を一瞬見せたが、すぐに元の優しい笑顔に戻った。
「いえ、なんとなく。ごめんなさい、変なこと訊いて」
 耕太は失礼なことを訊いてしまったと反省した。
「いいのよ。――耕太君」
「はい?」
「美津紀と、これからも仲良くしてやってね」
 美津紀の母の言葉に耕太は「へ?」という顔をしたが、すぐに笑顔になった。それは小さい時に美津紀の母親によく言われた台詞であった。そして、その返事も決まっている。
「はい、もちろんです。ミツキちゃんは、僕の最強の相棒ですから」
「ありがとう、耕太君。あなたが、美津紀の幼なじみで本当に良かったわ」
 美津紀の母親は思わず、耕太を抱きしめた。突然の事に耕太はびっくりして、されるがままでいた。
「あ、あの、おばさん?」
 耕太は驚いたまま、彼を抱きしめている美津紀の母親に呼びかけた。
「あ、ごめんなさいね。こんなおばさんに抱きつかれて、イヤだったわね」
 美津紀の母親は耕太から身体を離し、苦笑いを浮かべた。
「いえ、そんなことは……」
 当たり前の話だが美津紀の母親は美津紀によく似ていて、耕太の母親よりもずっと若く、しかもキレイだったので、正直なところ、耕太の心臓はかなりドキドキしていた。そのため、美津紀の母親の目じりに光るものを見逃していた。
 耕太は間の持たない空気に居心地が悪くなり、
「あの、僕、夕方の水遣りがあるので、帰ります。ミツキちゃんによろしく言っておいてください。風邪が治るまでは無理しないでって。それじゃあ、お邪魔しました」
 耕太は別れの挨拶を一息でいい終わると、自転車に飛び乗ると、一気に駆け出していった。

 夕方の水遣りを終えて、道具を片付け終わると既に東の空は藍色に染まっていた。
 予定していた作業の半分ほどしか進まずに終わった。一人だというのもあったが、どちらかというと、作業に気が入らないでいたのが原因であった。
「こういう日もあるよな」
 耕太は自分で自分を納得させて、家路についた。
 西から東へ、朱色から藍色へのグラデーションが空を塗りつぶした。焼けたアスファルトが放つ熱でまだ、暑さは消えないが、公園の脇を通る時の風は汗ばんだ身体をほっとさせてくれた。
 暑さを避けるのと、スーパーの閉店間際の値引きを狙った主婦たちが動き出し、あちこちで井戸端会議が開催されていた。耕太は妙におなかが空いてきて、まっすぐ帰らずにスーパーに寄り道することにした。
 時々、帰りに成長期の旺盛な食欲を満たすためスーパーの惣菜売り場の安売りコロッケを買い食いしていた。
 耕太は顔見知りのパートのおばちゃんにこっそりと割引シールを張ってもらい、レジを済ませて、スーパーを出ると駐輪場に向かう途中の、買い物客から死角になるところでコロッケをほおばった。
 油の強い、お世辞にも上品な味ではなかったが、食べ盛りの耕太には満足いくボリュームと味であった。
「――ねえ、きいた? あの話」
 耕太は声に反応して、顔を上げた。見えないが、仕切りボードのすぐ向こうで、どこかのおばさんたちが井戸端会議を始めたとわかり、コロッケに集中する事にした。しかし、それはすぐに中断される事になった。
「ええ、聞いたわよ。かわいそうね〜」
「なに? 何の話?」
「友坂さん家のお嬢ちゃんの話よ」
 耕太の体がぴくりとはねた。友坂という姓は珍しくないが、多くもない。
「あの娘がどうかしたの? 元気がよくって、勉強ができて、評判の子だけど」
 耕太は美津紀のことだと確信して、耳をそばだてた。
「それがね、どうも、病気になったらしいのよ」
(病気? 夏風邪のこと? だけど、そんなこと話題にするのか?)
「ほんとなの? この間、元気そうに歩いてたわよ」
(そうだよ。毎日、バラ園の世話してるんだ)
「本当なのよ、それが。偶然、その話をしているところを聞いちゃったのよ。もう、びっくりしたのなんの。もう永くないんですって、この夏休み、もつかどうかっていう話よ」
(うそだ!)
 耕太は手に持っていたコロッケを思わず、強く握った。具がはみ出て、無残な形になったが、全く気にはしなかった。
 しかし、他の主婦から出てくる情報はその噂が真実であることを示すものばかりであった。通っている病院の種類、主治医の先生の専門、はたまた、飲んでいる薬の種類まで知っていた。
「いい娘だったのに、かわいそうね」
「ほんと。でも、健康が一番よね〜。そう言えば、カルビさんの『おもこってりテレビ』視た?」
「視た視た! 紅茶きのこが――」
 あとの会話は耕太の耳には入ってこなかった。どれぐらいその場所にいただろうか、日は完全に沈んで、すっかりあたりは暗くなっていた。いつの間にか座り込んでいた耕太はのろのろと立ち上がり、ふらつきながら、家に帰った。
 家に帰ると、遅い時間までうろついていたことを母親が叱ったが、心ここに在らずの耕太にはヌカに向かって五寸釘を打っているようなものであった。手ごたえのない説教に母親の伝家の宝刀、『晩御飯抜き』が炸裂したが、耕太は何の反応も示さずに自分の部屋へと引きこもった。

 耕太はベッドに腰掛けて、目は開けていたが、何も見ていなかった。おなかが空いたような気がするが、どうでも良かった。とにかく、今は何もしたくない。何も考えたくなかった。
 耕太の部屋の扉が軽い音を響かせた。
「耕太。入るぞ」
 許可を貰う前にドアノブを回して、耕太の兄、正輝が入ってきた。手にはラップをかけたおにぎりと、麦茶のボトルが乗っかったお盆を持っていた。
「とりあえず、風呂に入ってこいよ。汗まみれだろ?」
 正輝はお盆を耕太の学習机の上に置くと机の椅子に腰掛けた。
「おふろ?」
 耕太は不思議そうに正輝を見た。何でお風呂なんだろう? 耕太は正輝の真意がわからなかった。
「さっぱりするぞ」
 正輝にそういわれると、なんだかそうなのかもしれないと、耕太はのろのろと立ち上がり、風呂場へと向かった。
 三十分ほどして、耕太がお風呂から上がってくると、正輝は黙って食事を載せた盆を差し出した。耕太がお風呂に入っている間におにぎり以外のおかずが追加されていた。おそらく、正輝が作ったのだろう、彼得意の手間隙かけない男の小手先料理であった。
 耕太は何も言わずにそれを夢中になって食べた。まるで、何日も食事をしていないかのような食べっぷりだった。
「父さんと母さんはカラオケに行った。多分、夜中まで帰ってこない」
 正輝は麦茶をコップに注いで耕太に差し出した。耕太はそれを受け取り、一気に飲み干した。
「兄ちゃん……」
「なんだ? お金の相談以外なら、乗ってやるぞ」
 正輝は自分のコップにお茶を注ぎ、空になっている耕太のコップにも注いだ。
「にいちゃん……」
 耕太は止まっていた時間が動き出したかのように目からぼろぼろと涙を流し、今まで見せたこともないような大声で泣き始め、正輝にしがみついた。
 正輝はそれを受け止め、ただ黙って、泣かせていた。
 どれだけ泣いたか耕太はわからなかったが、あとで正輝に聞いたところ、四十三分十二秒だったらしい。知らない人が聞けば、適当というかもしれないが、こういうときの数字は意外とちゃんと測っていたりするのが、正輝の正輝たるゆえんであった。
 落ち着きを取り戻した耕太は自分が聞いた噂話を正輝に全て伝えた。
「単なる噂話とは思えないというわけか」
 正輝の言葉に耕太は頷いた。
「まあ、お前の話が本当なら、条件がそろいすぎていて、間違いないかもしれないな」
 耕太は正輝の分析を聞いて、歯噛みした。それは自分のものと同じであった。違う結果を言って欲しかったが、それがありえないだろうこともわかっていた。
「兄ちゃん、どうしよう? 僕、ミツキちゃんに言った方がいいのかな?」
 耕太はぼそりと呟いた。噂が本当なら、美津紀には力いっぱい残りの時間を生きて欲しい。耕太はそう思い始めていた。
 しかし、その呟きを聞いて、正輝の顔が険しくなった。
「一つ訊くが、お前が美津紀ちゃんに『耕太の命は一ヶ月です』って言われたら、どう思う?」
「え? 冗談だと思うに決まってるよ」
「それが冗談じゃないといわれたら?」
 不思議そうな表情の耕太に正輝は重ねて訊いた。
「そんな事言われたら、どうしたらいいかわからないよ。ショックで立ち直れないかもしれない」
 耕太は困ったように正輝の質問に答えた。
「そしたら、美津紀ちゃんも同じように思う可能性があるってことだな」
「あ……」
 正輝の言葉に耕太はやっと質問の真意に気がついて声を失った。しかし、それでも心にしこりが残った。
「で、でも……」
「お前の言いたい事はわかる。何も知らずに死んでいくのはかわいそう。残りの時間を有効に使って欲しい。そういうことだろ?」
「うん……」
 言いたい事を先に言われ、耕太は素直に頷いた。
「だけど、それはお前の勝手な優しさだろ? かわいそう。欲しい。お前の感情しかないじゃないか」
 耕太は正輝の言葉に氷水を浴びせられたように身を震わせた。耕太は、まさに正輝の言うとおりであると思った。耕太の優しさは自己満足の優しさでしかない。
「暗い顔するな。中学二年のお前にそこまで悟れって言うのが酷な話だ。だけど、勝手な優しさを押し付けられるほうはもっと酷だぞ。その話をして、お前は美津紀ちゃんを、残りの人生を精一杯生きるように導けるか?」
 耕太は俯いてゆっくりと首を横に振った。その質問に首を縦に振れるのは、よほどの自信過剰の大馬鹿か、神様ぐらいだろう。
「そういうことだ。美津紀ちゃんの両親が彼女に黙っているのなら、お前も黙っていろ」
 人の心に深く立ち入る事だけが親しさではない。ただ単に立ち入るだけなら、それは親しいのではなく、相手の心を蹂躙しているだけに他ならない。立ち入るのなら、それなりの覚悟を決めなければならない。その覚悟ができるから、親しいのである。
「だ、だけど、そしたら僕はどうしたらいいんだよ」
 耕太は俯いたまま心のままに叫んだ。正輝の言う事はわかる。しかし、耕太にはお説教より、どうすればいいかを聞きたかった。
「あんまり頼るなよ。俺だって、そんなに人生経験豊富じゃないんだからさ」
 正輝は曖昧な苦笑を浮かべて、椅子に身体を預けて、少し視線を上げた。それが正輝の考え事をするときの癖である事を知っている耕太は黙って、言葉を待った。
 正輝はしばらく考えた後に、答えを見つけたのか、視線を耕太に戻した。
「今まで通りで、いいんじゃないか?」
「今まで通り?」
 正輝が考え込んだ末の答えにしてはあまりにもあっさりとした答えに耕太はオウム返しに聞き返した。
「そう。今まで通り、一緒にバラ園の世話をして、一緒に勉強して、一緒に遊ぶ。それでいいんじゃないか?」
 正輝も少し不安な表情をしながらも耕太に言った。
「だけど――」
「美津紀ちゃん、お前と一緒にいて、退屈そうにしてるか?」
 文句を言いかけた耕太の言葉を遮るようにタイミングよく正輝は訊いた。
「え? なんで、そんなこと訊くんだよ」
「いいから答えろよ」
「うーん、そんな風には見えないけど……」
 訳がわからなくても、正輝の質問に素直に答えた。
「そうだろうな。好きじゃなけりゃ、やってられないよ」
 正輝は耕太の解答で自信を持って頷いた。
「え? 好きって?」
 耕太は不意に胸が高鳴るのを感じて、顔が赤くなった。
「バラ園の世話がな。学校でもないのに朝早く起きて、土いじって、疲れて。好きじゃないとやれないだろ?」
 正輝は耕太の反応が予想通りだったことに意地悪い笑顔を浮かべて、彼の想像を否定した。
「あ、うん。そ、そうだね」
 耕太は恥ずかしさと失意で俯きながら元気なく呟いた。さすがに正輝もそれを見て、良心が痛み、耕太の肩をぽんと叩いた。
「落ち込むなよ。美津紀ちゃんが園芸マニアって聞いたことはないけど、どうだった?」
「え? えーと、今までまったく園芸なんてやった事ないって言ってた」
「女の子は、お花は好きだけど、それを育てるのが好きな人はかなり減る。よっぽど花が好きじゃないとな。てことは、美津紀ちゃんはお前といて楽しいから世話も続けているんだろ。それは自信持てよ」
「う、うん」
 正輝に、気がないわけじゃないと、フォローを入れられ、現金にも気分が復活する単純さには嫌気が差したが、正輝の言葉の方がその気分よりも上回っていた。
 しばらく二人の間に沈黙が流れた。
「……案外、知ってるのかもな、美津紀ちゃん」
 正輝はふとそんな事を思ったが、それは口にしない事にした。たとえ、そうだとしても何も変わらない。変わるとしても悪い方向に向くような気がした。
 美津紀が自分に気があるかもしれないという言葉に喜んでいた耕太だが、現実の問題を思い出し、顔を再び暗くした。
「ねぇ……兄ちゃん。僕、自信ないよ。ミツキちゃんの楽しい思い出になれるなんて。どうすればいいと思う?」
「お前な、他人にばっかり頼るなよ」
 正輝はあきれて、突き放すように言った。
「だけど」
 正輝に突き放された耕太は再び涙を目に溜め始めた。
「わかった。わかったから、泣くな」
 さすがに何度も泣かれるのは気が滅入るのだろう、正輝は必死に耕太の涙があふれるのを止めた。
「う、うん」
 正輝の言葉に落ち着いた耕太が幼子のように頷いた。正輝はため息をつきながら、再び少し考えた。
「……お前、一期一会って意味、知ってるだろ?」
「いちごいちえ?」
 オウム返しの声に正輝は少し頭を抱えた。
「お前、もうちょっと国語の勉強しておけよ。一期一会って言うのはだな――俺とお前がここで今、会っているだろ? 明日も会えると思うか?」
「そりゃ、会えるに決まってるじゃないか。同じ家に住んでて、隣の部屋なんだからさ」
 耕太はいきなりふざけた事を言い出す正輝に不審な視線を向けた。
「それじゃあ、俺が明日、交通事故で死んでもか?」
「え?」
 死と言う言葉に耕太は過剰に反応して身体を緊張させた。
「たとえ話だ。不安そうな顔になるな」
 正輝は苦笑して、耕太を安心させると言葉を続けた。
「だけど、そういうことだ。人間、次の一瞬に何が起きるかはわからない。今日会えた人と明日も会える保証なんてどこにもない。だから、出会った人にはどんなに親しい人でも丁寧にもてなそう。それが今生の別れ――最後の別れになっても後悔しないように。という、茶道の教えの一つだ」
「へぇー。兄ちゃん、物知りなんだね」
「お前、今までどういう目で俺を見てたんだ?」
「こういう目」
 耕太は珍獣や変わったものを見るような目をして見せた。
「こいつめ」
 正輝は耕太の頭をはたいた。
「ひどいよ、兄ちゃん。ただでさえ悪い頭がますます悪くなったじゃないか」
 耕太は叩かれた頭を押さえながら軽口で文句を言った。
「そうか。それなら、もっと勉強しろ。すぐに元に戻る」
「むー」
「だが、その悪くなった頭でも充分わかっただろ? つまり、美津紀ちゃんと会うのは、毎日がリアルに一期一会ってわけだ。わかるな?」
 正輝は真剣な顔つきに戻って諭すように言った。耕太はふざけて誤魔化したかったが、それを許されないことを改めて思い知らされ、しょんぼりとした。
「うん……。だけど、それなら、なおさら、僕、どうしたらいいかわかんないよ」
「甘えるな、耕太」
 正輝は驚くほど厳しく、静かな声で叱った。その声に耕太は自然と姿勢を正した。
「美津紀ちゃんのことを思うんなら、自分でどうするのがいいか考えろ。間違いを怖がって何もしたくないならそれでもいい。だけど、それは自分で考えて、自分で責任を持ってやれ。これはお前と美津紀ちゃんの間の問題だ。他人の俺が口を挟めるのはここまでだ」
「兄ちゃん……」
 正輝の言わんとすることはわかった。しかし、耕太は不安で仕方なく、すがるような目で頼りになる兄を見つめた。
「心配するな、多分、お前ならうまくやれる。協力はしてやるから、やってみろ」
 正輝はすがるような視線を正面から受け止め、自信に満ちた笑顔を浮かべた。耕太はその笑顔で、信頼する兄がこれほど自信を持って自分のことを信じているのなら、できるかもしれないと、少しだけ不安が和らいだ気分になった。
「うん。僕、やってみるよ」
 耕太の言葉に正輝は黙って頷き、頭を軽くなでてやってから、部屋を出て行った。
 部屋を出た正輝は口の端を思いっきり噛んだ。血がにじんで、口の中に鉄くさい血の味が広がったが、それよりも苦いものが心の中に広がっていた。
「とんだ偽善者だな、俺も。逃げてばかりだ」
 誰にも聞かれないように心の中で呟いた。そして、さらに、
「だけど、俺にはできないが、耕太にはできる。耕太は俺よりもすごい奴なんだ」
 そう続けると、静かに自分の部屋へと戻った。

 ほぼ日の出時間に合わされた目覚ましが二回、ベルが鳴ったところで止められた。そのこと自体はいつもの朝と同じであった。ただ違っていたのは、いつもは寝ている耕太を起こしていた目覚ましが、起きている耕太に時間を知らせる役目に変わっていたことだった。
 兄の正輝に言われて耕太は昨日の晩から考え続け、考えに考え、考え抜いた末に、何も思いつかないまま朝を迎えたのであった。
 若いとはいえ、慣れていない完全徹夜と、考えていたことの重さゆえにかなり衰弱して、目の下には大きなくまを作っていた。
 耕太自身、顔を洗う時に鏡を見て、引いてしまうほどひどい顔だった。
「こんな顔と心で今日、美津紀と会う事になったらひどい事になる」
 耕太はいっそ、今日は自分が休もうかと真剣に考えたが、いつもの習性のためか、着替えまで済ませて、台所に降りてきていた。
 休んで一日考えるにしても朝ごはんは食べなくてはいけない。そう思って、台所に入った。
「おはよう。すごい顔だな」
 なぜか台所にいる正輝に耕太は少し驚きつつ、朝食の支度にかかった。
「兄ちゃん、いつ寝てるの?」
「うーん、暇な時」
 あっさりと答える正輝に耕太は「一生、この人にはかなわない」と真剣に思った。それから、何の会話もなく、耕太はインスタントの味噌汁を作り、ご飯をよそった。
「で、何も思いつかなかったというわけか」
 正輝の言葉に耕太は一瞬、手を止めた。
「それで、今日は休みにして、一日考えるつもりなんだろ?」
 耕太は正輝の指摘に半分以上、そう思っていたので素直に頷いた。
「そうか」
 正輝がそう呟いた次の瞬間、電話がなった。腰を浮かしかける耕太を手で止めて、正輝が受話器を取り上げた。
「はい、遠野です。おはようございます。――はい。まだ、耕太は寝ているので、伝えておきますよ。――はい。そうですか。わかりました。はい、わざわざ、ありがとうございます」
 丁寧で卒のない対応をし終えると、受話器を置いて電話を切った。
「美津紀ちゃん、今日もお休みさせてもらうって」
 正輝の伝言に耕太は無意識にほっと息を吐いた。しかし、すぐにそれに気がつき、奥歯をかみ締めた。
「今日もいい天気になりそうだな」
 落ち込んでいる耕太の前で正輝は能天気な声で外を見た。昇り始めた太陽が藍色の空を夏の空に変えていっている。
 正輝はいつの間にか用意していたのか、弁当箱と風呂敷包みをテーブルの上に置いた。
「はい。これが弁当。こっちが着替え。学校の水泳部顧問の新垣先生に頼めば、シャワーを貸してくれるはずだ」
「兄ちゃん……」
「世話をサボったら、せっかくのバラがだめになるぞ」
「……うん。そうだね」
 耕太は家の中で考えているよりも、バラ園で手入れに没頭している方がいいと思った。バラ園の手入れに逃げていると言われてもいい。そう思うと、残りの朝食を胃にかきこみ、食器を洗い桶に沈めると正輝の用意した二つの荷物をかばんに詰め込んだ。
「いってきます!」
 耕太はいつもと同じように元気に家を飛び出していった。たとえ、それが見かけだけであっても、いつもと同じであった。

 バラ園は昨日と変わらぬ姿で耕太を迎え入れてくれた。そろそろまぶしくなってきた太陽の光が朝もやを消し去り、一輪も咲いていないバラ園に光の花を咲かせていた。
「よしっ!」
 耕太は気合を入れるため、頬を両手で叩き、朝もやと共に心に溜まったもやを追い払った。
 バラ園の手入れは土いじりだけではない。壊れかけたアーチやテラスを修復するのもあり、柵や棚を作る大工仕事もある。師匠である神崎社長から分けてもらったセメントでモルタルを練り、レンガを組んで花壇を増設したり、改造する土木工事もある。
 やらなければいけないことはいくらでもあった。
 耕太は昨日の予定だった作業を片付け、今日の作業に休憩無しでそのまま突入した。一睡もしていないので、だるさは少しあったが、真夏の太陽の下では落ち込む気にもなれず、身体を動かし続けた。
 十時と三時に耕太の兄、正輝がスポーツドリンクとお菓子を差し入れに持って現れ、ほんの少しだけ作業を手伝って帰っていった。
「ありがとう、兄ちゃん」
「たまに土いじりもいいもんだな」
 園芸などしたこともないと思っていたが、意外に正輝の手際が良く、耕太は「本当に、あんたは何者?」と舌を巻いた。もっとも、手伝いが必要なことだけ手伝うと、さっさと作業をやめて帰ってしまったが。
 しかし、耕太にとって、そんなことはどうでも良かった。とにかく、身体を動かして、作業に集中した。流れる汗と土の香りが耕太の身体を包み込み、全てを忘れさせてくれた。
「おーい、遠野。シャワー浴びるんだったら、宿直室にいるから、言いに来てくれ。水泳部のシャワーはもう火を落として鍵閉めたから、宿直室のを使わせてやる」
 西の空が茜色に染まりかけた頃、痺れをきらせた水泳部の顧問の先生がバラ園に顔を出した。
「あ、はい。すいません。もう、終わりますんで」
 耕太は周囲が暗くなり始めている事に今更ながらに気がつき、泥だらけの手で顔の汗をぬぐった。あまり遅くなると、道具を片付けるのが一苦労である。
 耕太は今でも地面が暗くて見えにくいが、道具を拾い集め、片付けを始めた。
 しかし、先生はバラ園の入り口で立ち尽くしていた。
「どうかしました? 先生」
 片付けにはしばらく時間がかかるのに、いまだバラ園の入り口で立ち尽くしている先生を不審そうに尋ねた。
「これ、お前一人がやったのか?」
「え? はい……いえ。僕と、ミツキちゃん――友坂さんでやりました」
 耕太はバラ園を振り返ってみて、胸を張って答えた。
(そう。僕とミツキちゃんでやったんだ)
 以前とは見違えるように整備されたバラ園。ほとんど枯れていたバラを植え替えたり、復活させたり。割れたレンガを入れ替えたり、曲がった枠をまっすぐにして。
 毎日毎日こつこつと少しずつ積み上げてきた努力の結晶。
「すごいな。本当に。お前がこのバラ園を修復するって言い出したときは、できないと思っていたが、やればできるもんだな。がんばったな、遠野」
 本心から感心して感嘆の声を上げる先生に耕太はなんだか恥ずかしくなり、西の空よりも顔を赤くした。
「ミツキちゃんも手伝ってくれたから……」
「そうか。友坂も。お前たち、二人は本当にすごいな」
 先生は逆光で表情は見せなかったが、何かを含んだ声であった。
「はい。僕たちは最強コンビですから」
 耕太は何もかも飲み込んで、力一杯の笑顔で胸を張って自慢した。
「ああ、そうだな。それじゃあ、早く来い。あんまり遅くなると、家の人が心配する」
 先生は素早く向きを変えると、足早に校舎の方へと歩き去っていった。多分、先生も知っているのだろう。耕太は先生の態度を見て直感した。だけど、それは話してはいけないことで、誰とも共有できない秘密であることもわかっていた。
「先生も辛いだろうな」
 まるで他人事のように耕太は呟いて、道具を片付け始めた。汗が滴り、地面に落ちた。その汗がどこから流れたのかは耕太しか知らない。

 二回目のベルで目覚ましを止めて耕太は布団から起きた。昨日の作業はどう考えてもオーバーワークであったために、全身が軽く筋肉痛に襲われたが、ちょくちょくあることなので騒ぎ立てはせずに着替えを済ませて、下へと降りた。
 結局、昨日一日作業に没頭して出た結論は――
「僕にできることは何もないけど、ミツキちゃんと一緒にバラ園を世話して、最期までミツキちゃんの最強コンビの相棒でいることはできる」
 吹っ切れたというよりも、吹っ切った。そんな感じであった。
 耕太は兄に教えてもらった一期一会という言葉は、自分が明日死ぬかもしれないことも言っているように思えた。そして、だから、毎日を一生懸命に生きろとも。
「ミツキちゃんの残りの人生を一生懸命生きるのも、僕の残りの人生を一生懸命生きるのも同じことなんだ」
 それがあっているのかどうかはわからないが、できることといえば、それだけで、それは今まで通りなのであった。
「結局、兄ちゃんの手の平の上か」
 耕太は最終的に出した結論が、兄に言われたことと同じと少々不満であったが、安心した。
 耕太が台所に行くと、やはり、兄の正輝が濃い紅茶をストレートで飲んでいた。テーブルの上にはなにやら難しい専門書が広げられている。
「おはよう、兄ちゃん」
「おはよう。今日はいい顔してるな」
 正輝は一瞬だけ視線を上げて、にやりと笑うと、すぐに視線を落とし、紅茶を飲みながら本を読み続けた。
 朝食を終えた頃に電話がなったが、正輝は本に集中して、出る気配を一向に見せないので、仕方なく、耕太が受話器を持ち上げた。
「はい、遠野です」
「あ、コウちゃん?」
 受話器から聞こえる明るい声に耕太は一瞬硬直した。吹っ切ったといえども、頭の中だけである。実際に声を聞いたり、姿を見れば、体が強張るのは仕方なかった。
「え? あ、ミツキちゃん?」
「うん。おはよう」
「おはよう」
「ごめんね、二日もサボっちゃって」
「いいよ。しかたないよ、風邪だったんだし。でも、もういいの?」
「うん。昨日もいけたんだけど、お母さんがだめだって、どうしても出してくれなかったの」
「夏風邪はこじらすと大変だから、ちゃんと治さないと」
「コウちゃんもお母さんと同じこと言うのね。大丈夫よ。あたしの身体はあたしが一番知っているんだから」
「うん。そ、そうだね」
「そうだよ。ということで、今日から友坂美津紀、バラ園復活委員会に復帰します。よろしくね、会長♪」
「うん、よろしく」
「それじゃあ、学校――」
「ちょっと、待って!」
「え?」
「あ、あの、僕、そっち行くから、ちょっと待ててよ。すぐに行くし」
「え? だけど――」
「うん。いいから、すぐに行くから」
「……うん。わかった。じゃあ、待ってる」
「うん。すぐ行くよ」
 耕太は受話器を置いて、本を読んでいる正輝を見た。
「兄ちゃん! じ――」
 耕太の台詞が終わらないうちに正輝はキーホルダーを投げて渡した。彼愛用のママチャリの鍵である。耕太の愛用のマウンテンバイクにはない装備がついている。
「二人乗りするんなら、絶対こけるなよ。死んでもこけるな」
 本から視線を上げずに厳しい声で注意をした。美津紀の病名は不明だったが、血液関係の病気と予測はついていたので、怪我させるのはどう考えても得策ではない。
「うん、わかってる。ありがとう」
「それと、向こうに行くまでに二人乗りさせる理由を考えていけよ」
「う、うん。わかった。ありがとう」
 耕太は先まで読んでいる正輝にすごさを感じながらも、ゆっくりしている時間はないと、慌てて家を飛び出していった。
 学校と耕太の家と美津紀の家とを線でつなぐと、ちょうど正三角形を描いている。どちらの家からも学校へは三角形の一辺を走ればつくのだが、このとき、耕太は二辺を走って学校に行こうというのである。美津紀が電話の向こうで不思議がるのも無理はない。
 耕太はできるだけ急ぎながらも、その理由を頭をフル回転させて考えた。考え事しながら自転車で全力疾走は大変危険な行為であったが、幸運の女神様にでも守られたか、無事に美津紀の家に到着した。
 家の前では美津紀が既に外で待っていた。全力疾走と頭をフル回転したおかげで、余計なことを考えることなく、耕太は自然に手を挙げた。
「おはよう、ミツキちゃん」
「おはよう、コウちゃん。なんだか、二日だけなのに、久しぶりって感じがするね」
 美津紀は照れたように笑った。
「そうだね」
「でも、わざわざこっちに来るなんて。借りてた図鑑だったら、持って行くつもりだったのに」
 美津紀はかばんの中から花言葉図鑑を取り出そうとした。
「しばらくは使わないから、持ってていいよ」
「そうなの? じゃあ、なんで?」
 それを聞いて美津紀はますます不審そうに耕太を見た。あらかじめ言われていなければ、今頃、墓穴を掘っていただろうと、耕太は兄の先読みに感謝した。
「ちょっとね。兄ちゃんと賭けをする事になったんだ」
「賭け?」
「うん。この間、言ってただろ? 兄ちゃんにお金を借りてるって。アレを帳消しにしてやってもいいって言われたんだ」
「ほんと? 正輝お兄ちゃんがそんなこというなんて、信じられない!」
 美津紀は自分の知っている耕太の兄、正輝の人物像からその台詞が出るとは心底、信じられなかった。
「確かにね。でも、その代わり、夏休み最後の日に、家から二本杉の丘まで自転車で三十分以内で行けたらって条件付なんだ」
 二本杉の丘はこんもりとした丘で、高さはさほどではないが、高低差があり、道路の勾配もキツイ。普通に行けば、四十分でも早いほうであった。
「三十分。かなり無茶ね。ということは、行けなかったら?」
「兄ちゃんの大学の学園祭で売り子をさせられる。もちろん、ただ働き。借金もそのまま」
「無謀な賭けね」
 美津紀は時々、遠野兄弟は賭けをするのは知っていたが、毎度あきれさせられると、心の底からあきれた。
「ということで、トレーニングのために毎日、ミツキちゃんの家によって脚力を鍛えようと思うんだ。協力してくれる?」
「協力って言っても、朝、待てばいいだけでしょ?」
「できれば、僕の自転車の後ろに乗って欲しいんだ」
「え? 二人乗りは違反よ」
「うん、わかっているけど、夏休みが終わるまでの間だけでいいから。絶対こけないように安全運転するし」
 耕太は必死に拝み倒した。あまりに必死で拝まれるので、美津紀は正直迷った。
「うーん……」
「お願い。僕の借金を帳消しにできるチャンスなんだ、ミツキちゃん!」
「もう、しかたないわね。いいわよ。乗ってあげる」
「本当?」
「相棒にこれほど頼まれて断れると思う?」
 美津紀は苦笑しながら、自分の自転車を置き場に戻した。
「ありがとう恩に着るよ」
 美津紀は耕太の自転車の後ろに横のりして、片手を荷台、片手を耕太の腰に巻きつけた。落ちないようにしっかりと身体を密着させる美津紀に耕太の心臓は自転車をこぐ前に破裂寸前にまで脈拍数が上がった。
 何度か密かに深呼吸をして、鼓動を落ち着かせると耕太は平常心で首をまわして後ろを向いた。
「それでは、出発いたします、姫」
「うむ。よきにはからえ」
 ノリのいい返事にお互い笑いあうと、耕太は前を向いて自転車をこぎ出した。

 バラ園を二日ぶりに見た美津紀はその様子に目を丸くした。そして、次の瞬間、うなだれた。
「どうかしたの、ミツキちゃん?」
 耕太は落ち込む美津紀に気分が悪くなったのかと心配になり、その顔を覗き込んだ。
「コウちゃん、やっぱり、あたし、邪魔かな?」
 美津紀は悔しそうに呟いた。
「そんなことないよ。とっても助かってるよ。ミツキちゃんがいなかったら、ここまでできなかったよ」
「だけど、あたしがいない時の方が予定より進んでるじゃない。それって、今まではあたしが邪魔してるせいでしょ」
 美津紀は耕太を睨みつけた。耕太はその言葉に何を落ち込んでいるのか納得して、困ったように頭をかいた。
「そんな事あるはずがないじゃないか。一昨日は半分ぐらいしか進まなかったんだよ」
「うそよ。それが本当なら、昨日は二日分進んだってことじゃない。どっちにしても、進んだ事には変わりないわよ」
「違うよ。実を言うと、昨日は兄ちゃんが手伝ってくれたんだ」
「正輝お兄ちゃんが?」
 美津紀は意外な顔をした。よほどイメージからかけ離れていたのでだろう。「嘘」と否定するよりも顔全体で信じられないという文字を浮かび上がらせていた。
「ひまだったんだって。滅多にやらないのに僕より手際がいいんだから嫌になるよ」
 耕太は、嘘は言っていないと自分に言い聞かせ、笑ったつもりだったが、苦笑になった。その苦笑が真実味となったのだろう、美津紀はしばらく考えるように無表情になってから微笑んだ。
「まあ、正輝お兄ちゃんだからね」
「しかたないね」
 誤解が解けたところで、耕太は作業を始めた。病み上がりということで理由をつけて作業をさせない耕太に「もう大丈夫だって言ってるでしょう!」と美津紀が何度も怒って文句を言うことが繰り返されたが、最後には耕太の方が加減を覚えて、美津紀の怒鳴り声が少なくなった。
「さて、こんなものかな?」
 耕太は真上に差し掛かった太陽を感じて、作業の終了を宣言した。作業時間は長かったものの、のんびりとやったのでいつもと同じ程度の進捗具合であった。
 美津紀はさすがに二日のブランクで身体が鈍っていたのか、少し辛そうにしていたが、決して弱音は吐かなかった。
 耕太は美津紀の顔を見て噴出した。それに少しムッとして彼を睨みつけた。
「なによ、失礼ね。身体が少し鈍っていただけよ」
「ちがうよ。片付けはやっておくから、顔洗ってきたら? 泥だらけだよ」
 耕太はそう言って、わざと自分の顔の汗を土のついた軍手で軽く拭って、顔に泥をつけて見せた。美津紀は弱音を吐かなかったが、汗はいつも以上に吹き出て、それを無意識に土のついた軍手で拭っていたのだ。結果、彼女の顔はそのまま密林ゲリラの迷彩で使用できる模様をつけていた。
 それに気がついた美津紀は見る見る顔を赤くした。
「行ってくる」
 恥ずかしさで短くそう言うと、タオルを引っつかんで、洗面所に向かった。顔を洗うだけなら園芸用の水道で充分だが、顔についた泥が完全に落ちたか確認するための鏡がない。
「でも、途中で人と会ったら、その方が恥ずかしいだろうに。ここで泥を落として、洗面所に確認に行けばいいのに」
 耕太はくすくすと笑いながら走っていく美津紀の後姿を見送った。
 笑っていた耕太はふと、自分が自然に笑えて、いつも通りに美津紀と話している自分に気がついて驚いた。あんなに悩み苦しんだのに、こうして普通にできるのは不思議だった。
 全て納得したわけでもないし、完全に吹っ切ったわけでもない。なのに、なぜ? その理由はわからなかったが、耕太はなんとなくわかった。言葉にする事はできない、目にも見えない。
「絆ってやつなのかな?」
 耕太は美津紀が戻ってくるまでに片づけしないとと思い出して、道具を集めて、洗い出した。

「コウちゃん、何してるの?」
 顔を洗って戻ってきた美津紀はカメラを構えて、バラ園を撮影している耕太に声をかけた。
「作業日誌に写真を貼っておこうと思って。時々、兄ちゃんに借りて撮ってたんだ」
 日々の作業は地味なだけに変化はやはり乏しい。しかし、まとまれば、それなりに変化する。変化した事を見れば、やはり気合が入るのが人情というものである。
「へぇ〜」
 そう言いつつ、美津紀は何か考え事をしながら、バラ園を撮っている耕太を見つめていた。
「そのカメラ、レンタル料とか取られてるの?」
「まさか! 兄ちゃんもそこまで鬼じゃないよ。空いている時は使っていいって言われたんだ」
 耕太は美津紀の質問に「兄ちゃんならそれもありえるよな」と思いながらも首を横に振った。
「ふーん。それじゃあ、さあ。明日も持ってこられる?」
「たぶん、大丈夫だと思うよ」
「じゃあ、お願いね。――そうだ。明日は荷物があるから、お母さんの車で送ってもらうし、特訓、付き合えないけど、いいかな?」
 美津紀はかわいくお願いのポーズをすると耕太の返事を待たずに鼻歌を歌いながら、道具の片付け忘れがないかをチェックしていた。

 次の日の朝、耕太は兄の正輝にカメラを貸してもらい学校へと向かった。
「なんだって、フルセットで。しかも全部持っていけなんて」
 カメラ本体以外に重たい望遠を含む交換レンズ三本、本格的な三脚、簡易携帯用レフ板、ストロボまでつけている。
「これじゃあ、カメラマンの助手だよ」
 耕太は思いカメラバッグが肩に食い込むのを感じて、ため息をついた。文句を言う耕太に兄は「女心というもんだ。後悔しないように黙ってもっていけ」と家を出るまで監視して持っていかせたのであった。
 バラ園では、既に美津紀は到着しており、その横にはどこか海外にでも旅立つつもりかと言いたくなるような大きな旅行カバンが置かれていた。
「おはよう、コウちゃん」
 美津紀が耕太を見つけて、明るく朝の挨拶をすると、カメラの重装備を目に留めて、にんまりと笑った。
「こ、これは――」
「さすが、コウちゃん。わかってるぅ。やっぱり、あたしたちは最強コンビだね」
 美津紀は言い訳しようとした耕太に上機嫌でオッケーサインを出した。そのサインの理由が理解できず、耕太は目を白黒させていたが、美津紀は感心したように頷いていた。
「いったい、なんなんだ?」
 耕太は心の中で呟いて、必死に理由を探った。ここで美津紀に理由を聞けば、逆鱗に触れるのは間違いない。感心しているだけにその落差による怒りはいつも以上だろう。
 ヒントは、美津紀の旅行カバン、自分のカメラの重装備。旅行に行くわけではない。ここで何かする……。
 耕太は必死に考えたが、焦っているせいか、考えがまとまらない。
「コウちゃん、今日の作業は水遣りと病気にかかっていないかのチェックだけだったよね?」
「う、うん。そのつもりだけど」
「じゃあ、それが終わってから、お願いね」
 美津紀はそう言って、スキップでもしかねない勢いで水をやるためのホースを準備にかかった。
「まずい! 非常にマズイ!」
 タイムリミットは作業終了まで。しかも、そんなに時間はかからない。病気のチェックを入念にして時間を稼げなくもないが、それでは美津紀の機嫌は悪くなるだけである。
 耕太は八方塞で、美津紀に正直に訊こうかと腹をくくって、カメラバッグを日陰の水のかからない場所に置いた。時間稼ぎのささやかな抵抗として、カメラバッグの中身を確認するふりをして、バッグを開けた。
 最終ヒント。『誰でも簡単 プロのように撮れるポートレート写真丸秘テクニック集――これであなたもポートレート名人』。
 べたなタイトルの写真雑誌の付録小冊子がバッグの中に入っていた。
「わかった!」
 耕太は思わず、大きな声を出してしまった。
「な、なに? コウちゃん?」
 耕太の声にびっくりした美津紀が驚いて駆け寄ろうとしていた。
「な、なんでもないよ。宿題の問題の解き方を思いついただけだよ。うん、それだけ」
 耕太は慌てて、小冊子を隠して首を横に振った。美津紀はそれでも怪訝な表情を浮かべて、こちらを見つめている。
「さあ、早く作業しよう。バラも水を待ってるし、あんまり日が高いといい写真が撮りにくいよ、ミツキちゃん」
「そうね」
 美津紀はやっと納得して、水遣りを開始した。耕太はそれを見ながらそっと、小冊子をバッグに戻して、チャックを閉めた。
「あぶなかった。兄ちゃん、感謝」
 耕太は素直に兄に感謝して、美津紀の水遣りを手伝った。
 予定通り作業が終わると美津紀は着替えるためにカバンを持って水泳部の部室へと向かっていった。シャワーを使わせてもらう約束をしていたのだろう。耕太はその間に小冊子を急いで読み始めた。知っていることもあったし、知らないこともある。できることもあるし、機材や条件でできない事もある。しかし、ポートレートを撮る知識は最低限、知ることができた。
 一通り目を通しておけば、撮影中わからなくなれば、また見ればいい。さっきは思わず隠したが、別に隠す必要はなかったのである。逆にそういう本を持ってきていることは、おかしな事ではなかった。
 耕太はカメラのセットを済ませると、ぼんやりとバラ園を眺めた。
 青々とした葉が生い茂り、元気がよさそうなバラたちである。秋に備えての剪定をして、高さが低くなっているが、それだけに力がみなぎっているようにも見える。三番花をつけるかもしれないというバラの木も順調である。
「なんとか、間にあって欲しい」
 耕太は真剣に思った。たとえ、秋のバラが全滅してもいい、三番花だけは間に合って欲しい。園芸の神様に心から祈った。
「おまたせ、コウちゃん」
 祈りを捧げているちょうどその時、耕太は誰かに声をかけられた。耕太はその声のする方を見て、息を飲んだ。
 淡いピンクのノースリーブのワンピースに、お嬢様のようなツバの広い帽子をかぶった美津紀が立っていた。少し照れたような微笑みを浮かべたその姿は耕太には女神のように見えた。
「どこか変かな?」
 美津紀はスカートの裾を翻しながら、不安そうに前後を確認した。その姿に耕太は悩殺された。
「いや、とっても……とっても綺麗だよ、ミツキちゃん」
 耕太は顔を真っ赤にしながら、照れくさかったが、正直に感想を口にした。
 それを聞いて、美津紀の方も顔を真っ赤にして、俯いた。
「あ、ありがとう、コウちゃん」
 撮影はギクシャクしながらも始まった。しかし、シャッターを切るたびに緊張が解け、耕太も冗談を飛ばすようになり、美津紀も心から笑って、スカートの裾がバラの刺に引っ掛かったりするなどのハプニングをまじえながら、順調に進んだ。
「もうすぐ、バッテリーが切れちゃうよ」
 バッテリー残量の警報表示が点灯し、耕太があと、数枚しか取れないことを美津紀に伝えた。
「せっかく乗ってきたのに」
 美津紀は残念そうに呟くと、気を取り直して、最後の数枚に気分を切り替えた。
 お気に入りの場所に美津紀が立つと、夏にしては爽やかな風が一陣吹き抜けて、風で帽子が飛ばないように押さえつつ、気持ちのよい風に穏やかな微笑を浮かべた。それは何か儚げで、どこかに消えてしまいそうな、そんな表情にぞくりとして、消えてしまわないように思わずシャッターを切った。
「もう、コウちゃん! 変なところ、撮らないでよ」
 美津紀は突然シャッターを切られて文句を言った。
「すごくいい表情してたから、つい……」
「もう、上手いんだから。いつのまに、そんなお世辞いえるようになったのよ。本物のカメラマンみたいよ」
 美津紀ははじけるような満面の笑みを浮かべた。耕太は「これこそが、ミツキちゃんだ」とシャッターを切った。そして、そこでバッテリーが切れたことを知らせるアラームが鳴った。
「もう、最後の二枚だったのに、変な表情ばっかり撮って」
 美津紀は最後に二枚がいたくご不満と文句を言ったが、耕太の心の中では最後に二枚がベストショットであった。
「だけど、ラストのほうが好きだな」
 甲乙捨てがたい仕上がりになると予想しながら、心のフイルムを現像して耕太はポツリと呟いた。
「何か言った?」
「なんでもないよ。さあ、帰ろう。ミツキちゃんはお母さんに電話しないといけないんじゃないの?」
 耕太は誤魔化すと、美津紀も深く追求せずに、携帯電話を取り出して迎えにきてくれるように電話を入れた。

 最初に蕾を見つけたのは美津紀であった。
 見つけた途端、「コウちゃん」を連呼しながら、作業をしていた耕太を強引に理由も話さずにその蕾のところまで引っ張っていった。
「ねえ、ねえ、ねえ! これ、蕾じゃない?」
 耕太は美津紀が指差した先を見た。「まさか」と思ったが、確かに蕾であった。しかし、このバラは元気であった割には二番花を咲かせなかったので、耕太が残念がったバラであった。
「返り咲き……」
「返り咲き?」
 美津紀は首を傾げた。
「一定の間隔で花を咲かせる四季咲きと違って、気紛れに花をつけるんだよ。育成条件で変化するから、不規則で予想できないんだ。でも、この品種はそういうのじゃないのに……」
 耕太は首を傾げた。
「いいじゃない。そういうこともあるわよ。きっと、これも神様のくれたごほうびよ」
 美津紀はうきうきとした声でそういうと中断していた作業を再開した。
「この種類は確か、花が開くまで二週間ぐらい。中輪の淡いピンクだったな。香りのきつくない、明るくてかわいいバラ……」
 耕太は頭の中の図鑑を広げて、花の映像を思い出していた。ふと、その花が先日の美津紀の写真と重なった。
 なんとも言えない気持ちが湧き上がって、耕太は泣きそうな気分になった。だが、ここで泣くわけにはいかない。いざとなったら、目に土が入ったと言って言い訳しようかと考えていると、冷たいものが頭にかかった。
「うわっ! なんだ? 水? 雨か?」
 豪快にぶっかけられた水に雨を疑って、空を見上げたが、上空は水色の空が広がっていた。水色の水が落ちてきたわけではない。こんなに豪快なキツネの嫁入りも聞いたこともない。あと、考えられるのは――
「ミツキちゃん!」
 耕太は立ち上がって振り向いた。そこには引きつった笑顔の美津紀がホースから水を滴らせて立っていた。
「ごめーん。だって、そんなところでボーっとしているとは思わなかったんだもん」
 そういって、堪えきれずに笑い出した。
「このっ!」
 耕太は水を張ったバケツを掴むと、水撒きの要領で手で水をすくって美津紀に向かって水をかけた。
「きゃっ! 濡れちゃうじゃない! コウちゃん」
「人をびしょぬれにしておいて!」
 美津紀はきゃあきゃあ言いながら、楽しそうに逃げ回った。耕太もそれを楽しそうに追いまわした。少しこぼれた涙も美津紀の水で洗い流された。
「ちょこまかと、こしゃくな!」
「へへーん、そう簡単に濡れませんよーだ。下手くそ〜」
「このー。言ったな。えいっ!」
 耕太はバケツに半分ほどになった水を一気に撒き散らした。美津紀は完全に避けきれず、ほんの少しだったが水をかぶった。
「きゃっ!」
 悲鳴を上げるとともにその場に倒れた。耕太は「やった!」と声を上げる前に倒れた美津紀を見て、血の気が滝のように引いた。
 バケツを放り投げて、美津紀の側に駆け寄り、倒れた彼女を抱き起こした。彼女はまるで死んだように重たく、全体重が抱えた彼の腕にかかった。ぐったりとした彼女に彼の血の気はさらに温度を下げて、凍りつかんばかりになった。
「ミツキちゃん! ミツキちゃん! ミツキ!」
 激しく揺り動かしたが、反応はない。耕太はどうすればいいか、パニックになり、目に涙があふれた。
「ミツキちゃん! ミツキちゃん! こんなの嫌だ。こんなの、嫌だよ!」
 彼は泣いた事で少し冷静さを取り戻した。
「そうだ、救急車! 携帯を!」
 携帯電話を取るために彼女のもとを離れようとしたが、その手を誰かにつかまれた。
 耕太はつかまれた腕にはっとして、つかんだ人間を見た。
「うそだぴょーん」
 地面に寝かせられた美津紀が悪戯っぽく、それでいて寂しそうで、嬉しそうに笑っていた。
「うそ……」
 耕太はその場に文字通り、へたり込んだ。張り詰めていた緊張の糸が切れたマリオネットのように。
「もう、コウちゃんたら本気で泣くんだもの。びっくりしちゃうじゃない」
 美津紀は体を起こして、自分の顔に落ちた耕太の涙をいとおしそうに拭って、その指を胸の前に抱きしめた。
「うそ……」
「そう。迫真の演技だったでしょう? アカデミーものよ」
 美津紀は得意げに胸を張った。耕太は顔を伏せてゆっくりと立ち上がった。
「冗談でも、していい冗談と悪い冗談があるんだ! こんな冗談、冗談じゃない! もう二度とするな! したら、絶交だ! ほんとに本気で絶交だからな!」
 耕太は普段、絶対に発する事のないぐらい大きな、厳しい声で美津紀を怒鳴った。その迫力は耕太をよく知っている人間なら、信じられないぐらい本気で怒っているものであった。
「ご……ごめんなさい……」
 美津紀は迫力におされて、神妙な顔で謝った。耕太はそれに黙って頷き、作業を再開した。その日はお互いに一言も喋らずに、重苦しい空気のまま、作業を終了した。

 夕方に降った天の恵みでその日の夕方の水遣りは中止になった。雨があがって、空気中のゴミが洗い落とされたために、夕焼けがやけに澄んでいた。藍色の空の上に雲が茜色に染め上げられ、どこか非現実的な風景を作っていた。茜色の空には金星がさんさんと輝いて、藍色の空には昇りかけの満月が顔を覗かせていた。
 雨のおかげで、気温が少し下がり、過ごしやすい夕刻、しかも、水遣りの手間が省けて、楽ができたと嬉しいはずだが、耕太は今日ばかりは間の悪い雨だと恨めしく思った。
「はぁ〜」
 耕太は何度となくため息をついた。夕方の水遣りが中止というのは頼み込んで、兄の正輝に電話をしてもらった。兄の話では、向こうも電話に出たのは母親だったらしいが、自分でかけるべきだったと反省していた。
「うっとうしい奴だな」
 延々とため息をつき続ける耕太の頭を正輝は読んでいた雑誌を丸めてぽくぽくと叩いた。
「だって、今日のは最悪の一日だったんだよ。一期一会とは程遠い」
 叩かれても反撃せずに、されるがままになっていた。
「なんでも完璧にできるんなら、人間やめて神様にでも転職しろ」
「できないから、人間やってるんだよ」
「じゃあ、完璧にできないのは諦めろ」
「兄ちゃん、それは向上心がなさすぎると思うんだけど」
「完璧を目指すのと、完璧なのは越えられない壁があるんだよ。過去の失敗を反省して、完璧を目指すことはよいことだけど、過去の失敗にとらわれて、完璧でなかったものを後悔するのは最悪ってことだ」
 正輝はコードレス電話の子機を耕太に差し出した。
「それはわかってるけどさー」
 耕太は正輝の正論と子機に背を向けた。
「勝手にしろ」
 これ以上は面倒見きれないと正輝は耕太の部屋を出て行った。耕太は最大のきっかけを逃してしまったと後悔したが、もうそれは後の祭りであった。
「はぁ〜」
 その日、何度目かわからないため息をついた。
 落ち込みつつも胃袋は別の人格が支配しているのか、夕食を綺麗に平らげ、なんとか美津紀と仲直りする方法を考えようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
 母親が対応に出て、そのまま玄関の方で盛り上がっていた。耕太はどうせ、近所のおばさんが何かを持ってきたついでに話が盛り上がったのだろうと気にも留めずに自分の部屋へと戻ろうとした。
「耕太! 耕太! お客さんよ。美津紀ちゃんが来てくれたわよ」
 階段をあがりかけるその時に声をかけられ、思わず、落ちそうになりながらもなんとか堪えて踏ん張ると、そのまま玄関に急行した。
「ミツキちゃん?!」
「あ、あ、あの、こんばんは、コウちゃん……」
 美津紀はいきなりダッシュで登場した耕太に驚いて、しかもかなり緊張しながら挨拶した。
「あ、うん。こんばんは、ミツキちゃん」
 挨拶を交わして微妙な沈黙になった二人を変に勘違いした耕太の母親は「邪魔者は馬に蹴られてしまう」といいながら奥へと引っ込んでいった。
「……あの、今日は、ごめんなさい。あたし、どうかしてたんだと思う」
 長い沈黙の後、美津紀はなんとかその言葉を口にした。まるで、捨てられた子供のようなその不安さを漂わせる声に耕太の胸は締め付けられた。
「あ、いや、いいよ。わかってくれたんなら」
「ありがとう、コウちゃん」
 美津紀は少し目を潤ませながら笑ってお礼を言った。その笑顔に耕太も自然と微笑んだ。そして、再び沈黙が流れた。今度の沈黙はさっきのものとは違う、心地のよい沈黙だった。
「あの、これ、あたしが焼いたの。あんまり上手くできなかったけど、でも、味は保障つきよ」
 美津紀は手に持っていたナプキンをリボンでくくってラッピングした小さな袋状のものを耕太に手渡した。ナプキン越しの感触からクッキーか何かとわかった。
「ありがとう、ミツキちゃん」
「うん、それじゃあ、あたしはこれで。夜遅くにごめんなさい。おやすみなさい」
 美津紀はほっとした表情で頭を下げると玄関のドアに手をかけて帰ろうとした。
「美津紀ちゃん、久しぶり。しばらく見ないうちに美人になったね」
 帰るタイミングを見計らっていたかのように正輝が玄関に現れた。
「あ、正輝おにい――正輝さん。ご無沙汰してます」
 美津紀は帰るのを中断して頭を下げた。ちょっと頬が赤くなっていたのをみて、耕太は少し膨れた。
(なんで、兄ちゃんが出てくるんだよ)
「昔みたいに呼んでくれたらいいのに。他人行儀だよ。まあ、それはそうと、夜道を女の子一人で歩いて帰らせるなんてことはしないよな? 耕太君」
 正輝は耕太の手にもっている包みをひょいと取り上げると、軽く背中を押した。
「あ、当たり前だろ!」
 耕太は迂闊にもそのことを忘れていたが、当然そのつもりだと胸を張って返事した。
「じゃあ、しっかりやりたまえ、ナイト君。くれぐれも、月夜の晩といっても送りオオカミに変身しないように」
「なるか、バカ兄ちゃん!」
 怒鳴りながらも耕太は靴をはいて、夜道のボディーガードの準備を完了していた。
「じゃあ、行こう、ミツキちゃん。このままここにいたら、兄ちゃんに襲われるから」
「そうだぞー。襲っちゃうぞー」
 ふざけた正輝に美津紀は声を立てて笑い、再び一礼して、今度こそ本当に玄関から外に出た。

 夏の夜空を星が瞬いていた。このあたりは比較的、空気は綺麗な方であるが、それでも見える星の数は少ない。しかも、今日は満月で、空全体が淡い光を帯びているように見えるので、なおさらであった。
 しかし、星が省略されているので、夏の大三角形がわかりやすく頭上に輝いていた。
 美津紀は耕太の家まで自転車でやって来ていたが、それに乗らずに耕太と共に自転車を押して歩いていた。
 他愛のない話をしながら二人で歩く夜道はいつもと違って新鮮だったのか、今日の夕方までの雰囲気が嘘のように二人は話が弾んだ。
「あ、この公園。昔、コウちゃんと良く遊んだよね」
 住宅街の外れにある小さな公園。そこが耕太と美津紀が幼稚園のころ、定番の遊び場の一つであった。
 ブランコと滑り台と砂場。それとベンチが二つ。シンプルな公園だったが、子供の二人には充分な遊び場であった。
 砂場で砂山を作り、ベンチを使っておままごとをし、滑り台をジェットコースターのように滑り降り、力いっぱい遊んだ。
 中でも、ブランコは二人の大のお気に入りだった。二人はいつも、それをこいで空をつかもうとしていた。力いっぱいこげば、大きくなれば、きっとブランコが空に届くと信じていた。
「ねえ、ちょっと、寄っていかない?」
 美津紀は耕太の返事を待たずに自転車を止めて、公園へと入っていった。
 こんな時間である。公園には誰もいない。美津紀はお気に入りのブランコを見つけると、踏み板に溜まった水を払って腰掛けた。鎖が鳴り、揺らすと少しきしんだような耳につく音かした。
 耕太も同じようにブランコに腰掛けた。昔と同じ、二人が勝手に決めた専用ブランコ。美津紀が赤の踏み板、耕太が青の踏み板。二人は赤い彗星、青い稲妻と名乗って、ブランコを誰よりも高くこいでいた。
「あかいすいせいは、つうじょうのさんばいのすぴーどで、こげるのだ。ばびゅーん」
 美津紀は幼稚園時代の決め台詞をわざと舌ったらずの口調で再現すると、軽くブランコを揺らした。
「兄ちゃんが教えてくれた台詞だね、それ」
「気に入って、いつも言ってたよね。正輝お兄ちゃんに意味を聞いたら、三倍がんばったら、三倍幸せになれるってことだって教えてくれたけどね」
 美津紀は座ったままブランコをこぎ始めた。
「兄ちゃんは昔から兄ちゃんだから」
 耕太も苦笑しながら、ブランコをこぎ始めた。
「そうだね。コウちゃんもむかしから、コウちゃんだし」
「ミツキちゃんも昔から、ミツキちゃんだよ」
 耕太は笑って言い返した。
「なーんだ。あたしたちって、あの頃から何にも成長していないんだね」
「そういうことになるね、悔しい事に」
「あたしね、夢があるの」
「夢?」
 美津紀が唐突に話を始め、耕太は危うくバランスを崩すところであったが、平静を装ってブランコをこぎ続けた。
「うん。あたしね、将来、ファッションデザイナーになりたいの」
「ファッションデザイナー? パリコレとかの、あれ?」
「そう、それ。だから、敬信学院に行きたいと思って、勉強したの」
 敬信学院は被服部――通称ファッション部と呼ばれるクラブがあり、かなりのレベルの高い活動をしており、クラブの発表の場である学園祭には、お忍びで現役で活躍しているデザイナーも見に来るほどであった。もちろん、その卒業生でトップクラスで活躍しているデザイナーも多くいた。
「そっか……」
「それから、大学にいって、デザインの勉強を本格的にして、留学するの。そこで修行して、目標はパリでファッションショーをするの。世界中が注目するような大きなショーを」
 美津紀はひときわ大きくブランコをこいだ。まるで夢をつかもうとしているように。
「なれるよ。きっと、ミツキちゃんならなれるよ。僕が応援する」
 耕太も負けずにブランコをこぎながら大きな声で断言した。
「ありがとう。コウちゃんにそう言ってもらえたら、百人力よ。最強の相棒が応援してくれているんだもの、なれなきゃ、うそだよね」
 美津紀も大きな声で応えた。
「そうだよ、なれなきゃ、うそだよ」
「あたしがんばるね。きっと、ファッションデザイナーになってみせる」
「うん。きっとなれるよ」
「ありがとう。――ねえ、コウちゃんの将来の夢は?」
 美津紀はあいかわらずブランコをこぎながら、大きな声で耕太に訊いた。
「僕の夢?」
 耕太はそんなこと考えた事もなかったので、何を言っていいかわからなかった。
「そう、コウちゃんの夢も聞かせてよ。あたしばっかり応援されてたら、相棒じゃないでしょ? あたしもコウちゃんの夢を応援する。だから、教えてよ」
 美津紀は隣でブランコをこぐ耕太の方を向いてにっこり笑った。その笑顔に耕太は胸が張り裂けそうになった。全てをぶちまけたくなった。
「僕の夢――僕の夢は……」
 ミツキちゃんと一緒にいること。
 そういえれば、どれだけ楽だろう。しかし、言えない。絶対に言えない。
 耕太は全ての思いを飲み込んだ。
「僕の夢は、園芸家になって、綺麗な花で世界中を満たすことかな?」
「うわー、あたしより壮大な夢ね。でも、コウちゃんらしくて素敵な夢ね」
 美津紀は耕太の夢がスケールの大きいことに感心して目を輝かせた。人が語る夢を決して馬鹿になどしない。それが友坂美津紀という少女であった。
「ありがとう、ミツキちゃん。……誰もが元気になるような、嫌な事があっても、挫けそうになっても、前に進む元気をくれるような、そんな花を育てたいんだ」
 耕太は口からでまかせのつもりでいたが、実は以前からぼんやりと考えていたことを口にしている事に気がついて、自分で喋っていながら内心、驚いていた。
「うん。コウちゃんなら、きっとできるよ。というか、コウちゃんにしかできないよ。あたし、応援する」
 美津紀はまるで耕太の夢がかなったかのようにうれしそうに笑った。
「ありがとう、ミツキちゃん」
「それじゃあ、どっちが先に夢をかなえるか、競争ね」
「負けないよ」
「あたしもよ」
 二人はお互いにしばらくにらみ合って、ふっと力を抜いて、大声で笑いあった。
 そのあと見回りに来た警察官に注意され、夢の語り合いは中断せざる得なかった。
 耕太は美津紀を無事に家まで送って、帰り道、前が見えなくなるほど泣いていた。

 耕太はいつものように朝の支度を終えて、朝食をとっていた。朝食をとりながらも、電話が気になって、何度か箸を止めては電話を見つめ、ため息をついては朝食を再開するということを繰り返していた。
 それというのも、一昨日から美津紀はバラ園の世話を休んでいた。理由は前回と同じ夏風邪で今度は長引きそうだから、行けるようになったら電話をすると美津紀の母親から言われたのであった。
 もちろん、夏風邪が嘘ということは知っている。しかし、長引きそうというのは真実だろうと思った。
 休む前の美津紀は明らかに体調が悪そうであった。少しの作業でもすぐに息があがって辛そうで、肩で息をしていることはしょっちゅうであった。顔色も悪く、夏の色彩豊かな太陽の下で見ると寒気すら憶えるようであった。
 耕太はふと、「長引かなかったら?」という考えが頭をよぎり、懸命に頭を振って、その考えを追い払った。
「そんなこと、あるはずがない。バラだって、あと三日もすれば咲くんだ。それまでに元気になって、やってくるに決まってる」
 耕太は誰にでもなく、自分に強く言い聞かせるように大きな声で独り言を言った。むしろ、叫びに近かった。
 しかし、心の底で渦巻く不安はぬぐいきれず、その「あと三日」が永く永く感じて、耕太の心にさざなみを浮かべ、苛立ちを募らせていった。
 どこにもはけ口のない怒りを奥歯にぶつけ、強くかみ締めた。電話の音が鳴ったのは、ちょうどそんな時だった。
 耕太は今までで一番素早く受話器を持ち上げた。
「もしもし、遠野ですけど」
「……あー、びっくりした。いきなり出るんだもん。――コウちゃん?」
 電話機の向こうでは驚きつつ苦笑を浮かべている美津紀が耕太の脳裏にありありと浮かんだ。
「うん。ミツキちゃん。おはよう」
「おはよう」
 そう言ったままお互いに黙り込んでしまった。言いたいことはお互い色々あるが、何一つ言えない。そんな沈黙であった。
「……あのね、コウちゃん。コウちゃんにわがまま言ってもいい?」
 美津紀は何か探るように耕太に問いかけてきた。
「なんだよ、急に改まって。いつもわがままは言ってるじゃない。そんなふうに前振りされたら、構えちゃうよ」
 耕太は冗談っぽくそう応じた。いつもそうするように。
「あははは、そうだね。あたし、いつも、コウちゃんにわがまま言ってたよね」
「それで、姫。今日はどのような『僕の楽しみ』でもある姫のわがままを聞かせていただけるのですか?」
「もう、コウちゃんたら……」
 美津紀はさっきの少し寂しそうな笑いではなく、微笑を浮かべるよう呟いた。
「あのね。あたし、バラ園が見たいの」
「うん。わかった。それじゃあ、迎えに行くよ」
 耕太は頷いて、電話を切った。
 美津紀の家の前に耕太が着くと、美津紀は以前撮影した時に着ていたワンピースだった。
「また、コウちゃんの特訓に付き合えるね。賭けに勝たなくちゃ、借金地獄だもんね」
「ありがたいよ、ミツキちゃん」
 耕太は美津紀を自転車の後ろに乗せると、ゆっくり慎重に走らせた。夏の早朝、風を切って走る自転車は静かに風景に溶け込んでいた。二人の間に会話がなかったが、落ちないようにしっかりとつかまったお互いの体から伝わる鼓動をお互いに感じていた。それだけで充分であった。

「もう、こんなに膨らんでいるんだね」
 バラ園についた美津紀は自分が最初に見つけた蕾を見た。もう花弁がこぼれて緩やかに開きかけている。
「あと、三日もすれば開花すると思うよ」
「三日か……」
 美津紀はじっと蕾を見つめながら呟いた。
「もっと早く咲けばいいのにね」
 耕太は美津紀の呟きに少し焦るような声で呟きに応えた。
「焦っちゃ、だめ。そう教えてくれたのは、誰だっけ?」
 美津紀はゆっくりと立ち上がりながら、意地悪そうに笑顔を見せた。
「そいつは僕に似た誰かだよ」
 耕太は膨れてそっぽを向いた。
「じゃあ、あたしの知っているコウちゃんはそっちのコウちゃんね」
「ふーんだ」
 耕太はわざとむくれた。美津紀はその様子に満足して微笑むと、踊るようにバラ園を見渡した。あっちこっちの植え込みを覗き、他の蕾も見て回った。耕太はその様子を黙って眺めていた。まるで白い蝶が飛び回っているようだった。
「ねえ、コウちゃん。やっぱり、あたし、ここが好き」
 あらかた見て回ると美津紀は耕太の方を振り返って、最上の笑顔を見せた。
「どうしたの、急に」
「一番好きな場所ってどこかなって思ったら、ここが浮かんだの。だから、確認しにきたの」
「そりゃあそうだよ。ここはミツキちゃんが手塩にかけた場所なんだもの」
「コウちゃんもね」
 美津紀は嬉しそうにはにかんだ。
「うん。僕たち、最強のコンビが手塩にかけたバラ園だもの。一番の場所になるのも当然だよ」
「そうね。そうよね」
 美津紀は大きく頷いた。
「これからもよろしく、ミツキちゃん」
「こちらこそよろしく、コウちゃん」
 二人はお互いに握手した。
 そのまま、耕太は美津紀を自転車に乗せて、再びゆっくりと走らせた。美津紀の家の前には心配そうに彼女の両親が待っていた。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん」
「いいのよ、美津紀」
 美津紀は父親に抱きとめられるようにして自転車を降りた。そして、父親から身体を離して、一人で立って、耕太に向き直った。
「バイバイ、コウちゃん」
「またね、ミツキちゃん」
 耕太はいつになく真剣な顔で『またね』と強く言いつつ、バラ園の作業日誌を美津紀に手渡した。
「一昨日と昨日、作業の状況を知らないと、困るだろ? 今度返してくれたらいいから」
「……うん。ありがとう、コウちゃん」
 美津紀はゆっくり頷いた。そして、顔を上げた顔はどこか晴れやかだった。耕太は自転車にまたがって、学校へと向かって走り出した。
「またね、コウちゃん!」
 耕太の後ろから美津紀の元気のいい声が聞こえた。
「またね、ミツキちゃん!」
 耕太は身体をひねって手を振って元気のいい声で別れの挨拶をした。

 二日後の朝、どこか秋の空を思わせるような抜けるような青空が広がる一日の始まりだった。
 いつものように耕太は朝の支度をしていると、電話が鳴った。
 一瞬、耕太は硬直したが、落ち着いて受話器を持ち上げた。
 電話は美津紀の母親からのものであった。内容は、今朝早く、美津紀が眠ったとのことであった。今まで耐えてきたものが我慢しなくてよくなった彼女の母親は悲しみと涙を隠さずに耕太にそのことを伝えた。
「コウちゃんは呼ばないでって、あの子が、美津紀がどうしてもって、ごめんね、耕太君、ごめんね」
 美津紀の母親は何度も耕太に謝った。耕太は美津紀が何故自分が呼ばなかったのかわかるような気がした。
「だって、自分だって、そうなったらミツキちゃんを呼びたいとは思わないから」
 耕太は電話の向こうで泣きくれている美津紀の母親を優しく慰めた。
「あの子、今度、コウちゃんに会ったら、バイバイって言っちゃうからって……」
「ミツキちゃんらしいや。本当に」
 あとはほとんど美津紀の母親は泣き声だけだった。しばらくして、落ち着いたのか、美津紀の母親は通夜の場所と時間、葬儀の時間を伝えて電話は切れた。
「美津紀ちゃん、か?」
 いつの間にか台所に降りてきていた正輝が耕太に訊いた。耕太は黙って頷いた。
「そうか」
 正輝は目を閉じてしばらく黙祷した。それから、
「母さんには俺が言っといてやる。お前は行くところがあるんだろ?」
 正輝の言葉に耕太は頷くと、かばんを持って出かけていった。
 耕太はバラ園にいた。
 美津紀の見つけた蕾が満開の花を咲かせていた。ピンクがかった白いバラであった。そんなに大きくない中輪の花なのに、元気一杯で勢いは大輪の花に負けていない。耕太は剪定ばさみを持って、その花を摘み取ろうとした。
 しかし、それにはさみを当てて、あとは指を握るだけでいいのに、それができなかった。耕太はいつの間にか、そのバラの花の姿に美津紀の姿を重ねていた。
「いいよ、コウちゃん。無理しなくても。もう、ちゃんと貰ったから」
 そんな声が聞こえた気がして、耕太ははさみを離した。そして、はさみを握り締め、ただ、そこに立ち尽くしていた。

 美津紀の葬儀には大勢の人間が参列した。
 クラスメイトはもちろんのこと、彼女と友達という別のクラスの女子も大勢駆けつけた。もちろん、男子の数も多い。耕太と同じクラスの男子も何人か見かけた。
 葬儀の会場中をすすり泣く声が止むことはなく、友人代表で弔辞を読んだ女子たちは途中で読む事ができず、泣き崩れてしまった。誰もが心痛な表情を浮かべていた。
 そして、輝くように笑った美津紀の遺影が更に涙を誘っていた。
 その写真は、耕太がバラ園で撮ったものだった。家族の誰もが病気のことを知ってしまった後では、美津紀の写真を撮ることが遺影を想像させ、シャッターを押せなかった。それ以前の写真でも耕太の写真ほど美津紀らしさが撮れているものはなかった。
 あまりにもしめやかな葬儀に、葬儀屋の社員も「若い人の葬儀は辛い」と会ったこともない美津紀の死を心から悼んでいた。
 しかし、そんな中、耕太はいつもと変わらぬ表情と態度であった。男子の中にも涙を流しているものもいる。それなのに、ともすれば冗談すら飛ばしている耕太に美津紀の親友という女子たちが詰め寄っていった。
「ちょっと、遠野君! あなた、美津紀と仲が良かったんでしょ? 幼なじみだったんでしょ!」
 少しヒステリックな声が葬儀を終えて散り始めている人のざわめきの間に聞こえた。
「うん、そうだよ」
「じゃあ、なんで、泣いてあげないのよ! 美津紀はね、美津紀は、あなたのバラ園を手伝うようになってから、あたしたちと会うたびに、コウちゃんが、コウちゃんがって、楽しそうにあなたの事を話してたのよ。仲良かったんでしょ? 好きだったんでしょ!」
 女子は平然としている耕太にますます腹を立てて怒鳴った。まるで、美津紀を耕太が殺したかのように責めた。
「うん。好きだよ。今でも」
 耕太は微笑みを浮かべて答えた。
「なんで笑ってられるのよ! 信じられない!」
 美津紀の親友たちはまた泣き崩れた。耕太はただ、微笑むだけしかできなかった。
 帰ろうとした耕太を美津紀の母親が呼び止めると、耕太が美津紀に貸していたノートを手渡した。
「あの子、病院までそれを持っていって、一生懸命読んでいたわ。すごい、すごいって、最期まで手放さなかったの。美津紀は本当に耕太君と会えて、幸せだったと思うの。ありがとう、耕太君」
 耕太は美津紀の母親の言葉に首を振った。
「僕の方こそ、ミツキちゃんに会えて、幸せです」
「ありがとう、耕太君」
 美津紀の母親と父親、弟にまで頭を下げられ、困ったような微笑を浮かべて、葬儀の会場を後にした。
 耕太はまっすぐ帰るつもりだったが、なぜかバラ園へと足が向かった。このまま歩いていくと、バラ園に行ってしまうことは気がついていたが、それを止めるつもりはなかった。
 耕太はバラ園に入ると、かすかに香るバラの匂いに迎えられ、その中をただ、なんとなく歩いた。
 夏休みの学校とはいえ、人は大勢いるし、周囲も住宅街で人通りも多い。普段はにぎやかなはずなのに、その日の耕太には妙に静かに感じた。
「なんだか、世界が止まってるみたいだ」
 耕太は美津紀のバラの前に来て立ち止まり、しゃがみこんでバラを見つめた。そして、作業日誌にバラのことを書き込もうと、ページをめくった。
 そして、今日書き込むページに封筒が貼り付けてあるのを見つけた。封筒の表書きには大きな元気のいい字で、
『コウちゃんへ』
 と書かれてあった。
 耕太は大きく一つ心臓が脈打ち、静かな世界を騒がせたが、すぐに元の静かな世界に戻り、機械的にその封筒を開けて、中の便箋を取り出した。便箋は女の子が好んで使う少しファンシーなもので、丁寧に折りたたまれていた。

――コウちゃんへ
 この手紙を読んでいるということは、あたしは遠くへ行ってしまったということだね。
 ごめんね。あたし、本当は自分が病気で長くないこと、知っていたの。でも、そのことを話したら、コウちゃんが気を使って、昔みたいに仲良くしてくれない気がして怖かったの。だから、黙ってた。ごめんね。あたしって、身勝手だよね。自分の都合だけで、コウちゃんをだまして。ごめんね。
 あたし、病気のことを知ったときはショックで、すごく辛くて悲しくて、暴れて、泣き叫んだの。
 「何で、あたしだけ」って。
 お父さんやお母さん、勝昭にも、ずいぶんひどいことをしたと思う。あたしって、バカだね。誰も悪くないのに。
 何日も泣いていたんだけど、急にあたし、怖くなったの。このまま、あたしは何もしないまま死んでしまうんじゃないかって。怖かった。本当に怖かった。でも、何をしたらいいかわからなかったの。
 そんな時、コウちゃんが楽しそうにあたしの家の前をスコップ持って通りがかったの。びっくりして、それで思わず声をかけたの。話を聞いて、あたしはこれだと思ったのよ。コウちゃんは神様がつかわしてくれた天使だと。ジャージ姿のやぼったい天使さんだったけど。
 バラの世話、楽しかった。
 コウちゃんとあんなふうに泥んこまみれになって遊んだのは何年ぶりかな? 泥んこ細工じゃなくて、バラの手入れだったけど、それでも楽しかった。虫を取るのも……あんまり、できれば、やらなくてすましたかったけど。楽しかった。神崎社長にほめられたのもうれしかった。
 コウちゃんとゆっくりいろんな話できたのも楽しかった。小学校の二年からほとんど話さなくなったよね。おたがい、変に意識しちゃってさ。でも、最後にたくさん話せたから、よかった。
 いつだったか、あたしが気絶したふりをしたこと、憶えてるかな? うれしかった。あたし、不安だったの。あたしが死んでも誰も悲しまないんじゃないかって。バカと思われるかもしれないけど、死んだ後なんてわからないから、すごく不安だったの。でも、ふざけて気絶したあたしを泣きながら呼びかけてくれたり、そのあと、真剣に怒ってくれたり。うれしかった。あたしが死んでも、コウちゃんだけは絶対に悲しんでくれるってわかって。
 でも、すぐに、あたし、とんでもないことしたって反省したのよ。コウちゃんを試すなんて、コウちゃんが悲しんでくれることなんてわかっていたことなのに。
 あやまりにいった時、病気のこと、話そうかと思ったけど、やっぱりできなかった。怖くてできなかった。話したら、絶対さけられないことに、本当の本当になっちゃう気がして。
 あの時、公園で話した夢の話、あれ、本当だよ。もし、奇跡が起きて、病気が治ったら、あたし、ファッションデザイナーになるの。その時は応援してね。パリでファッションショー開く時はコウちゃんをファーストクラスで招待してあげるから。あ、でも、この手紙を読んでいるってことは、もう、無理なんだね。あたしって、本当にバカだね。
 コウちゃんの夢、かなうといいね。コウちゃんなら、きっときれいな花を咲かせられる。だって、コウちゃんだもん。あたしも応援しているから。もう、あんまり、役に立てないけど、応援してるから。
 バラ、キレイに咲いたかな? 見れたら、書き直すつもりだけど、これをコウちゃんが読んでいるってことは、あたし、見れなかったんだね。残念だな。でも、つぼみが一杯ついてたし、きっと一杯きれいに咲いているよね?
 あやまって、ばっかりだったけど、最後に ありがとう コウちゃん
                             コウちゃんの相棒の 美津紀より

 耕太は読み終わると、何かを堪えながら立ち上がった。手紙を優しく、力強く持って。
「たくさん、咲いたよ。毎日、一生懸命、世話したもんね。お水あげたり、草むしったり、悪い虫を追い払ったり……。ねえ、何か言ってよ! ずるいよ! 僕を一人置いていくなんて」
 耕太は心の底から叫んだ。空を見上げて叫んだ。空の向こうの天国に届くように。

――FIN


おわり



 あとがき

 いかがだったでしょうか?

 この話は鷹野祐希 著『僕のご主人様?!』(富士見ミステリー文庫)を読み終えて、ふと感じたことをお話にしたものです。『僕のご主人様?!』はライトノベルでコミカルな感じのする本で、『いちごいちえ』とは全く似てないのですが、なぜかこの話を感じてしまいました。
 病気のことやバラの栽培などははっきり言って、下調べ不足で拙いもので、恐らく間違いが多いと思います(詳しい人は突っ込みいれてくださいね)。勢いを重視してしまったのは冒険ですが、楽しんでいただければ幸いです。
 あと、この作品を書くに当たり、後ろをちょっとだけ押していただいた 月山かなるさんに感謝の言葉を。ありがとうございます。



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