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CROS Juliet







(改訂版)
作: 
南文堂

 そこは目を開けているか閉じているかわからなくなるほど暗かった。そして、異常なほど静かだった。
 慣れていない者はこの暗闇と静寂の発する無言の圧力に参ってしまうのだが、関根義孝は慣れている者であった。
 関根の周囲はほのかに温かい液体で満たされていた。その液体が身体にまとわりつくのを彼は感じていた。特別、彼が敏感肌というわけではない。普段は感じないほど微かな感触でも、視覚、聴覚、嗅覚が外界から遮断されたことで触覚が敏感になっているのであった。
 静寂の中、唯一聞こえる音といえば身体伝いに聞こえる心臓の鼓動ぐらいである。関根はその鼓動がかなり早くなっていることに気がついた。
「いつも、こうだな」
 関根は苦笑を浮かべたくなった。回数を数えることも意味が無くなるほど、この暗闇に来ているが、いまだにここに来ると興奮してしまう自分が恥ずかしかった。
 高濃度の酸素が溶けている液体で満たされたこの静寂の場所を母親の胎内とたとえる者も多かったが、そこに留まりたいとは誰も言わなかった。ここに来た者は、その向こうにある騒々しくも華やかで明るい世界へと一刻も早く飛び出したいという者ばかりであった。そこに多くの苦悩と苦痛があろうとも。
 関根も彼らと同じ気持ち、いや、彼ら以上に早くこの暗闇を抜けて、明るい世界に――自分自身とは程遠い華やかな世界に産まれることを強く願っていた。
 関根は興奮している気持ちを落ち着けるために深呼吸を三回した。高濃度酸素溶液が肺の中を満たして、液体で呼吸している今、それはさほど肉体的意味を持たない。だが、それが関根の儀式であり、精神的には十分意味があった。
 深呼吸の効果でテンポを緩めて安定する鼓動を感じ、彼は口を開いた。声は出ないが、しゃべりたい言葉は喉などに取り付けられたセンサーが読み取り、外で待機している人間にスピーカーを通して伝えられる。
「お待たせしました。準備オッケーです」
 しばらくすると明瞭だが、少し渇いた事務的な女性の声が液体を揺らした。
「CROS――チャンネル・リモコン・オペレーティングシステム。診断プログラム始動します――脈拍、血圧、血中酸素濃度……許容範囲内、正常。待機モード解除します。起動プログラム始動します。よろしいですか?」
「ユーザー名、関根義孝で承認。“ジュリエット”起動」
「……ユーザー名確認。生体情報再確認しました。関根義孝様。“ジュリエット”起動プログラム始動します。五、四、三、二、一……」
 女性の声は最後まで聞こえなかった。その代わりに関根の耳には機械が作動する音や定期的に鳴る電子音、人の息遣い、さまざまな雑音が聞こえた。静寂に慣れた生まれたばかりの耳には少々うるさくもあったが、関根は逆にそれを安堵した。
 関根はまだ目を閉じたままなので周りは見えないが、背中の感触で硬いベッドの上に寝かされていることはわかる。関根は忌々しいあの暗闇の棺桶、“コクーン”から出られたことを感じて、心の底から喜びがこみ上げてきた。
「今度もうまくいった」
 心の中で喜びをかみしめるように呟いた。失敗することは、長年の経験でも指折り数えられる程度に稀ではあるが、失敗すれば再調整に一日はかかる。そんなことになっては大勢に迷惑をかけることになるし、自分自身も辛い。
「ゆっくり目を開けてみてくれ」
 安堵の気持ちを抱いていると、少し甲高い男性の声が関根に向かって話しかけてきた。その男の言葉に従って、関根はゆっくり目を開けた。
 目を開けると少し眩しかったが、すぐに慣れて黒縁めがねの丸い顔の青年がにこやかな笑顔で覗き込んでいるのが視界に入った。
「んっ……っと」
 関根はゆっくりとベッドから身体を起こすと、寝起きにするように腕を上げて伸びをした。そして、壁に取り付けてある大きな鏡を見た。
 鏡に映っているのは、奇跡のように美しい少女であった。
 その均整の取れた美しい身体は、服で隠してしまうことが神への冒涜のように思えるほど神々しかった。
 ほんのり光すら放っているようにも見える肌の上に、極上の絹すらも色あせて見えるほどつややかな黒髪が流れていく。
 身体だけではなく、顔も大きい黒い瞳に通った鼻筋、桜色に濡れる唇、ほんのり赤く染まり思わず触りたくなるような頬。整っていたが、どことなく幼さを残した愛嬌のある顔立ちは製作者の並々ならない愛情を感じずにはいられなかった。
 これが今の関根義孝の身体、マリオネットの“ジュリエット”の姿であった。
 関根は鏡の中の自分に向かって「おめでとう」の笑顔をしてみせてから、改めて丸顔の青年の方に向き直った。
「おはようございます、丸山様」
 花もほころぶ愛嬌たっぷりの笑顔とともに鈴を転がしたような愛らしい声で朝の挨拶をすると、丸山は少し顔を赤らめながら視線をそらした。
「おはよう、ジュリエット。気分はどうだい?」
 丸山は猫なで声で“彼女”の調子で尋ねた。それは丸山の職務上、必要な質問だが、どちらかというとジュリエットの声を聞ける役得と思っていた。
「丸山様がきっちりと整備してくださるので順調ですわ」
 少し上目遣いでベッドの上で軽くしなを作って答えると、丸山は男の生理現象を隠すために椅子にさりげなく腰を下ろさなくてはならなくなった。
「それはよかった。それじゃあ、悪いけど服を着てくれないかな? マリオネット技師がマリオネットに欲情したら笑いものもいいところだよ」
 丸山は諸手を挙げてジュリエットに降参をした。
「まだまだ、修行が足りないですわよ。丸山様」
 ジュリエットはくすっと笑って、ベッドから降り立つとクロークの衣装を手馴れた手つきで身に着けた。
「まったくだ。だけど、正直、君が“ジュリエット”を操っているから不覚を取るんだ。他の操者ならこんなことは無いよ」
 丸山はドレスを着たジュリエットに少しの安心と、多くのもったいなさを感じつつ言い訳を並べた。
「ふふ、ありがとうございます。そういっていただけるとお世辞でも嬉しいですわ」
 ジュリエットは少し恥らうように頬を赤らめた。おろし髪が幼さを感じさせつつも、ドレスによって強調された胸元に女性の色香が漂う。
 そのアンバランスな色香に毒されてか丸山はジュリエットが裸でいたときよりも顔を赤くした。そして、正気を取り戻そうと少し激しく頭を振った。
「参るよ。本当に。“ジュリエット”の中に入っているのが、関根君――男と知っていても、どきどきしてしまう。本当に――!」
 不意に丸山の唇はジュリエットの人差し指に押さえられ、言葉を止められた。
 その予想外の行動に丸山の心臓は止まるかと思ったが、ジュリエットは毅然としつつも寂しさを含んだ瞳を丸山に向けていた。
 その瞳の色に気付いて、丸山が少しだけ冷静さを取り戻したのを見計らって、ジュリエットはそっと唇から指を離した。
「それは言ってはいけない禁忌でございましょう、丸山様。今の私はジュリエット。ジュリエット・キャピュレット。ジュリエット・モンタギュー。ロミオ様の最愛の人。決して、関根義孝ではありませんわ。いいかしら?」
 両手を腰に当てて可愛く仁王立ちになったジュリエットは丸山に向かって冗談ぽく抗議した。しかし、ジュリエットの瞳にはまったく冗談の色は浮かんでいなかった。
「僕としたことが、すまん。悪かった」
 丸山は素直に頭を下げた。
 マリオネット操者の名前は原則、公開してはいけないという禁忌がある。だが、この場合、ジュリエットは「本名を呼んで、役になりきろうとしている役者の邪魔をしている」ことを注意していた。丸山はそのことに気がついて、そんな初歩的なことを忘れていた自分を恥じた。
「すぐにわかってくださって、私はこの上なくうれしいですわ」
 ジュリエットは仁王立ちをやめて一息つくと、少し落ち込んでいる丸山の耳元に唇を寄せた。
「――本当のことを言うと、私、女性のマリオネットはそんなに経験がありませんの。しかもこの大舞台で主役でございましょう? マリオネットを起動させた時から役に入らないと不安になってしまいますの。許してくださいませ」
 小さな声で告白すると、ジュリエットは丸山からさっと身を離した。装った強気を親しい人にこっそりと打ち明けた少女は照れ笑いを浮かべて、舌をちらりと出した。
 丸山はしばらく心が揺れて言葉が出なかったが、はっとして、再び両手を挙げた。
「……本当に降参だよ。そのマリオネットをそこまで操るなんて、君にしかできないよ」
「あら? そんなことはありませんわ」
 ジュリエットは謙遜しながらも、まんざらでもない顔で微笑んだ。
「その“ジュリエット”はシビアなコントロールを操者に強いる設定になってるんだよ。並みの操者ならすぐにオーバーアクションになって、そんな細かい表現はできないよ」
 扱いづらいはずの機体を表情といい、仕草といい、自分の身体のように操る技術は、技師の丸山から見ても見事としか言いようがなかった。
「もったいなきお褒めのお言葉、感謝いたしますわ」
 ジュリエットは丸山の言葉を肯定するかのように優雅に一礼した。そして、身体を起こすと華やかな笑みを浮かべた。
「確かに反応はタイトで遊びはないですし、バランスがシビアですけど、私は好きよ。私の想いを素直に伝えてくれるのですもの。なんだか、これが本当の身体みたい思えてしまいますわ」
 ジュリエットは自分自身を抱きしめるように両手で自分の両肩を抱いた。抱きしめた手から返ってくる柔らかく芳醇な感覚にジュリエットは少し恍惚とした表情を浮かべた。
「扱いづらいが一級品。操り手を選ぶタイプの典型だね、“ジュリエット”は。……君みたいな人には一番あっているのかもしれないね」
 関根ほどマリオネットを自在に操る操者は日本全国探しても十人もいない。自然と関根はジュリエットのような操り手を選ぶ機体を使いたいという公演に呼ばれることが多くなり、さらに技を磨く結果となっていた。
「ふふ。それでは、私が“ジュリエット”に愛想をつかされませんように、お稽古をがんばらなければなりませんわね」
「これ以上がんばるのはどうかと思うけどね」
 誰よりも早く稽古場に来て、誰よりも遅く帰る稽古の鬼がこれ以上がんばってはたまらないという顔をした。
「ふふ。そんな顔されても、がんばることは変わりませんわ。それでは、いってまいります、ごきげんよう」
 ジュリエットは丸山の渋い顔を軽くかわして会釈した。そして、そのままドレスの裾を翻し稽古場へと向かう扉を開いた。

 マリオネット――人間が操縦する人型ロボットの総称。その用途は土木・建築現場や危険地帯の作業から福祉関係の介助、各施設のコンパニオンまで幅広い。いまやマリオネットによって現代社会は支えられているといっても過言ではない。
 ここまで普及した要因は、人工筋肉や人工皮膚などの発明により、人間とほとんど変わらぬ外観と、人間以上のパワー、人間並みの器用さをもつロボットの製作ができるようになったこと。そして、それがコスト的に社会に受け入れられたことがあげられる。
 しかし、操縦方法の革新があったことも大きな要因として忘れてはならない。
 チャンネル・リモートコントロール・オペレーティングシステム――通称“CROS《クロス》”。
 今では当たり前になった、この操縦システムは操縦者の脳波を読み取り、ロボットを文字通り意のままに操縦することができる。また、簡単な手術は必要だが、ロボットのセンサーで感じた感覚を操縦者の脳にフィードバックすることもできる。
 余談だが、このシステムが完成した時、普段は物静かなことで有名なロバート博士が『人間は第二の体を手に入れた』と廊下に飛び出して大声で叫んだとロボット史を紐解くと必ず記述されている。
 ロバート博士の言葉を借りるわけではないが、確かに人間は『第二の体』を手に入れた。
 マリオネットの使用により、危険な場所での作業に人間が赴く必要もなくなった。他にも重労働も楽にこなせるようになった。繊細な動きが可能になったことで体力と繊細さの必要な介護や看護の分野にも進出した。容姿を自由にでき、表情なども人間と見分けのつかないぐらい自然に作れるようになり、企業の受付やイベントのコンパニオンにも使われるようになっていった。
 ある程度、繊細な動きをさせる場合も、職人芸のような熟練した操作をしなくてよい人間そっくりな機械。それが高齢化、少子化の進む先進国で普及していったことは考えてみれば当然といえた。
 マリオネットは、容積的問題で電源を内部に搭載しないことがほとんどである。操縦の命令信号もノイズを低減するため有線とする場合が多い。もちろん、有線方式が多いというだけで。内部電源方式、非接触型電源供給方式、無線操縦方式など用途や目的に応じて様々な方法が採用されている。しかし、特に理由がなければ一番安価で信頼性の高い有線方式が最も多いのは開発当初から今に至っても変わっていない。
 その電源供給やコントロールのコードは、人や物に引っかからないように天井からぶら下げていることが多い。そのコードがまるで、操り人形の操り紐のように見えることから、それらのロボットはいつのころからか、『マリオネット』と呼ばれるようになった。
 最初はそれは蔑称であったが、いつしかそれが市民権を得て、一般名称の地位に上りつめたのは非常に面白いことである。
 今では各業界でなくてはならないマリオネットだが、普及する際に各業界で様々な波紋を起こした。よいこともあれば、悪いこともあった。これは革新的な技術が普及する過程では当然のことであり、ほとんどの業界はその波紋を吸収してすぐに沈静化していった。
 ただ、芸能業界はその波紋が大きく、嵐といってもよいものであった。
 美男美女を好きなだけ作ることができるマリオネットはまさに芸能関係者にとって理想である。それだけにタレント、特に俳優たちはマリオネットの芸能界進出に猛反対した。俳優たちがストライキする騒ぎもあり、国会でも討議されるほどの大問題となったことは記憶に新しいだろう。
 結局、マリオネットは舞台演劇のみ使用を認めるものとし、テレビをはじめとする映像メディアには演劇の宣伝以外では登場させないという協定が結ばれた。さらにマリオネットを操縦している人間――操者の名前は一般に公開しないことが取り決められた。
 つまり、マリオネットを操る人間を日陰者にしてしまえば、操縦する人間などいないだろうと反対した業界勢力――主に大手プロダクションは考えたのだろう。
 しかし、実際は『華がない』といった理由で演技力は認められているが、華やかな主役になれない役者たちが操者として参加するようになっていった。
 確かに、マリオネットを使用した演劇は『人形劇』などと呼ばれ、当初は生身の人間の演じる演劇よりも格下と見られていた。だが、現在では理想的な美男美女の演劇を見れるとあって、観客に支持されて『演劇』を上回る盛況を誇っている。実際、顔がいいだけの大根役者の『演劇』よりも、演技力のある役者の操る『人形劇』の方が質がよかったことも大きな要因といえよう。
 海外での波紋は日本よりも大きく、ハリウッドなどは今でもマリオネットの閉め出しを続けている。その一方、ミュージカルや舞台で有名なブロードウェイや、ショーが活発なラスベガスではマリオネットを積極的に取り入れて発展している。
 その一番有名な例は、ラスベガスの『カーネル劇団』だろう。カーネル劇団はマリオネット演劇専門の劇団として発足し、今では世界各国で公演するほどの人気である。公演チケットは必ずプラチナチケットになり、そのチケットをめぐり犯罪が起こり、社会問題にされるほどである。
 人気を博している『人形劇』だが、それに使用される演劇用マリオネットは年々改良が重ねられ、より細かな表情や動きを操作するために演劇用のマリオネットはCROSを用いても扱いが難しくなる傾向があった。ここ最近は役者兼業ではなく、マリオネットを操る専門の役者が操者として主流となりつつある。ちょうど、かつてのアニメや映画の吹き替えが役者から専門の声優になっていったように。
――長谷川健太郎著 『マリオネットと現代社会』より抜粋

「えーと……ここでロミオ様に手を取られて驚く……少しオーバーアクションかしら? でも、ジュリエットならそれぐらいの方が合ってますわね」
 ジュリエットは台本を片手に、誰もいない稽古場で想像のロミオを相手に演技をしてみた。
『きゃっ! ど、どなた……』
 驚きの表情を稽古場の壁一面に張ってある鏡で確認しつつ、表現や角度を変え何度か演じて自分の“ジュリエット”を作りこんでいた。
「やはり、その後のロミオ様とかわす台詞のためにも、ここは少し緊張感を持たせるべきですわね」
 自分で納得したジュリエットは台本に要点を書き込み、床に置くと再び演技を始めた。
 今のジュリエットにとってそこは稽古場ではなく舞踏会の会場で、今は名も知らぬ仮面の男性を探し回る少女となっていた。
 人ごみを縫うようにステップを踏み、左右に顔を巡らせて、光輝く仮面を探す。求めるあの人は見あたらない。失望の色で輝く少女の美しさが夜露に濡れる月のようにかげる。そして、手を――
「きゃっ!」
 本当に誰かに手を握られ、ジュリエットは飛び上がらんほどに驚いた。そして、握られた手を見て、安堵と喜びの表情を浮かべた。
 ジュリエットの手を握ったのは短髪のブロンドが眩しい美形の青年であった。青年は一瞬、子供のように悪戯っぽく笑顔を浮かべた。そして、表情を引き締めた。
『聖者様。巡礼のこの手が無礼にもあなたの聖地を汚してしまいました。その謝罪に唇が聖地に口づけをして清めさせてください』
 青年はジュリエットの手の甲にキスしようとした。だが、その寸前でジュリエットがそれを拒むように手を引こうとする。
 拒絶の動きに青年の動きが止まって、ジュリエットを悲しげな瞳で見上げた。ジュリエットはその表情を否定するかのように首をゆっくりと振った。
『いけませんわ、巡礼様。それはあまりにも手に対するひどい仕打ち。巡礼様は信心深く、敬虔なお方。その振る舞いに何の無礼がありましょう。聖者の手は巡礼が触れるもの。指と指が触れ合う。それは巡礼の優美なキスと申します』
 ジュリエットは握られていない手で胸の動悸を隠すように自分の胸を押さえ、戯れる小鳥のようにさえずった。
『では、聖者と巡礼に唇はございませぬか?』
 悲しみは拭い去ったが、戯れる小鳥を捕まえることのできない若い鷹は、焦りと困惑を覗かせる。そして、小鳥を熱くまっすぐに見つめた。
 ジュリエットにとって、その熱いまなざしは太陽の光であり、彼女の体温を上げさせた。
『いいえ。祈りを唱えるのに唇は必要です。聖者にも巡礼にも』
『では、どうか、今この時だけ、唇に手の役割を。信仰が絶望に変わらぬうちに。唇が祈りをささげます』
 若鷹は立ち上がり、強引に小鳥を抱きすくめた。小鳥はなす術もなく、あっという言葉とともに若鷹の虜となった。
『聖者の心は動きません。祈りを受け入れようとも』
 ジュリエットは隠している心が見えてしまわぬように、ゆっくりと目を閉じた。
『では、動かないで。祈りを受け入れるあいだ。あなたの唇でこの唇の罪が――』
 台詞を続けようとしていた若鷹だが、そこで我慢の限界を迎えて、突然、小鳥から身体を離して笑い出した。
「もうっ! せっかくいい調子でしたのに。途中で笑い出すなんてもったいないですわ。もう少し続けてくださればよろしいのに。駄目なロミオ様ね」
 ジュリエットは頬を膨らませてむくれたが、目は笑っていた。
「ああ、すまない。練習熱心なジュリエット。君があまりにも熱を入れて演技を続けるものだから、君が自分の胸に剣が突き立てるまで続けるのかと想像してしまってね」
 笑いをこらえながらロミオは楽しそうに言い訳した。
「そんなわけありませんわ。ティボルトもマキューシオもいらしていないのに、最後まで通すことなどできませんわ」
 ジュリエットは劇中で殺される重要人物を挙げて肩をすくめた。
「君の想像力なら二人ともこの場にいなくても簡単に殺せるよ」
「あら? それでは、あなたの想像力では、ティボルトは殺せなくて? パリス伯爵すらも?」
 ジュリエットはロミオをじゃれるようにからかった。
「いいや。君が殺せというのなら、僕自身ですら殺してみせるよ」
 少し芝居がかった台詞を何の臆面もなく口にするロミオに、ジュリエットは自分の顔が赤くなるのを感じて、回れ右してロミオから顔を隠した。
「そんなこと仰っていらっしゃるから、私一人置いて先立ってしまわれるのですわ。男の方って勝手ですわね。いつも一人で先にいってしまわれるのですから」
 拗ねて機嫌を損ねたふうを装ってみせたが、ロミオにはその偽装は通じなかった。
「耳まで真っ赤で可愛いよ、ジュリエット」
 ロミオはジュリエットを後ろから優しく抱きしめた。
 ジュリエットの顔は臨界を迎えるほど赤くなり、ロミオの腕を振り払って距離を取った。そうしないと本当にマリオネットが壊れてしまって顔から火が出そうであった。
「運命だけでなく、君も僕を翻弄するのか。ジュリエット、僕は君をこんなに愛しているのに」
 悲痛な運命に打ちひしがれ、絶望するようにロミオは床に膝をついた。
「もうっ! ロミオ様ったらいい加減にしてください」
 ロミオの演技と分かっていてもジュリエットの鼓動は高鳴りをやめない。ジュリエットがいくら無理やり怒った顔をして、それを誤魔化そうとしてもロミオがそれを余裕の笑顔であっさりと受け流す。傍から見るとまさに――
「ラブラブだね。まったく、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだよ」
 不意にロミオとジュリエット以外の声が稽古場に響いた。ジュリエットたちが声のした方を見ると台本片手に細身の中年男性が苦笑を浮かべながら稽古場の隅で壁に背中を預けて立っていた。
「細川さんっ。いつからそこに?」
 二人は顔を真っ赤にしてあたふたした。
「巡礼のキスあたりからだが、気づいていなかったのか?」
 細川は少し驚いて苦笑を濃くした。芝居に集中していたからか、二人の世界に没頭していたからか。そう思ったが、どっちにしてもあまり変わりないと細川は思い直した。
「まあ、いいものを見せてもらったというべきかな? 残念ながらキスシーンの直前で幕になかったがな」
 からかうように細川は口にしたが、本音も少しばかり含んでいた。それほど、二人の演技は人の目を惹きつけるものであった。
「細川さんまで……」
 だが、ジュリエットは恥ずかしさのあまり消えてしまいたいと小さくなった。
 細川はその様子をひとしきり笑い終えると表情を引き締めた。
「さあ、他の連中もそろそろ来るだろうが、先に稽古を始めるか。開演まで時間がないんだ。ビシビシいくぞ」
 細川の顔が演出家のそれに切り替わるのを見て、ロミオとジュリエットも役者の顔になり、本格的な稽古が始まった。

『約束は違わぬ! 結婚式は木曜日だ。よいな!』
 すがりつくジュリエットをキャピュレットは突き飛ばし、振り返りもせずに舞台袖に退場しようとしていた。が、退場する前に派手に何かを叩いた激しい音がして、そこで演技は中断された。
 演技を止めた原因である音のした方を見ると細川が怒りに目を血走らせていた。細川のいるすぐ隣のテーブルの上は激しい地震があったような惨状となっていた。局所地震の震源地が細川の手にある丸めた台本であることは誰の目にも明らかである。
「キャピュレット! お前は何者だ?」
 細川はずかずかとキャピュレットに向かって一直線に詰め寄っていった。
「お前はこの街、ヴェローナのなんだ?」
 キャピュレットまであと一歩のところで立ち止まり、丸めた台本でその胸を突いた。
「大公に次ぐ実力者。街を二分する有力者の一人。違うか?」
 台本で押され、少しよろめいたキャピュレットは、細川の迫力にも押され黙ってうなずくしかできなかった。
「じゃあ、考えろ! お前はキャピュレット。ヴェローナの支配階級。ヴェローナの政治だ。お前の行動はすべてがヴェローナの政治だ。お前が寝て、飯を食って、糞をするのも、全部が政治だ。よく考えろ! パリスとジュリエットの結婚の意味を。ティボルトの殺された翌日に決めた意味を。わかるまでどこかに行ってろ」
 細川は怒鳴るだけ怒鳴ると、解散といわんばかりに手を大きく横に振り抜いた。
 これは休憩というよりも自習である。怒鳴られたのはキャピュレットだが、それは一番目立つ失敗をしたからに過ぎない。休憩明けに無様な演技をすれば、どんな仕打ちが待っているか想像するのもはばかれる。
 役者たちはそれぞれに自分の役を深く考え、それを演技につなげる。その猶予期間を無駄にしないように各々の練習に励んでいた。
 いつの間にか倒れたジュリエットの側にやってきていたロミオは彼女をやさしく抱き起こした。ジュリエットは衣装の埃を軽くはたいて落とし怪訝な顔をした。
「ロミオ様はご自身のお稽古は大丈夫ですの?」
 ロミオもジュリエットの世話を焼いている暇はないはずである。ジュリエット自身も焼かれている暇はない。
「突き飛ばされて打ちひしがれるジュリエットを見ているのは痛快だよ。自分の稽古を忘れるほどにね」
「ロミオさまっ。私は怒られているロミオ様は見たくありませんわ」
 ジュリエットは不機嫌な目でロミオをにらみつけた。
「おお、そんな怖い顔をしないでおくれ、僕のジュリエット。『君の瞳は十の刃より恐ろしい』」
 ロミオは劇中の台詞を織り交ぜておどけた。
「ほほう、ロミオ様。ずいぶんと余裕だな。それで下手な演技でもしたときは覚悟ができているんだろうな」
 細川がいつの間にかロミオの背後に回って、蛇が蛙でも狙うようなじっとりとした声で彼を絡めとった。
「細川さん。わかってますよ。ちゃんと稽古はしますよ。つきましては、ジュリエットを少しお借りしようと参じたまでです」
 さすがにロミオも演出家の細川に正面切って大見得を切ることはしない。少し困惑気味に笑みを浮かべて、用件を伝えた。ちなみに、ジュリエットを練習に誘うのに演出家の許可など必要はない。ジュリエットの承諾があれば、自由に連れて行ってよいのである。
「それなら、とっとと連れて行け。開演のベルは待たないぞ」
 細川は不機嫌そうな顔で二人を追い払うように手を振った。
「それでは、お気に入りのジュリエット嬢をお借りいたします。失礼」
 ロミオは惚れ惚れするほど優雅で気品が漂い、どことなくユーモラスさも含んでいるお辞儀をした。
 “ロミオ”の機体も“ジュリエット”に負けず劣らず一級品で相当に癖のある機体なのだが、こうも完璧に操られると、細川は実は普通の機体なのではないかと疑いたくなった。
 細川は、ロミオがジュリエットの手を引いて稽古場の一角に向かう後姿を見て乱暴に頭をかいた。
「まったく。本当はマキューシオの方が向いているんじゃないか? 正直、あの機体じゃなければ、マキューシオをやらせたいな」
 ロミオの友人役で機知とユーモアに富んだマキューシオは殺されずに最後まで舞台にいれば、主役のロミオを食ってしまうだろうと評されたほど存在感があった。それだけに『ロミオとジュリエット』では難しい役としても知られていた。
「確かにあのセンスはそっちに向いているかもしれないな」
 細川は独り言に返事が返ってきて驚いて振り返った。そして、独り言に応じた人物を確認して思わず苦笑を浮かべた。
 細川の後ろにいたのは舞台監督の石山であった。
 石山は山のような巨体であるのに、ネコのように音もなく歩く。どんな古く痛んだ舞台でも石山は床がきしむ音も立てずに歩くと噂されているが、それは本当かもしれないと、細川はこういうことがある度に確信を深めていた。
「明日からの舞台稽古は問題ない。道具は仕上がっているから、あとは調整するだけだ。耐久性重視でできるだけ補強しておいたが、実際、使ってみての話だからな。しかし、お前にかかると『ロミオとジュリエット』もアクション活劇だな」
 石山は明日から行われる舞台稽古に使われる大道具小道具の進捗状況を報告に来たのであった。
「実際、アクションだよ。ロミオとジュリエットは。出会った瞬間に恋に落ちて数日で愛に死ぬ。若さゆえと言葉で言うのは簡単だ。若さはエネルギーだ。せっかくのマリオネットだ。生身ではできないほどパワフルなエネルギーを見せないでどうする」
 細川は昨年、公演された彼のライバル演出家である和田智明の『ロミオとジュリエット』を思い出して歯噛みした。
 和田智明の『ロミオとジュリエット』は斬新であった。台詞の部分に音楽をかぶせていくのである。台詞回しがシェイクスピアの売りであるのに音楽をかぶせては台無しになるはずであった。しかし、その音楽が感情を盛り立てて、音楽が流れていることを忘れるほど舞台から訴えかけるものを感じさせた。理屈ではなく惹き込まれた。
『日本語に訳したところでシェイクスピアの言葉は死んでいる』
 和田智明がインタビューで口にした台詞が細川の頭をめぐる。それは細川も同感だった。だが、生き返らせるのは音楽だけじゃない。和田智明とは違う、細川忠則の『ロミオとジュリエット』があることを見せたかった。
「死んだシェイクスピアを日本人としてよみがえらせてやる。だから、力だ。エネルギーが要る。箱をぶっ壊すぐらいにだ」
 細川は自分の方針を再確認するかのように拳を握った。
「これだから、お前さんとの舞台はやめられない」
 石山は細川のぎらついた言葉ににやりと笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「だが、気がかりがある」
 石山の言葉に細川は握り締めていた拳の力を緩めて、いつもの冷静な彼の表情に戻った。
「“ジュリエット”のアキレス腱か?」
 細川の言葉に石山はうなずいた。
「丸山の報告では今のところ、問題ないようだが、確実に負荷が溜まっていっているとのことだ。貸し出し元の技術者は公演が終わるまで持つだろうという見通しだが、楽観はできないというのが丸山の意見だ」
「わかった。――足首を細いのに戻したことがここで裏目に出るとはな」
 芸術品と言っていいほどの造形美にあふれる“ジュリエット”だが、マリオネットのレンタル企業に保管されていた時は、足首だけ違う機体のものに付け替えられていた。その不恰好で不自然に太くされた足首はそれだけで他の全ての造形美を台無しにしていた。
 しかし、細川がレンタル企業の社員がポツリと漏らした、本来ついていた足首は細く、魅力的なものであったという言葉を聞き、本当の足首を探させて元に戻させたのであった。
 換装の終わった機体を見て、細川は「完璧だ。ジュリエットの十四歳たらずという若さが表現された」と“ジュリエット”に惚れ込んだのであった。
 しかし、実際、付け替えてみるとバランスコントロールが難しくなり、並みの操者では演技どころか、まともに動くことすら危うかった。操縦には定評のある関根がオーディションで合格したのは、そういう事情もあった。
「まだ裏目と決まったわけじゃない。コインは回っている最中だ。あとは公演が終わるまで回り続けておいてくれるのを祈るだけだ」
「神頼みか……。好きじゃないな」
 細川は眉をひそめた。運や偶然などを嫌う細川に石山は苦笑を浮かべた。
「それなら、人事を尽くしておけばいいだけだよ。幸い、“ジュリエット”の操者は掘り出し物の一流だ。うまくやってくれる」
 もっとも、関根の技量が予想以上であったため、機体のポテンシャルを発揮して動き、その負荷が足首に溜まっていたのであるが。
 細川は稽古場の一角でロミオとなにやら盛り上がっているジュリエットをちらりと見やった。
「操縦だけの役者かと思ったが、それ以上だからな」
 操縦できれば多少、大根でも俺が料理すると考えていた細川にとって関根は大きな嬉しい誤算だった。
 オーディションでジュリエットの、あの繊細で大胆な演技を見たとき、細川は関根に対する評価を大幅に書き直した。正直、細川はこの舞台を成功させる自信はあったが、自分の満足いく演出ができるほど役者がついてこれるかについては不安があった。
「ロミオといい、ジュリエットといい、俺はついている」
「ああ。その点に関しては同感だ」
 細川は自分の頭の中で描く『ロミオとジュリエット』がその通り、ともすればそれ以上で形にされていくのに興奮した。演出家として、こんなに悔しく刺激的な舞台は久しぶりだった。それだけに役者などに負けられないと熱が入る。それは自然と他の出演者やスタッフにも伝染していった。
 まさに、これこそが細川の求めていたエネルギーであり、『ロミオとジュリエット』であった。
 だから、ジュリエットやロミオに感謝こそすれ、恨むなどとんでもなかった。それは石山の同じ気持ちであった。
「今のところ、操者から自覚症状の報告がないからまだ大丈夫だろう」
 石山は脱線した話を“ジュリエット”のアキレス腱に戻した。石山も雑談にふけるほどスケジュールの余裕はない。
「わかった。症状が出たら、早めに処置してくれ。だが――」
「わかってる。舞台の手は抜かないだろ? こっちも抜かれちゃ困る。安心しろ、細川。そんなことしたら俺がお前さんを殴り殺す」
 石山は、丸太のような腕を見せて握りこぶしを作りながらにっこりと笑った。笑っているが、本当にそうなれば石山は細川を殴り殺すだろう。石山は細川に負けず劣らず、熱い男であることは細川自身がよく知っていた。
 そして、石山は稽古場を来たとき同様、足音も立てずに自分の持ち場へと戻っていった。細川は、その後姿を苦笑しつつ見送った。
「これはますます手を抜けないな」
 細川は自分ものんびりしている暇はないと、自分の仕事に取り掛かった。

 ジュリエットはロミオが確保していた稽古場の一角に連れてこられた。そこで待っていたロレンス神父に気づいて、二人っきりでないことに少し不服な表情を浮かべた。ロレンス神父はそんなジュリエットの表情に気づき、温和な笑顔を浮かべた。
「ジュリエット、申し訳ないね。君たち二人だけにしてあげられなくて」
「いえ、そういうわけではありませんわ」
 ジュリエットは思わず自分が表情に出していたことを知り、少し決まり悪く首を振った。
「僕たちの恋には絶えず障害がつきものなんだよ。ジュリエット、我慢しておくれ」
「障害されてしまうのは不本意だな。私は君たちの協力者だというのに」
 ロレンス神父は心外だと肩をすくめた。劇中、ロレンス神父は二人のために色々とアドバイスしたり、協力したりしてくれる。もっとも、それがことごとく裏目になって悲劇が起こるのだが。
「そうでしたね。それじゃあ、善意ある障害ということで」
 ロミオはにこやかに切り返すと、神父も苦笑を浮かべるしかなかった。
「まったく。君には参るよ。で、相談というのは?」
「ええ。実は僕とジュリエットの結婚式のシーンです」
 冗談まじりの軽い表情だったロミオは、そこで引き締まった役者の顔になってロレンス神父に答えた。
「ふむ。華やかではないが、二人が最高に幸せなときだね」
 ロレンス神父がシーンを思い出しつつ、首をひねった。これといって変更するような所があまりないシーンである。
「はい。ジュリエットが教会にやってくる。僕を見つけて駆け寄る。二人は半日ぶりの再会を喜ぶ。神父は二人に挟まれ右往左往しながら、祭壇の前へと歩いていく」
 ロミオが確認するようにシーンを説明した。
「そのシーンで何か問題が?」
「喜び合う二人だけど、神父が邪魔で抱き合うことができない。それは運命と偶然の悪戯に翻弄されて、この世で結ばれない二人を暗示させる演出だと思うのです」
「だろうね」
 わかりやすい演出であるが、それだけに観客に伝わりやすい。
「でも、ただ単に巻き込まれているだけ神父というのは、どうも美しくないし、ロミオとジュリエットとしても納得もいかない」
「どうにも話が見えないのだが?」
 ロレンス神父はロミオの言いたいことがわからず、困った顔で同意を求めるようにジュリエットを見た。だが、ジュリエットは顔を明るくほころばせていた。
「私はわかりましたわ」
「さすがは、僕のジュリエット」
 ロミオはジュリエットの理解の早さに手を打って喜んだ。しかし、肝心のロレンス神父はその速さにまったくついて来れずにいた。
「どういうことか説明してくれないかい?」
 ロレンス神父は、役者として少し癪だが詳しい解説を二人に求めた。
「私たちはお互いに心通じ合う二人なんです。目を見れば、気持ちが通じている。二人は以心伝心でロレンス神父なんてないものとして、手を取り合うことも可能なはずですわね? でも、そこへ悪意のない偶然で神父の手や体が割り込んで邪魔をするのです。絶妙の偶然で」
「その通り。神父は二人が周囲も見えずに抱き合うことを多少はたしなめる気持ちはあっても、徹底的に邪魔するつもりはない。でも、何故か動きがはまってしまって、二人は手に触れることもできない」
「なるほど」
 ロレンス神父がやっと納得してうなずいた。うなずきはしたが、だから具体的にどうすればいいか想像もつかない。それを察したロミオが具体的な演技に話を進めた。
「ロレンス神父があまりキビキビ動かれてはイメージが違う。そこで、二人の間でもみくちゃにされている印象を残した感じで――」
 ロミオは何かにもみくちゃにされてふらつく男の踊りを踊って見せた。ちょっとしたパントマイムのようで、もみくちゃにしている人影が見えそうだった。
「悪いが、もう一度やってくれ。録画するから」
 ロレンス神父は視覚情報を録画モードに切り替えた。
 用意ができたロレンス神父の前で、ロミオは先ほどの踊りをして見せた。ロレンス神父はロミオの万能ぶりに羨望のため息が出そうになった。実際に出さなかったのは、役者としての意地だろう。
「しかし、君は何でもできるな」
「ロレンス神父ならもっとうまくやりますよ」
 ロミオが本気で嫌味を言っているわけではないことはロレンス神父もわかっているが、その言葉はロレンス神父の役者としてくすぶっていた意地に火をついた。
 ロレンス神父は、先ほど録画した映像を見ながらであったが、ほぼロミオのした通りに踊ってみせた。それにロミオは感心したように軽く驚きの声を上げた。
「いい感じですね。さすがはロレンス神父だ。じゃあ、ちょっとあわせてみましょう」
 ロミオはすでに立ち位置の確認をしようとしていた。たが、ロレンス神父はまだ肝心なことが終わっていないと慌てた。
「ちょっと待ちなさい。ジュリエットの動きはどうするのだね? 何も打ち合わせをしていないだろう?」
 この動きに合わせてジュリエットが動かなければダンスにはならない。ロミオは自分で考えたからよいが、何も知らないジュリエットが踊れるわけがない。
「大丈夫ですわ。わかりますもの」
 ジュリエットはさらりと答えると、ロミオと同じように立ち位置の間合いを計っていた。
「ダンスを始めるタイミングはジュリエットが今の位置ぐらいまで近づいて、ジュリエットが左手を前に伸ばした時です。ロレンス神父はそのあたりで入ってください。とりあえず細かいタイミングはこちらで合わせます」
 ロミオの言葉にロレンス神父がうなずいた。
「じゃあ、ジュリエットが教会に入ってきたところからいってみよう。――ジュリエット」
 ジュリエットがうなずき、二人から離れると教会の扉を勢いよく開けるしぐさをした。ロレンス神父は本当にジュリエットが踊れるのか半信半疑で、打ち合わせどおり二人に程よく挟まれたタイミングでダンスを始めた。
 驚いたことにロミオは当然として、ジュリエットもきれいにその動きに合わせて踊っている。しかも、手の取り合えないもどかしさに表情を曇らせ、あと少しで手を取り合えそうになると晴れやかな表情を浮かべ、それがかなわないとひどく悲しそうに表情を変える。もちろん、ロミオもジュリエットと同じで表情の演技を忘れない。
「まったく、この二人には役者魂に火をつけさせてくれる」
 ロレンス神父は内心で舌を巻きながらも、もみくちゃにされて困っている神父の表情を演じるように心がけた。
 ダンスを終えて、ロレンス神父は予想以上にこのダンスが大変なことを思い知らされた。だが、よりよい舞台を目指すベテランの役者として「できない」とは言えない。
「初めてにしてはいい感じだ。ジュリエットはもっとステップを大胆にしてもいいと思うな。ためらっているように見えるよ」
「ロミオ様こそ。体の開きが早すぎるので避けているように見えますわ。手が届きそうになるまでもう少し粘ってくださらない?」
 ロミオとジュリエットはお互いに改善すべき点を上げていった。
「ロレンス神父には、もっと戸惑う感じが欲しいですね。動きが明確すぎて、道化が目に付きますね」
「そうね。あと表情も硬いかしら。困惑しつつも結婚式ですもの。喜びの表情は混ぜていただかないと」
 ロレンス神父にももちろん、容赦なく注文をつけてきた。
「わかった。これは少し練習しておくよ。君たちに挟まれても遜色ないようにね」
 ロレンス神父はロミオとジュリエットに完敗とばかり素直に感心した。
「期待してますよ」
「それにしても、君たち二人は運命の恋人かのようだな。まったく、本当の恋人かと疑いたくなる」
 ロレンス神父の何気ない言葉に二人は一瞬硬直して、顔を赤く染めた。かりそめの身体とはいえ、その反応は操者のものである。
「すまない。変なことを言ってしまったようだね。それでは、私は他のシーンをもう少し詰めたいので失礼するよ」
 ロレンス神父は、少し心配するような表情を浮かべたが、すぐに首を振って自分の懸念を否定した。そして、ジュリエットたちと別れ、空いたスペースを探した。
「はい。それでは、また後で」
 ジュリエットたちに見送られ、少し離れてからロレンス神父はちらりと二人を振り返った。ロミオとジュリエットが、仲睦まじく稽古する姿が目に映った。
「二人を見ていると、本当に愛し合っているかのようにも見えてしまうな。それが演技であればいいんだが……。操者同士の恋なんて、ロミオとジュリエット以上に困難な恋だからな」
 ロレンス神父は息の合いすぎたロミオとジュリエットに暗い影を感じて、ほんの少し表情を曇らせた。
 人間、見た目ではないと言いつつも、見た目は大事なのである。マリオネットの姿を見慣れた二人には生身の再会は百年の恋が冷めるほどの衝撃になることが多い。だから、顔も知らない操者同士の恋はご法度というのがこの業界の暗黙の了解であった。
「最悪、同性同士で打ちのめされたりもすることもあるんだよな。それで、そっちの道に走る奴もいるんだが」
 ロレンス神父は自分の思い出したくはない過去が頭によぎり苦い表情を浮かべた。そして、苦い思い出を振り払うかのように稽古に没頭した。

 高濃度酸素溶液が排出された。肺の中に残った液も加圧されていない条件下ではあっという間に気化して、肺から喉を通じて体外へと霧散していく。高濃度酸素溶液は少しわさびに似た匂いがするため、慣れていても目尻に涙がにじんだ。
 それは関根にとって、時としてありがたい特性だった。
 操者を収納するコクーン内の換気が終わると、扉が開いて眩しい光が差し込んできた。外気が入り込み、少し肌寒く感じた。機器の熱暴走を防ぐため冬でも冷房している上に裸であれば、それも仕方ないことだった。
 関根は扉が開いても丸山がセンサーの類を外すまで身動きせずにじっと待った。下手に動くとセンサーのコードが絡まって外すのに余計に時間がかかる。
 華やかな世界から引き戻された後にあるリンク解除作業はいつも関根を惨めにさせた。
「いっそのこと、ずっとマリオネットの中に入れたらいいのに」
 毎回、そんな愚にもつかないことを真剣に考えてしまう。そんな考えがますます自分を惨めにしてしまう。
「おつかれさま。もう動いて大丈夫だよ」
 センサーを外し終わった丸山が関根にバスタオルを渡した。関根は受け取ったバスタオルを腰に巻き、そそくさと調整室を出て隣のシャワー室に向かった。
 一畳ほどの大きさの脱衣所でバスタオルを外し、電話ボックスのような狭いシャワー室に滑り込んで、折りたたみのドアを閉めた。
 関根が蛇口をひねると熱いシャワーがノズルから噴き出し、狭いシャワー室はあっという間に湯気で満たされた。シャワーといえども、冷えた身体には温かいお湯はありがたく、寒さで蒼白に近かった肌が赤みを帯びて生気を取り戻した。
 関根は身体に残っていたセンサーを取り付けるためのジェルの残骸を丁寧に洗い流した。
 身体を洗っていると、自然と関根自身の身体が目に入った。不摂生で醜くだぶついた腹。脛毛に覆われた短い足。十分前の身体とは大違いであった。
 関根は見慣れたはずの身体であるが、湧き上がった嫌悪感に自分の身体から目を背けた。
 ジュリエットが素晴らしい造形美を誇っているだけに落差は大きかった。シャワー室の壁にはめ込まれた鏡の湯気を太く短い指ばかりの手で拭った。
 湯気を拭われた鏡は少しぼやけつつもはっきりと関根の顔を映した。
 白いものがちらほら混じる髪はシャワーでボリュームを失い、頭皮と額にへばりついていた。太い眉毛は男らしいと言われるが、野暮ったさが滲んでいる。一重で垂れ気味な目は、優しげと言われることもあるが気弱である。大きな鼻は男性シンボルが大きい証拠というが、それが俗説である証明をしているに過ぎない。隆起した頬骨、張ったエラ、大きく厚い唇。どれも男前とは無縁な造形をしていた。
 気持ち悪いとは言われないが、ただそれだけのこと。女性にもてたことなど一度もない。
「慣れたと思っていたんだがな」
 美形ぞろいのマリオネットと自分の顔とのギャップは意外にも操者に精神的苦痛を与える。その苦痛を克服できなければ、操者としてやっていけない。関根も克服しているつもりであった。
 関根は小学校の時にすでに自分の容姿が人並みよりも下であるという認識は十分させられていた。本人も男前に生まれなかったことを恨んだこともあったが、中学に行く頃にはそれも達観していた。
 そんな関根が役者を目指そうと思ったのは、高校生の時に見た演劇がきっかけだった。
 その舞台はぶさいくな役者が主役で、迫真の演技で観客を沸かせていた。最後の方ではそのぶさいくな役者がかっこよく見えた。関根だけではなく、他の観客、それも女性たちも同じ感想だったらしく、カーテンコールの時には黄色い声で役者の名前を叫んでいた。
「ぶさいくでも女の子にもてるかもしれない」
 関根は不純な動機ながらも演劇の世界に踏み込んだ。そして、その動機はどうでもよくなるほど演劇にのめり込んでいった。
 演技をしている時は、自分がどんな不細工でも超がつくほど美形になれる。もちろん、容姿は変わらない。気持ちの上だけであるが、それでも得もいえぬ快感であった。その快感は関根を虜にした。
 関根の役になりきるような演技は劇団でも評価され、公演でも役が回ってくることも多くなった。他の劇団から客演を依頼されることもあった。
 順調に役をもらうようになり、最初は関根も顔の良し悪しは役者に関係ないと豪語していた。しかし、いくら演技力を磨こうが大きな舞台では脇役どまり。顔のいい後輩の役者が先にテレビドラマなどでよい役をもらっていたこともあった。
 よほどの事がない限り関根のような顔の悪い役者に主役が回ってくることはなかった。
「結局、人間、顔なんだよな」
 厳しい現実を再認識していた頃、劇団の同期に人形劇への転向を誘われた。
 そして、演技力とマリオネットの操作が全ての人形劇は関根に合っていた。
 めきめきと実力をつけ、マリオネット操者として業界ではそこそこ名が知られるようになっていった。特に扱いづらい癖の強いマリオネットでも自在に操る能力は高く評価されていた。
 おかげで、生身の役者をしていた頃のようにバイト三昧という生活から、操者のギャラで生活できるようにはなった。
 だが、容姿への劣等感を内に抱えていた関根には、自分とマリオネットの容姿のギャップは想像以上の苦痛であった。克服には少し時間がかかったが、最も簡単で確実な方法――慣れで吹っ切った。ここ数年は苦痛に悩まされることはなかった。
 だが、ジュリエットと出会い、それが錯覚であったことを思い知らされた。
「一級品のマリオネットは格が違う」
 できのいいマリオネットはレンタルするにも高価であるため、低予算の舞台では使われることはない。日本を代表する演出家の舞台であるから“ジュリエット”のような超がつく一級品のマリオネットが使えるのであった。
 関根は大きくため息をついて、強制的に気分を立ち直らせた。これは“ジュリエット”のマリオネットを操り始めて、毎日の日課のようなものであった。
 関根はシャワーを上がり、脱衣所に置いている私服に着替えて調整室に戻った。調整室では丸山が“ジュリエット”の整備を始めていた。
 関根はその“ジュリエット”を、自分が幽体離脱して自分を見ている錯覚がよぎりかけて、激しく頭を振って妄想を追い出して、別のことを考えるようにした。
「どうかな?」
 関根は主語を省いて丸山の背中に聞いた。
「あまりよくないね。右足首の人工腱が少し炎症を起こしているようだね。交換するとなると、どんなに急いでも明日の昼までかかるけど、どうする?」
 丸山は整備を一時中断して関根に向き直った。丸山は事前に右足首の炎症は見つけていたので、重点的に検査していた。
「公演が終わるまで、もちそうかな?」
「『ロミオとジュリエット』がアクション劇でないんなら大丈夫だと言い切れるけど」
 動きの激しい細川演出の『ロミオとジュリエット』では確約できないと言外に言っていた。
「交換して調整。馴染むのを入れれば、明日と明後日がつぶれるな――明日からは舞台で通し稽古があるしな……自覚症状もないし、交換なしでいきたい。薬で抑えられないか?」
 交換すれば感覚が変わるのでそれを把握するだけでも時間を費やしてしまう。稽古も山場で、自分自身も乗っているこの時に一時離脱はどうしても避けたかった。
「わかった。でも、判断するのは石山さんだからな。一応、君の意見は伝えておくけど、交換になっても恨まないでくれよ」
「わかっているって。舞台監督に逆らうつもりはないよ」
 マリオネットの管理は舞台監督が責任者である。石山の決定には演出の細川でも逆らうことはできない。
「でも多分、石山さんのことだから、君がそう言うのなら交換はないと思うけどね」
 マリオネットに関しては技師と操者の意見が尊重される場合が多い。特に石山はその傾向が強い。「餅は餅屋」という考えであった。
「練習でなるべく負荷をかけないようにすれば大丈夫だと思う。約束できるかい?」
 任せてもらっているとはいえ、石山に交換をせずに続けると言うにはそれなりの対策は必要である。丸山は技術者としてできることはするつもりだが、最大の不安要素は操者にあった。
「約束は無理だけど、努力はするよ」
 練習のしすぎを指摘され、関根は複雑な笑みを浮かべた。丸山の方もその顔の意味するところを知って諦めに近い表情でため息をついた。
「まあ、もし本番でいかれたら、ロミオ様に助けてもらえよ」
「な、なんでロミオ様がそこで出てくるんだよ」
 関根は顔を赤くして思わず大声をあげた。
「なんだよ突然? いかれる可能性が高いのはダンスのシーンだから一番近くにいるのはロミオだろう?」
 丸山はハトが豆鉄砲を食らったように目を丸くして怪訝な表情を浮かべた。
「あ、そういう意味か……」
 関根はばつ悪そうに顔を赤らめると頭をかいてごまかした。
「どういう意味と思ったんだよ。マリオネット操者同士で通信もできるんだ。やばかったらフォローを頼めば何とかしてくれるんじゃないか? ロミオの操者も一流なんだろ。それに、仲がいいって評判なんだし」
 ロミオとジュリエットの仲の良さは技術者の丸山にまで知られるほどこの舞台の関係者には有名であった。
「それはそうだけど、何しろ、“ロミオ”の操者は僕の知らない人で初顔だからな」
 関根は困った表情を浮かべた。実を言うと“ロミオ”の操者が誰かわからないというのは、以前から気にかかっていたことであった。
「本当か、それ?」
 丸山は正真正銘に意外そうな顔をしたが、関根ははっきりと首を縦に振って肯定した。
「まあ、初顔であそこまで息が合うというのも信じられないかもしれないけど、本当だよ。この世界、広いようで狭いからね。名前が公表されてなくても、ある程度は演技の癖とか、休憩時間の雑談で誰だかわかるんだよ」
「そうらしいな」
 マリオネット操者の名前を公表しない禁忌があるとはいえ、蛇の道は蛇――同業者なら言わずともわかるし、噂も流れていた。昨今ではネットなどで出演リストが流れることもあり非公開は有名無実になりつつあった。
「“ロミオ”のマリオネットもジュリエットに負けず劣らず癖のある機体っていう話だろ? それであの演技力。心当たりのある人間なんて限られているんだけど……」
 関根はそこで言葉を止めて肩をすくめた。
「該当者なしってわけか」
 丸山の言葉に関根は苦笑で答えた。
「それだと不安だよな」
 丸山が心配そうに顔を曇らせた。直接舞台に上がらない関係者だろうと、舞台を成功させたいという願いは操者に負けるものではない。
「そう不安でもないよ。誰かわからなくても、“ロミオ”の操者は一流だっていうのは間違いないからね。それだけで十分だよ」
 関根は丸山を安心させるように笑うと、丸山は苦笑を浮かべた。
「操者を不安にさせては技師失格だね」
「そんなことないよ。“ロミオ”が誰かわかったら、丸山さんにもこっそり教えてあげるよ」
「いや、いいよ。タブーだろ?」
 今朝のことを思い出して、もうこりごりだと丸山は笑いながらわざとらしく口の前に指でバツを作った。
「“ジュリエット”はそう言うだろうけど、僕は気にしないから」
 関根は笑って答えて調整室を後にした。

 関根が劇場の練習所を出ると空には星が瞬いていた。時計を見ると十時を少し回っていた。月はすでに西の空に沈んで、暗い夜であったが等間隔に並んだ街灯が灯っているので夜道に不安はない。
 劇場がある公園は夜となれば恋人たちが愛をささやく格好の場所となる。普段は人通りが少なく静かで雰囲気のあるところだが、今は舞台の関係者が大勢出入りしているために妙な賑わいがあった。
「お久しぶりです、関根さん」
 関根は不意に声をかけられ振り返ると、少しちゃらけた青年がニコニコして立っていた。
「久しぶりって、青木。先週も会ったじゃないか」
 ため息混じりに答える関根に「そうでしたっけ?」ととぼけながら青木は関根の腕を引っ張った。連れていかれそうになっている場所を見ると、関根の想像通りの人物たちが集まっていた。
「やれやれ」
 予想通りとはいえ、関根はそう言わずにいられなかった。
「関根さん、確保しました」
 集合場所に到着すると青木が集まっているメンバーの中で一番大柄の女性に報告した。
「よくやったわね、青木。では、久々の再会を祝して飲みに行きましょうか、関根君」
「久々って、一昨日飲みに行きましたよね? 早乙女さん」
 関根は無駄とわかっていても一応抵抗した。明日から舞台での稽古が始まる。気力充実するためにも今日はゆっくり休んでおきたいのは本音であった。
「細かいことを気にすると禿げるわよ。それとも、あたいと飲むのは嫌かい?」
 早乙女は関根の肩に手を置いて迫力のある笑顔を向けた。子供ならば絶対にお漏らししているだろう。関根は降参とばかりため息をついた。
「嫌じゃないですよ。本気で嫌なら、青木を蹴り倒して逃げてます」
「そうしても、追いかけて捕まえるけどね」
 早乙女は豪快に笑うと関根の背中を力いっぱい叩いた。叩かれながら、「どこの肉食獣だ」などと思ったが、それを口にするほど馬鹿ではなかった。
「なんか、早乙女さんがそういうと、サバンナの肉食獣みたいっすよね」
 ……馬鹿がいた。関根を拉致した青木という青年は、「愛の抱擁」と名付けられた相撲技、鯖折りで教育されることとなった。しかし、これまでも散々、教育されても青木の馬鹿は治る気配はないのだが。
 こんな馬鹿騒ぎがアルコールが入る前からできる面々に関根は苦笑をしながらも心地よいものを感じた。
「もしも、ジュリエットであり続けたら、こういうことはできないだろうな」
 関根は三十分ほど前に詮無きことを考えていた自分を軽く笑った。関根義孝であることも悪いことばかりではないと当たり前の事に気がつき、心が少し軽くなった。
 そんな事を考えていると、祝宴の会場を探しに移動を始めた一行に少し遅れた。
「関根。早く来ないと、あたしと腕組んでラブラブで歩いてもらうことになるわよ」
「それは謹んで遠慮させていただきます」
 関根は早乙女の申し出に慌てて集団に追いついて一行の笑いを誘った。
 五分ほど歩くとだんだんと看板が明るく灯る店が増えてきた。居酒屋の呼び込み店員が声を張り上げている。ほろ酔い加減のサラリーマンたちとすれ違い、暇をもてあましてたむろしている学生たちを横目に一行は全国チェーンの値段が安く味はそこそこで量の多い居酒屋の暖簾をくぐった。
 威勢の良いアルバイト店員の声とそれ以上に騒々しい酔っ払いたちの声が店内のBGMに混ざって一種独特の雰囲気を作っていた。厨房から漏れる料理の匂いと各テーブルから漂うアルコールの匂いが混じり合って胃袋を刺激した。
 勝手知ったるチェーン店。関根たちは席に着くのもそこそこにメニューを見ずに注文を店員に伝えた。
 付け出しとともに持ってこられた、ビールに焼酎、酎ハイなどが全員に行き渡るのを見ると、早乙女がやおら立ち上がり乾杯の音頭をとる。
「貧乏暇なし、猫灰だらけ。もっと楽な生き方があるのに、わざわざ七転八倒、艱難辛苦の役者の道を選んだ馬鹿者たちの明日の不幸を祈って、乾杯!」
 最初の乾杯から酒宴はいきなりクライマックスに突入した。アルコールもそれほど入っていないのにもう何杯も飲んでいるようであった。さすがは役者たちというべきだろうか。
 注文していた枝豆や出汁巻き卵、から揚げなどがテーブルに並べられるころには飲み物は二杯目、三杯目となり、酔った演技が本物に切り替わりつつあった。
 関根はから揚げを口に放り込んで、ビールジョッキを傾けた。実際に身体を動かしているわけではないが、マリオネットを操縦し終えて、リンクを切ると空腹感が強烈に襲ってくる。学者の説明では、マリオネットの操縦で脳が活性化され、脳の栄養素である糖分をかなり消費するらしい。それを利用してマリオネットダイエットというのもあるそうだが、関根は自分を含めて目の前で馬鹿騒ぎしている操者仲間を見て、そのダイエットが有効かどうか大いに疑問を抱いていた。
 関根はどうでもいいことを考えながら、馬鹿騒ぎを肴に飲んでいると、早乙女が関根の隣に腰を下ろした。
「今日はいつもよりマシな顔していたわね。いいことあった?」
 早乙女は関根の先輩で、マリオネットの操縦で最初に手ほどきしてもらった、師匠といえる存在だった。
「そうですか? いつもと変わりませんけど」
 関根はとぼけてビールを口に含んだ。もし、そうだとすると、さきほど仲間を見て「関根義孝も悪くない」と思ったことだろうが、そんな事を口にするのは操者として恥ずかしい。
「まったく。あんたは妙に心閉ざす。もっと、オープンになれば楽なのに」
 早乙女はやれやれとため息をつきながら、ジョッキに入った焼酎を一気に煽った。一応、水割りだが、水など気休め程度にしか入っていないということを知っている関根は心の中で改めて「女傑」と早乙女の評価をした。
 早乙女は女性とはいえ、人形劇黎明期からのマリオネット専門の役者であり、演技、操縦共に定評があった。大きな舞台となると、なにかと出演しているベテラン操者である。今は所属する劇団が異なるが、才能ある関根を可愛がっており、なにかと気をかけてくれていた。
「それよりも、早乙女さん。今回はありがとうございます」
 関根はまじめな顔で軽く頭を下げた。
「そんなに飲みたかったの? それは誘った甲斐があるわね」
 焼酎のお替りを注文していた早乙女が怪訝な顔をしながらもニコニコと笑った。
「違いますよ。細川さんに推薦してくれたことですよ」
 今回の舞台、演出家の細川に関根を推薦したのは早乙女であった。細川クラスになるとオーディションを受けれる機会すら滅多にない。関根もこの舞台で認められれば、細川の次の舞台に声をかけてもらえるようになるかもしれない。今のところ、かなり好感触だけに機会をくれた早乙女に感謝しても感謝しつくせないでいた。
「なにより、ロミオ様に会わせてもらえたし」
 さすがにこれは口にはしなかった。しかし、関根はお互いに刺激し合える操者と一緒に舞台をしたいと常々思っていた。早乙女は確かに上手いが、色々な役を卒なくこなすタイプであり、関根の求めるタイプとは違っていた。
 今回、刺激を受けるような一流の操者と共演できて、それがかなえられただけでも、十分に嬉しかった。むしろ、細川の舞台に立てたことよりも嬉しいことだったかもしれない。
 だから、関根は早乙女に感謝しても感謝しきれない。
「なーんだ、そんなことか」
 だが、早乙女の方はつまらないとばかりにイカリングを口に運んだ。
「チャンスを物にしたのはあんたの実力じゃない」
 早乙女は豪快に関根の頭をこねくり回すように頭をなでた。
「で、でも、本当に感謝してるから」
 関根が頭を前後左右に振られながらも更にお礼を言うと早乙女はアルコール以外で顔を赤くして顔を背けた。
「何度もお礼を言われると恥ずかしいわよ」
 怒ったような口調だが、本心からでないのは容易にわかった。早乙女が意外と乙女な反応を示したことに、関根は自然と顔がほころんだ。
「こらっ! 今、笑っただろう、このバカ」
 早乙女は拳骨で関根のこめかみを圧迫してきた。こういう技をかけるのは、電光石火の早乙女と異名をとるほど早くて正確だった。
「い、いたいっ! 早乙女さん、マジで痛いって!」
 激痛に涙目になって関根が悶えた。それで早乙女も我に帰ったか、満足したか、関根を解放した。
「仲いいっすよね、関根さんと早乙女さん。二人はロミオとジュリエットっすか?」
 傍から見るとじゃれあっているように見えたのか、青木がからかうように関根たちのところにやってきた。かなりでき上がっているのか、顔は真っ赤で、目も少し眠そうであった。
「バーカ。関根はジュリエットだけど、あたしは乳母だって。見てたらわかるだろうが」
 ちょうどいい玩具が来たとばかりに早乙女は青木の頭をはたいた。
「えっ? そうなんすか? 全然気がつきませんでしたよ」
「気づけよ。関根はまだしも、あたしとは同じ劇団だろうが」
 青木は早乙女に先ほどよりも強く頭を叩かれて、「痛いっすよ」を繰り返していた。
「そういえば、似てるなーって思ったけど……ていうか、言っていいんですか、そんなこと?」
 青木は頭を叩かれながらも、操者の名前は公表しない約束を無視している早乙女に非難めいた視線を向けた。青木は見た目は軽い印象を受けるが、意外にも規則や規律にうるさい男であった。
「もう、そんな時代も終わるわよ。秘密にするって言っても、ネットで公開されているじゃない。有名どころの操者が出るとなったら、客を呼びたい関係者がネットにリークだってしてる。操者の名前を秘密にして日陰者にするなんて、完全に失敗してるからね」
 早乙女は酔いを少し醒まして真面目な顔で応えた。
「そうかもしれないけど、決まりは決まりっすよ」
「ねえ、青木。もう、マリオネットは日陰から出て行く時期なのよ。CDがレコードを駆逐していったみたいにね」
「例えが古いですよ、早乙女さん」
 早乙女に同意しながらも関根が苦笑した。青木の世代ではレコードが主流の時代を知らないだろう。それどころか、最近はCDよりもネット配信が主流である。案の定、青木は知識として知っているが、実感はないという顔をしていた。
「うるさいわね。とにかく、海外じゃ、元から操者を公表しているじゃない。海外の操者が客演できた時は公表してるでしょ」
 ジェネレーションギャップを強引に洗い流すかのように机を叩いて、話を元に戻した。
「海外の人だけだけどね」
「今やブロードウェイは八割は人形劇で占められているのよ。あっちじゃ、操者はちょっとしたスターよ。ジェームス・テイラー、トニー・ローレン、エリザベス・カーチス、ソフィア・ホフマン……。ねえ、あんたも名前は聞いたことあるでしょう?」
 早乙女は焼酎のお替りを持ってきた店員を捕まえて話を振った。店員はびっくりしながらも「名前ぐらいは……」となんとか答えた。早乙女はその答えに満足して、店員を解放した。
 関根は苦笑して店員に「ごめんね」と謝りながら、自分のビールのお替りを頼んだ。
「だから、これからはマリオネットが芸能界の主流になるのよ! わかってる、青木」
「わかってますよー」
 店員が去って早乙女の標的は青木に戻り、さっさと逃げなかった青木はヘッドロックなどされて遊ばれていた。早乙女は酔っていないように見えたが、ただ単に顔に出ていないだけであったようだった。
 青木は関根にアイコンタクトで助けを求めたが、関根は「無理」ときっぱり目で語った。
「いーや、わかってない! 関根、あんたもよ」
 お説教モードに入った早乙女が「ちょっと、そこに座りなさい」という勢いで机をたたき出した。こうなると話は長くなることはいつものことだった。早乙女を好いている操者仲間もこの時ばかりは近寄ろうとしなかった。
「だいたい、日本で操者は地位が低すぎるのよ。ギャラも安いし、食べていくのは大変なのよ。舞台の収入で食べれない人がほとんどなんて、職業としておかしいのよ」
 マリオネットのレンタル代、技師の人件費、設備の使用料、高濃度酸素溶液などの消耗品、電気代。人形劇はお金がかかる。それだけに操者のギャラが安くなるのは自然な流れであった。人形劇は比較的、客の入りがよいと言っても、経費を差し引けば生身の演劇とあまり変わらないことが多かった。
 もっとも、代わりにマリオネットを操る技術があるため、その方面のバイトは多く、報酬もよかった。それに容姿や体力が関係ないということから操者の中には定年後の第二の人生として操者になっているものも多かった。
「社会的地位も! 関根だってもっと評価されてもいいはずなのよ」
「でも、それなら最初から外国に行けばいいじゃないっすか。日本で待遇が悪いのはわかってることなんすから」
 青木は至極まともな意見を口にしたが、早乙女には認められず、机を叩かれた。
「あんたの言うとおり考えて、海外に行く操者も多いわよ。でも、はっきり言って、向こうで成功しようなんてどんだけ奇跡か」
 早乙女はシンデレラなんてお伽噺と鼻息荒く吹き飛ばした。
「言葉の壁もあるし、だいたい市民権がなかったらマリオネットを使わせてくれないのよ。市民権なしで使おうとしたら色々と面倒な書類が毎回必要なの。新人にそこまでしてくれる劇団なんてある? 操者になるより先に市民権を取らないと話にならないのよ」
 少しの間だが、海外に修行に行った早乙女が実感込めてその頃の苦労話を語った。
「でも、向こうのレベルを生で感じられていい刺激だったんでしょ?」
 何度も聞かされている早乙女の苦労話を早めに切り上げさせるために関根が口を挟んだ。
「そう、素晴らしかったわ! ブロードウェイのもよかったけど、ラスベガスのカーネル劇団! あそこは端役に至るまで操者がすごいのよ。去年も見に行ったけど、中でもソフィア・志穂・カーネル! 男役専門の女性操者って、あたしの憧れなのよ。もう、うっとりするなんて通り越して神々しいの一言よ」
 早乙女は関根の策にあっさりと乗り、夢見る乙女のように両手を組んで至福の表情で居酒屋の天井を見上げた。
「カーネル劇団オーナーの三女らしいですね。まだ若いらしいけど、凄い操者ですよね」
 数は少ないが、海外の人形劇はDVDが出ているものもあり、関根も見たことあった。デビューして数年でトップまで上り詰めた脅威の新人であった。
「世の中、天才っているものよね。あんたたちも一度、見てきたらいいわ」
「ラスベガスまで行くお金がないっすよ。日本公演があっても、チケットが手に入らないっす」
 青木が貧乏操者には無理難題と苦笑した。数年前に来日公演があったが、プラチナチケットはネットオークションでとんでもない値段をつけていた。
「ラスベガスまで行く価値はあるわ。ああ、あたしも一度でいいからあの舞台に立ちたい」
 早乙女が叶わぬ望みと羨望のため息を吐いた。
「そういえば、カーネル劇団って、操者だけじゃなくてマリオネットも凄い一級品らしいっすね。今回のロミオとジュリエット級を何体もそろえているって雑誌に載ってたっす」
「それだけに操縦は難しいらしいけどね。それこそ、ロミオとジュリエット並みに」
 早乙女は青木の言葉で現実を思い出してほろ苦い笑みをこぼした。
 今回の舞台で、早乙女はロミオとジュリエットの機体も挑戦した。ベテランらしく、普通に演技はできるが、細川の要求に応える演技までは無理であった。そこで悔しいが自分よりも操縦の上手い関根を推薦したのであった。
「それにしても、関根がジュリエットを取ったのはちょっとびっくりしたわね。あんた、普段はあんまり女役しないのに」
 早乙女がふと思い出したように前から少し疑問に思っていたことを口にした。
「僕がオーディションする時にはロミオ役は決まってたらしいですよ。ジュリエット役だけしか受けさせてくれませんでしたし」
 関根は早乙女から話を聞いたとき、本当はロミオ役を狙っていたのだった。
「だけど、あのロミオに勝てる自信はありませんよ。そういう意味で、ジュリエットに集中できたのはラッキーでした。両方受けてたら、中途半端で落ちてましたよ」
 肩をすくめる関根に青木は首をひねった。
「でも、関根さんの操縦はトップクラスなんでしょ? 俺、劇ではジュリエットと絡みはないけど、一緒に稽古してたら凄さはわかるっすよ。その関根さんにも負けを認めさせて、細川さんがオーディションをさせないほどって、ロミオって凄いっすよね」
「それよ。ロミオが何者か? この舞台で最大の謎なのよ。実力はホント、海外の一流操者並みよ」
 早乙女は腕組して首をひねった。関根は同感とうなずいて黙ってビールを飲んでいた。
「実は海外の一流操者」
 という噂もあったが、そんな格好の宣伝材料を今回の興行主が黙っているなどありえないと、その可能性は早々に否定されていた。
 ロミオの操者は、演技力もマリオネットの操縦も悔しいが自分よりも上であると関根は認めていた。だが、関根にとっては、実力よりもこれほど息がぴったり合うことの方が驚きであった。
 最初、関根はこの話が来たときはチャンスとしか考えていなかった。日本有数の演出家の舞台で主演を張って、それが成功すれば、今の一流半の立場からステップアップできる。それだけに気合が入っていた。
 だが、稽古が始まると、そんなことはあっさりと吹っ飛んだ。
 ロミオである。
 ロミオの凄さに衝撃を受けた。その立ち居振る舞い、舞台に対する情熱。関根は打ちのめされる思いだった。だが、黙って打ちのめされているほど関根も舞台に関しては大人しくない。ロミオに負けないジュリエットを演じようとした。そして、それはロミオを刺激し、ロミオもまたジュリエットに負けない演技をした。
 お互いがお互いを高めあう最高の関係が成立し、関根は計算抜きに『ロミオとジュリエット』に夢中になった。
「ロミオが誰かは知らないが、舞台ではそんなこと関係ないよ」
 気にならないといえば嘘だが、関根にとってはロミオが誰かなどどうでも良くなっていた。
 しかし、意外なところからその情報は飛び込んできた。
「あれ? 早乙女さん、関根さんも知らないんすか? 俺、知ってるっすよ」
 青木はいやに自信満々に胸を張った。先輩の二人に演劇関係で何か教えられるチャンスなどそうあることではないので嬉しいのだろう。
「本当? 誰? 白木さん? いや、加藤さんかな? 佐々木さん?」
 早乙女は日本の操者で実力者の名前をいくつか並べた。だが、それなら関根も早乙女も一緒に仕事したことがあるので、ある程度、予想がつく。
「へへー。実は、ロミオは――」
「断っておくけど、村上信二なんて言わないでよ」
 勿体をつける青木に早乙女が釘を刺した。それが図星だったのか、青木がメデューサに睨まれた蛙のように固まった。
「村上信二? あのアイドルのムラシン?」
 関根は脈絡のない人名に首をひねった。
 村上信二といえば、ちょっとワイルド系でかっこいいと評判のアイドル歌手であった。
 若い女性を中心にかなり人気がある。歌唱力はそこそこだが、ルックスとダンスでそれをカバーしている典型的なアイドル歌手といえた。インタビューなどで見せるクールなワイルドさだけではなく、バラエティーなどで見せる子供のような笑顔も人気の秘密といわれている。
「そのムラシンがロミオ様って噂があるのよ」
 早乙女が馬鹿らしいと焼酎のジョッキを傾けた。
「あれだけのルックスがあるんだったら、生身で舞台に上がった方がいいだろ? 人気があれば、大根でも看板で客が呼べるし、客も演技力を望んでないだろ?」
 青木の話に説得力がないと関根も眉に唾を塗った。
「そう思うっすよね? でも、ムラシンはそれでは気に入らないらしいっす。そこで名前を隠して――というか名前を出してはいけない人形劇で演技の特訓をして、演技力を身につけて、ドラマ、映画、舞台に進出しようという腹づもりらしいんっす」
 青木は自信満々に関根に向かって、そうしない理由を教えた。。
「なるほどな。そういえば、ムラシンがドラマや映画に出ているって聞いたことないな。しかし、アイドルといっても、いろいろ考えているんだな」
 青木の説は一応、筋が通っていると関根は納得した。だが、早乙女はそれが面白くないらしく、仏頂面のまま、皿の上のメザシを手づかみして、タバコよろしく口に咥えていた。
「アイドルのわがままよ。人形劇を馬鹿にしているとしか思えないわよ」
 早乙女は“ロミオ”が村上信二かどうかという真偽は別に、その考えに反感を持っているらしく、不機嫌なオーラをにじませた。
「でも、確かに最初は名前で客が呼べるかもしれない。けど、それも最初のうちだけだ。長い目で見るなら演技力をつけるために人形劇で修行するのは悪いこととは思えないですけど」
 関根は早乙女と逆に村上信二の考え方に共感した。確かに、人形劇を踏み台にしたような形かもしれないが、逆に人形劇を認めていなければできないことである。アイドルが特訓した人形劇ということで、客層を広げる可能性もあり、人形劇業界にもプラスになることかもしれない。
「俺もそう思うっす。今回の舞台の演出をしている細川忠則さんはムラシンが大ファンらしいっす。で、この舞台に出演させてほしいって盛んにラブコールを送っていたという噂なんすよ」
 青木が援軍を得たとばかりに息を吹き返して補足説明を付け加えた。
「週刊現代自身に載っていたわね、それ」
 早乙女はさらに不機嫌そうに鼻息を荒くした。オーディションもしないで役をもらおうなんて、役者として許せなかったのだろう。
 関根が知らないだけで、『ムラシンはロミオ様?!』というのは、大々的に週刊誌などで記事が掲載されてちょっとした話題になっていた。最近は芸能界のゴシップが少なかったこともあり、ワイドショーでも大きく取り上げられていた。
「最近、稽古に集中してたから気がつかなかった」
 関根は元々、あまりゴシップネタが好きではなかった。話題になっていたことを知らなかったことに恥ずかしそうに笑って誤魔化した。
「しかし、あれだけ演技できるとはアイドルも侮れないな。舞台慣れしているのを割り引いても凄いな」
「そうっすよね」
 関根と青木が感心しているのを見て、早乙女は面白くないと顔をしかめた。
「どうせ事務所の力で一流の専門のスタッフを集めて、集中特訓でもしたんでしょ」
 マリオネットの操縦は慣れの問題である。つまり、癖のある機体でも一流のトレーナーがついて長期間、集中して練習すれば、その機体限定だが自在に操れるようになる。
 大方、ロミオの機体をかなり前から占有して特訓していたのだろうというのが、早乙女の予想だった。
「それでもですよ。スタッフが一流でも演じるのは本人ですよ。それに早乙女さんもわかっているでしょ? あれだけ操れるようになるにはかなり努力しなくちゃいけないって」
 関根の言葉に早乙女も気に入らなくても、それは認めざる得なかった。
「でも、これで“ロミオ”がムラシンじゃなかったら大笑いっすよね」
 青木が発した言葉に関根たちは少しの沈黙後、「確かにそうだ」と大笑いした。週刊誌の記事がガセの可能性もあることをすっかり忘れていた。
 だが、関根たちは“ロミオ”が誰なのか? ガセであるかもしれないが答えを出してくれたことで気持ちが軽くなっていた。ロミオが村上信二であることを信じたくなるのは仕方ないことだった。

『ロミオ、ロミオ、おお、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの。あなたが名前を捨ててくだされば、私の全てをあなたにあげるというのに』
 ジュリエットはバルコニーで月に向かって狂おしい、身を焦がすような恋心を告白した。
『それならば、名前は捨てよう』
 突然、庭から声がした。ジュリエットは秘めた恋を聞かれたことに恥ずかしくなり、声を荒げて誰何した。
『庭にいるのはどなた! 名乗りなさい』
『名乗ろうにも、もう名前は捨ててしまった。そう、私のことは“恋人”と呼んでください』
 彼女は屋敷の中へと逃げ込もうとしたが、謎の男の声に聞き覚えがあった。足を止めて、バルコニーの下を覗き込む。そこには豪華なブロンドの太陽が落ちていた。
『その声は、わずか少ししか言葉をかわさなかったけれど、ロミオ様?』
『ああ、その名はもう捨てました。あなたのために』
 ジュリエットの胸が早鐘のように高鳴る。顔が紅潮するのが自分でもわかるほど。
『ああ、なんということでしょう』
『さあ。私はロミオという名を捨てました。あなたもジュリエットという名をお捨てになってください』
 ロミオはバルコニーの傍に生えている木に登り、彼女の目の前に現れた。
『それは……』
 ジュリエットは戸惑った。何か訳のわからない不安が心の中に広がってきて言葉が出なかった。
『私はロミオという名を捨てて、村上信二という名を取り戻しました。あなたの真実の名を教えてください』
 ロミオの台詞にジュリエットは硬直した。見ると、ブロンズの美青年は茶髪の浅黒い顔の美男子、村上信二に変わっていた。
『あ、ああ……』
 ジュリエットの美しい身体が徐々に関根義孝の身体に変わっていく。姿を隠そうにも身体が動かない。
『さあ、あなたの真実の名を!』
 村上信二の顔がアップに迫ってきた。
「うわぁっ!」
 関根はワンルームマンションのベッドの上で叫び声とともに目を覚ました。
 しばらく状況が理解できずにあたりを見渡した。ここが見慣れた自分の家で、さっきのことは夢とわかるまで数分を費やした。
 時計を見ると目覚ましをセットした時間の一時間も前であった。昨日の晩は結局、終電ぎりぎりまで飲んでいたので、四時間ほどしか寝ていないことになる。眠気やだるさはないが、まだ寝ていられたと思うともったいなく感じた。
 関根は少し落ち着くと、さっきまで見ていた夢を思い出した。『ロミオとジュリエット』の超がつくほど有名なバルコニーのシーンである。
「なんて夢だ……ぜんぜん、台詞が違うだろう」
 夢の中のシーンは筋が違うのはもちろん、台詞が最初からかなり端折っていたことに文句を言った。関根は精神的だけでなく、肉体的にも不快を感じた。見ると寝汗をかなりかいたらしく、シャツが肌に張り付いていた。
「これじゃあ、風邪を引いてしまうな」
 ワンルームマンションの狭いユニットバスだが、マリオネット調整室のシャワーよりか広い。シャワーの温度を熱めに調整して、頭からシャワーを浴びた。寝ぼけた頭と身体が目覚めてくるのが実感できた。
 目覚めてくると普通は夢の内容が曖昧になるが、今日に限っては逆に明確になってきた。
 ジュリエットの身体が醜く変わっていく様を思い出し、熱いシャワーを浴びていても背筋に寒いものが走った。そして、その醜く変わった身体は紛れもない今の自分の身体であった。
 確かに関根の身体は鍛え上げられた筋骨隆々ではないし、スマートでもない。しかし、関根の年齢でいえば、ごく平均的な身体である。
 大体、ジュリエットを基準に考えるのが間違っていた。その基準で醜くないといえるのはモデルでも至難の業である。
 しかし、関根にとっては、今の身体も自分なら“ジュリエット”の身体も自分という二つの身体は比較の対象であった。
 今、鏡を見れば、ますます落ち込むことになるだろうと関根は洗面所の鏡をなるべく見ないようにそちらに背を向けた。
「ちょっと重症だな」
 昨日のようにマリオネットを降りてからすぐは自分の本当の身体に不快感を覚えることはあった。特に新人の時は毎回といってよいほど感じていた。だが、一晩経ってからも感じるなど、新人の時でもほとんどなかった。
「まいったな。新人のときより悪いなんて」
 新人の時、そうなったのは彼女にふられた後だったり、何か大きな失敗した後だったりと、わかりやすい理由があった。しかし、今回は少し事情が違っていた。
「ロミオ様がムラシンとわかったから? だから、あんな夢を見て動揺している? ばかばかしい」
 関根はシャワーを上がって、朝の身支度を始めた。
 マリオネットはマリオネット。かりそめの身体。所詮は人形。ロボット。一皮向けば、炭素フレームと人工筋肉の寄せ集め。道具に過ぎない。
 マリオネットと自分の身体のギャップで自己嫌悪に陥るマリオネット操者は少なくない。特に新人のころには誰もが一度は通る道ともいわれている。
 重症になるとマリオネットから降りるのを嫌がり暴れるものもいる。そのために調整室の制御装置から緊急停止と強制リンク解除ができるようになっていた。
「マリオネットに乗っ取られる」
 操者の間ではそう呼ばれて、軽蔑される症状であった。もっとも、誰もが「気持ちはわかるが」と心の中で付け加えているが。
 関根も乗っ取られそうになったことは何度かあった。それも経験を積んで割り切れるようになってきた。今回も同じことと自分に言い聞かせた。
 だが、その度にあの夢が脳裏でリピートされる。今まで以上に聞き分けのない自分に手を焼いた。
「ああ、くそっ! 余計な夢を見るからだ! ムラシンの馬鹿ヤロウッ!」
 関根はテレビで見たことはあっても会ったこともないムラシンに八つ当たりした。
 冷凍していたご飯を解凍し、インスタントの味噌汁を添えた質素の朝食を胃に押し込むと、家でムラムラしているよりはと、かなり早かったが劇場に向かうことにした。
 最初から稽古の開始時間よりもかなり早く行くつもりでセットした目覚ましであった。その一時間前に起きてしまったのだから、劇場に着いたのは関根自身も笑いそうになるぐらい早かった。
 一応、劇場のマリオネット調整室に顔を出したが、丸山が徹夜明けの疲れた顔で最後の追い込みをかけている修羅場であった。
「早く来すぎだ、芝居馬鹿! あと一時間、どこかで時間潰して来い」
 温和な丸山が関根を怒鳴りつけて追い出すほどであった。関根は仕方なく、劇場を出て公園の一角にあるオープンカフェで台本のチェックでもすることにした。
 カフェは劇場に近いこともあり、台本をチェックしている役者にさりげなく気を使ってくれる。一般の客とは席を離してくれたり、お冷のおかわりを黙って注いでくれたりと、落ち着いて台本をチェックできる劇場出演者お気に入りのカフェであった。
 昨日の稽古で気になったポイントに付箋を貼って、台本の空白部に書き込みをしていく。既に色々と書き込んでいるので、ずいぶんと混沌とした台本になっていた。
 関根は台本を一通りチェックを終えると台本から目を上げて軽く伸びをした。時計を見ると、調整室を追い出されてから三十分ぐらいしか経っていなかった。
 もう既に台詞は全部はいっている。あとは細かな解釈や動きと表情の再確認ぐらいで、チェックするなら実際に演じてチェックしたいと思っていた。
「とはいえ、全体を改めて見直すのは何度でもやっておいて損は無いからな」
「何がです、関根さん?」
 関根の独り言に、白地に薄いブルーと濃いブルーのチェックの生地で作ったメイド風のエプロンドレスを着たウェートレスが尋ねた。まだ若い、大学生ぐらいで、いかにも元気そうな印象のある女の子である。
 関根は今回のロミオとジュリエット以外でも何度かこの劇場の舞台に立っており、そのときから利用しているために人懐っこい彼女とは少なからず面識があった。
「おはよう、佐代子ちゃん。今度の舞台の話だよ」
 関根は笑顔で答えて、台本のタイトルを見せた。
「へぇ。今度はロミオとジュリエットなんだ。前は何かのミュージカルだったのに色々出演するんですね」
「そうだよ。ギャラが安いからたくさん出演ないと稼げないんだよ」
 関根は貧乏暇なしと肩をすくめた。
「マリオネットの役者さんも大変なんですね。友達にも役者目指している子がいるけど、むちゃくちゃ貧乏だって言ってた」
「そうだね。僕なんかはまだ出演があるだけマシな方なんだよ。チケットが売れないと赤字で次の興行がなくなるし。というわけだから、よかったら舞台、観に来てね」
 チケットの売れ行きは順調らしいが、まだ完売はしていないと関根は聞いていた。細川演出ならすぐに完売もありえるのだが、少し高めの値段設定が売れ行きに影響しているらしいと言われていた。
「残念。あたし、公演の間は友達と海外旅行に行く予定なんだ。ごめんね」
 佐代子は手を合わして愛嬌たっぷりに謝った。
「それは残念。自分で言うのもなんだけど、結構、面白い舞台になると思うのに」
 関根の言葉に謝っている佐代子が首を傾げ始めた。その様子に関根は怪訝な表情を浮かべた。
 佐代子は関根の表情に気づいて困ったような、恥ずかしいような微妙な笑顔を浮かべた。
「あのね、関根さん。ロミオとジュリエット……あれって、『おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの』ってやつでしょ?」
「そうだけど?」
 関根は佐代子の質問の本意が見えずに少し戸惑いながら答えた。
「よく考えたら、あたし、ロミオとジュリエット以外の登場人物知らないし、犬猿の仲の家同士で恋人になって、最後はどうなるかも知らないのよ。こんなに有名な話なのに」
「ああ、なるほど」
 関根は佐代子の言葉にやっと合点した。
「そうだね。『ロミオとジュリエット』は有名だけど、意外に細かい話は知られていないことでも有名だね」
「そうなんだ。よかったー。あたしがお馬鹿なのかって心配しちゃった」
 佐代子は胸をなでおろして安心した。
「ねえ、関根さん。もしよかったら、『ロミオとジュリエット』のあらすじ、教えてくれないかな?」
「あ! あたしも聞きたい」
「わたしも」
 ウェートレス数人が関根のところに集まってきた。カウンターにいる店長が苦笑を浮かべていたが、お客も少ないので「別にいいよ」という仕草で許可してくれた。ウェートレスだけではなく、何人か他のお客もいつの間にか席を移動して集まってきていた。
 そこまで盛り上がって話さないわけにはいかないと関根は仕方なく『ロミオとジュリエット』のダイジェスト版を話し始めた。
「ロミオとジュリエットの舞台はイタリア。花の都といわれたヴェローナという大きな街なんだ。そこの領主は大公なんだけど、有力貴族のモンタギュー家とキャピュレット家。この二つの大きな貴族がいた」
「その二つの家が仲が悪かったのね?」
 佐代子が相槌に少し驚きつつ、関根はうなずいた。
 一人しゃべりは苦痛に思っていた関根は彼女の天然のアシストに正直、感謝した。
「二つの家はいつのころからか、ことあるごとに喧嘩をして、騒ぎを起こしていた。互いの家の使用人同士も仲が悪いほどだったんだ。それで領主の大公はずいぶんと頭を悩ましていたんだ」
「でも、領主ってことは一番偉いのにどうして言うこと聞かせられないの?」
 当然ともいえる疑問が投げかけられた。『ロミオとジュリエット』の書かれた時代はかなり古いために、現代とは感覚が違うところも多いし、海外のこともあり日本人には事情もわかりにくいところもあった。
「まあ、大人の事情――というのは冗談で、二つの家とも街の有力者だからね。領主といっても簡単に言うことを聞かせることはできないんだ。へたすると内戦になるからね」
「ふーん。それで、どっちがロミオの家で、どっちがジュリエット?」
 権力の構図には興味ないらしく、佐代子が先を促した。
「ロミオはモンタギュー家。彼はそこの一人息子で跡取りだ。しかも、彼はヴェローナの誰もが礼儀正しくて紳士的だと誉めるほどすばらしい青年だった。一方、ジュリエットはキャピュレット家。こちらも一人娘で、歳は十四歳の誕生日まであと二週間の美しい乙女だった」
「えー! ジュリエットってそんなに子供なの? 十四って言えば、まだ中学生じゃない」
 佐代子は「ロミオってロリコン?」という言葉は何とか飲み込んだが、その表情にありありと書いていた。関根はそれがわかって苦笑した。
「その当時、十四歳といえば、少し早くはあったけど、結婚してもおかしくはない歳だったんだよ。なにしろ、この話が書かれたのは日本で言えば、戦国時代の終わり、関が原の戦いのころだからね」
「そんな昔の話なの?」
 『ロミオとジュリエット』の正確な創作年はわかっていない。というのも、ちゃんと出版されたわけではなく、出演した役者たちが台詞などを思い出して本にまとめたのである。そのため、シェークスピアが書き上げたはっきりした年数がわからないのであった。
 ただ、それでも成立は一五九一年から一五九七年までの間と言われているので、研究者でない一般人にしてみれば同年代の『関が原の戦いのころ』で充分であった。
「ごめん。話の腰ばっかり折っちゃって」
 佐代子は申し訳なさそうに謝ったが、関根は首を振ってやさしく笑って見せた。
「いや、いいよ。それで、最初、ロミオは実はジュリエットとは別の女性に夢中だったんだよ。だけど、相手に振り回されてなかなかうまくいかないで、かなり落ち込んでいたんだ」
「なんだか、驚きの事実が次から次に出てくるわね」
 ロミオがジュリエット一筋と思っている人が多いらしく、佐代子以外のギャラリーにも意外そうな顔が見えた。
「ロミオの恋の病を心配して、ロミオの親友で、大公の親戚でもあるマキューシオという青年が彼をとある舞踏会に誘うんだよ。その舞踏会で初めてロミオとジュリエットは出会ったんだよ」
「同じ街に住んでるのよね? それまで会ったことないの?」
 一般市民ならいざ知らず、貴族なら舞踏会で会っていても不思議じゃないと佐代子は思ったまま疑問を口にした。
「二つの家は犬猿の仲なんだから、交流はほとんどなかった。だいたい、かわいい一人娘を敵の家の舞踏会に出す親はいないよ。ロミオも敵の家の舞踏会に乗り込んでいくほど酔狂じゃないしね」
「それじゃあ、どうして二人はその舞踏会で出会ったの? 特別な舞踏会だったの?」
「いや、ごく普通の舞踏会だったよ。ただ、マキューシオがロミオをキャピュレット家の主催する舞踏会に連れ出したからだよ」
「なんで? 敵の家なんでしょ?」
 先ほどの説明と矛盾した理由に佐代子は目をしばたたかせた。
「まあ、ロミオは仮面をかぶっていたから、正体がばれずに入れたんだろうね。キャピュレット自身が仮面を被ったロミオを歓迎して迎え入れているからね」
「いい加減よね」
 確かにセキュリティのうるさい現代では考えられない杜撰さである。
「実は途中で仮面の男がロミオとばれるんだ。でも、ロミオをたたき出そうと言い出したティボルトという青年をキャピュレットが押しとどめているから、案外、知っていたのかもね」
 佐代子たちは自分たちが思い描く舞踏会のイメージとのギャップに不服そうな顔を見せた。しかし、実際、昔の舞踏会とはそういものだった。関根は彼女たちの不満はしょうがないと話を続けた。
「ロミオはさっきも言ったように紳士的な素晴らしい青年だったからね。ヴェローナ市民からも愛されていた。そのロミオをたかが舞踏会に紛れ込んだようなかわいい悪戯に過剰に反応しては、有力者としての名が廃るってところじゃないかな? 舞踏会をめちゃくちゃにするつもりなら話は別だけど、ただ踊りに来ただけなら大目に見ようって寛大な対応をしたんだろう」
「でも、ロミオはどうして敵の家の舞踏会になんて行ったの? そんなの紳士的とは思えないけど」
 佐代子はまだ不満顔で関根に訊いた。他の観客も同感だったらしく何人かが黙ってうなずいていた。
「誘ったのは親友のマキューシオだよ。ロミオは寸前まで乗り気じゃなかった。彼は真面目で誠実な青年だからね。でも、その友達のマキューシオは、伊達と酔狂に生きるユーモアと機知に富んだ青年だった」
「知ってる! そういう人、カブキモノっていうのよね」
 佐代子は『ロミオとジュリエット』が戦国時代のころの話と聞いて、そのころにいたという傾奇者を思い出したのだろう。佐代子は得意満面であった。
「それはともかく、モンタギュー家の息のかかった家での舞踏会じゃ、ロミオは下にもおかれない歓迎を受けて、踊りを楽しむ暇もないだろうからね。そのあたりも考えてマキューシオは敵方の家の舞踏会に誘ったんだろう。しかも、仮面を被るね」
「ああ、そうか。ロミオって次期当主様だもんね」
 佐代子の言葉に関根はうなずいた。
「ともあれ、ロミオとジュリエットはそこで初めて出会った。そして、お互い名も知らぬまま一目惚れした。そこは知っている人には有名なシーンで、ロミオはジュリエットの手を取り、彼女の手を聖地と呼んで、無礼を働いた手の所業を謝罪するために彼女の手にキスさせてほしいとお願いするんだ」
「キザー!」
 引き気味に佐代子は悲鳴を上げたが、その悲鳴にはどこか羨望の香りが漂っていた。
「そういうやり取りを楽しむのがその頃の社交界なんだよ。やがて舞踏会が終わり、二人は相手の名前を知ることになり、その運命を嘆くことになる」
「悲恋の始まりね。それでどうなるの?」
「ロミオはジュリエットが忘れられない。せめて彼女をもう一度見たいと、舞踏会の帰りにマキューシオたちからこっそりと離れて引き返した。そして、一人だけでキャピュレットの家に忍び込むんだ。ロミオはどこにいるかわからないジュリエットを探して庭をさまよっていた。そして、偶然、バルコニーにいたジュリエットを見つけるんだよ」
「あっ。そこで、あのシーンね」
 佐代子がやっと知っているシーンになったと顔をほころばした。
「そうだよ。だけど、みんな勘違いしているかもしれないけど、ジュリエットは庭にロミオがいることを知らずに彼への愛を告白するんだよ」
 関根が少し得意顔になって豆知識を披露した。
「えっ? どういう意味?」
「言ってみれば、自分の家で好きな人への告白の練習していたら、それをうっかり通りがかった告白する相手に聞かれちゃったようなものだね」
「そ、それは恥ずかしいわね」
 佐代子は自分がジュリエットと同じことになったらと想像して、顔を引きつらせた。
「ジュリエットも相当恥ずかしかったようだよ。その後のロミオとのやり取りでかなり恥ずかしがっていたからね」
 時代は変わっても乙女心は変わらないと関根は微笑ましい表情を浮かべた。かくいう関根もそのシーンを演じている時は乙女気分で本気で恥ずかしくなってくる。
「ロミオとジュリエットはそれから一晩中、愛をささやきあった。そして、日が昇ろうかとする時間になる。ロミオは帰らなければ見つかってしまう。離れたくないのはロミオもジュリエットも同じ」
 関根の言葉に恋人と別れる時の気分を思い出してか、佐代子は真剣にうなずいていた。
「ジュリエットは、ロミオに向かって、もしこの恋に本気なら私が出す使者に結婚の約束を伝えてと訴えた。そして、ロミオはジュリエットと別れた後、その足でロレンス神父を訪ね、ジュリエットとの結婚を取り持ってくれるようにお願いしにいった」
「出会って半日で? ずいぶんと電撃ね」
 佐代子は感心するやら呆れるやらという表情を浮かべていた。
「それだけ情熱的だったんだよ。さて一方、ジュリエットは乳母にロミオとのことを打ち明けた。乳母はジュリエットの一番の味方だからね。そして、乳母が使者になり、ロミオは結婚の意志を伝えて婚約は成立した」
「それで成立しなかったら、ロミオって最低男よ」
 佐代子の言葉に関根は苦笑で応えた。実際、一夜明けたら頭が冷えて約束が反故になることもあったらしいことは黙っておいた。
「ジュリエットは乳母から婚約成立を聞いて、急いでロミオの待つ教会に行った。そこでロレンス神父立会いの下に結婚式を挙げて、二人は正式に夫婦になった。幸せいっぱいのロミオとジュリエット。だけど、この幸せは長くは続かない」
 関根は少しためを作った。観客たちが先を促すように身を乗り出すのを見てから、関根は続きを話し始めた。
「結婚したとはいえ、家同士は不仲のまま、二人が一緒にいるのが見つかれば、大変な騒ぎになることはわかっていた。二人は別々に自分の家へと帰るしかなかった。そして、その帰り道、ロミオは友人のマキューシオがキャピュレット家のティボルト――ジュリエットの従兄と決闘しているところに出くわすんだ」
「なんで決闘なんて?」
「きっかけは些細なことだった。喧嘩なんてそんなもんだよ。ともかく、ロミオは二人の決闘を止めようとした。だけど、ロミオが割って入った時に運悪くティボルトの剣がロミオの影に隠れて、マキューシオは剣を避けきれず刺されてしまうんだ」
 関根は剣で刺されるマキューシオをパントマイムで入れて見せた。
「運悪く剣は急所を貫いていた。それでマキューシオは死んでしまった。ロミオは親友を殺されて黙っている薄情な青年ではない。ティボルトに決闘を申し込んだ。その決闘でロミオはティボルトを殺してしまう」
 ロマンチックな話と思っていた『ロミオとジュリエット』の血生臭いシーンに話を聞いていた人たちは息を呑んだ。
「決闘で死人が出た。これは今も昔も変わらず大事件だ。領主の大公は少し前にあった騒ぎの時に、今度諍いがあったら、そのものを極刑にするといっていたんだ。マキューシオを殺したティボルト。ティボルトを殺したロミオ。ロミオは死刑になるはずだった」
 関根はそこで話を区切ると勿体をつけるようにコーヒーをゆっくりと一口飲んだ。
「だけど、ロミオはモンタギュー家の跡取りだ。彼を処刑すればモンタギュー家は黙っていない。それに、見方を変えればロミオは、諍いを起こしたティボルトの処刑を代行したともいえなくもない」
「強引な話ね」
 佐代子は汚い詭弁に若者特有の反感を覚えて眉をしかめた。
「それが政治というものなんだな。ともあれ、ロミオは死刑を減刑され、ヴェローナを追放という判決がその日のうちに下されたんだ」
「そういえば、ジュリエットは? ロミオは従兄を殺したんでしょ?」
「ティボルトとジュリエットは仲が良かった。だから、ジュリエットはロミオの蛮行を怒った。けど、それ以上にジュリエットはロミオを愛していたんだろうね。ロミオを嫌うことはできなかった」
 恋する乙女はかくも自分勝手だと関根は肩をすくめて見せた。
「ところで、ロミオは追放されて、どうなったの?」
「ロミオは判決が出るまでロレンス神父のところに幽閉されていた。そして、追放という判決を知って、ジュリエットのそばから離れるぐらいなら、いっそ殺してくれと泣き出してしまった」
「ロミオ、ちょっと情けないわね。追放されるのは自分のせいじゃない」
 佐代子はロミオの不甲斐なさに厳しい表情を浮かべた。
「それほどロミオはジュリエットを愛していたんだよ」
 関根は佐代子の怒りはもっともだと思いながらも、男は純情なのだと苦笑で誤魔化した。
「いくらロミオが泣き叫ぼうと、明日の朝までに街を出なければ、今度こそ本当にロミオは死刑になってしまう。あまりにも不憫に思ったロレンス神父と乳母が、ロミオとジュリエットに一夜限りの逢瀬を手引きした。嬉しい初夜にして悲しい終夜」
 関根はやや芝居がかった抑揚で言うと、目を閉じてそこで少し間を置いた。そして、夜明けがやってくるように目を開けて続きを語り始めた。
「翌朝、ひばりの声に追われるようにロミオはヴェローナから少し離れたマンチュアの街へと旅立った。悲しみにくれるロミオとジュリエット。しかし、不幸はそれでは終わらない。ジュリエットの父親――キャピュレットはパリス伯爵にジュリエットを嫁がせることを決めたんだ。しかも結婚式は三日後」
「これもまた急な話ね。三日後なんて」
 佐代子が女性の立場から、勝手過ぎる男たちに憤慨して鼻息を荒くした。
「当時は貴族の結婚といえばほぼ政略結婚だったからね。キャピュレットには政治的な計算あったんだろう。物語にははっきりとは書かれていないけどね」
 佐代子だけではなく、他のギャラリーも苦い顔をした。今の時代は自由恋愛が普通なので、当然といえば当然の反応であったが。
「ロミオと結婚しているジュリエットは、パリスと結婚してしまったら重婚になる。それは神を冒涜する行為で恐ろしいことと考えるのがキリスト教徒としては普通だった。なにより、ロミオ以外と結婚なんてジュリエットにとってはありえない話だ」
「当然よ」
 佐代子が少し怒ったように言った。ジュリエットに同情して感情移入しているようであった。
「だけど、ロミオと結婚していることは誰にも秘密だよね。ジュリエットは理由は話せない。ただ結婚できないというだけしかできない。だけど、それを聞き入れるような父親じゃない。結婚しないのなら勘当だと言われた。ジュリエットは困り果ててロレンス神父に相談した。そこでロレンス神父に薬を渡され、結婚式の前夜にそれを飲んで仮死状態になるように言われるんだ」
 関根は周りに集まってきていた観客を見渡した。中にはエンディングが見えたという表情をしている人がちらほらいた。
「ロレンス神父は、その薬でジュリエットが仮死状態の間にロミオをマンチュアから呼び戻すつもりだった。そして、ロミオに仮死状態から覚めたジュリエットをマンチュアに連れて行かせる。後はロレンス神父がロミオとジュリエットの家を説得するという作戦を立てるんだ」
「なんだか、行き当たりばったりね」
 佐代子は杜撰な作戦に苦笑してみせた。関根も同感だが、それは口にせずに話を進めた。
「ジュリエットは薬が本当に仮死状態になるだけのものか不安に怯えた。でも、ロミオと一緒になりたい一心で薬を飲んで仮死状態になった」
 一途なジュリエットに佐代子は何度も頷いた。同じ女性として感じるところがあるのだろう。
「当然、キャピュレット家は大騒ぎになった。ジュリエットは墓所に葬られた。この頃は死体を室のようなところに安置する方法だったから、焼かれたり埋められたりはしなかったんだ」
「それで、ロミオは?」
 佐代子が薀蓄よりも続きが気になると関根を急かした。
「ここまでは計画通りだった。だけど、ロレンス神父が出した使いはロミオに会えなかった」
「そんな……」
「ロレンス神父の計画を知らないロミオはジュリエットが死んだという知らせだけを知ってしまった。ロミオは追放の身を省みずヴェローナに急いで戻った」
 関根は知らずに熱が入っていたのだろう喉の渇きを覚えた。目の前のコーヒーを飲もうとしたが、既に飲み干している。しかたなく代わりに手を伸ばし、テーブルの奥においていた水を引き寄せて口に含んだ。
 その間中、続きをせがむギャラリーの視線が関根に集まっていた。関根は生身でこれほど注目を集めるのは久々と少し緊張した。
「ロミオは墓所に安置されている仮死状態のジュリエットに再会した。そして、愛しい人の死に絶望して本物の毒を飲んで自殺した」
「本当にジュリエットを愛していたんだ」
 佐代子はロミオをダメ男と思っていたが、その情熱的な意気に感じてかポツリと呟いた。
「それからはご想像通り。仮死状態から覚めたジュリエットは自分の隣で死んでいるロミオを見つけた。それで計画が失敗したことを悟った。ジュリエットもまた愛しき人の死に絶望して、ロミオの剣を自分の胸に突き立てて死んだ」
 関根は自分の胸に剣を突き立てる仕草をして、間をおいた。話を聞いていた周囲の人間は押し黙って悲しい結末に浸っていた。
「ロミオとジュリエットが死んだ後、真相がロレンス神父より語られた。それを大いに悲しんだ二つの家は仲違いをやめてヴェローナの町は平和になった。これが『ロミオとジュリエット』のあらすじだよ」
 関根はあらすじを語り終わり、周囲を見渡した。よく見ると語り始めたときよりも増えている人間に少し驚き、照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「なんだか、悲しい話ね……」
 佐代子は有名な話がこれほど悲しい話だったとはと驚いていた。そして、今までそれを知らずに、有名なシーンをパロディに使っていたことが恥ずかしく思えてきた。
「『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの四大悲劇の一つという人もいる。詳しいところは、今度、そこの劇場で上演する舞台を見てくださいね」
 関根は茶目っ気たっぷりに舞台の宣伝を入れると、沈んでいた空気が少しだけ明るくなった。
「うー……なんだか見たくなっちゃったじゃない。聞かなきゃよかった」
 佐代子は口を尖らせて文句を言った。
「それは光栄だね。本当は舞台を見て欲しいけど、映画化もされているし、詳しい話を知りたければ、そっちを見てもいいと思うよ」
 『ロミオとジュリエット』は何度となく映画化されている。現代風にアレンジしたパロディーのようなものもあるが、しっかりと作られたものもあり、舞台の演出を映画にしたものをある。
「帰りにレンタルに寄ってみようかな?」
 佐代子は早速、DVDを借りるつもりで思いをめぐらしていた。関根はお薦めの映画化作品をコースターにメモ書きして佐代子に渡した。
 佐代子はうれしそうにそれを受け取ると、少し気恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「ねえ、関根さん。今度、他の有名な舞台のお話――『生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ』とかのあらすじも教えてくれないかな? ちょっと、興味がでちゃった」
「『ハムレット』だね。それもシェークスピアなんだよ。シェークスピアの舞台は名台詞が多いんだよね」
 関根は舞台に興味を持ってくれる人が増えるのはうれしいと顔をほころばせた。
「へえ、そうなんだ。あの、あたしのバイトが休みの日にどこかでご飯食べながらそのシェークスピアの話を聞かせてくれません?」
「別にいいよ。でも、この舞台が終わるまではあんまり時間が取れないと思うから、終わってからでいいかい?」
 関根は手帳を開いてスケジュールを確認しながら軽く承諾した。
「やった! それじゃあ、今回の舞台のギャラでおいしいものご馳走してくださいね」
「あっ! それが目当てか。まあ、しょうがない。ご馳走するよ」
 喜ぶ佐代子に関根は姪っ子にねだられた叔父の気分を味わいながら苦笑した。
「ありがとう、関根さん。あ、コーヒーが空ですね。お替り持ってきます。ちょっと待っててくださいね」
 佐代子はスキップするように弾む足取りでバックヤードに戻っていった。関根はその様子を微笑ましく見送った。
 関根はコーヒーが来るまで、手持ち無沙汰で何気なく公園の方に視線を移した。
 何気に見た視線の先に、演出家の細川が若い男と何か言い合いながら劇場に向かって歩いているのを見つけた。
「一緒にいる若いの、どこかで見たような?」
 関根は細川と一緒にいる若い男の名前を思い出せずに首を捻った。
 コーヒーのお替りを持って戻ってきた佐代子は、首を捻って考えている関根を怪訝に思い、関根の視線を辿っていった。そして、関根の見つめる二人の男たちに辿り着くと、手に持っていたコーヒーポットを落としかけた。
「マジ? あれって、もしかして、ムラシンじゃない!」
 佐代子の言葉に関根の心臓が跳ね上がった。
「え〜、見間違いじゃないの? ……って、本物じゃん!」
 佐代子の声に他のウェートレスも注目して、黄色い声を上げて喜んだ。
「……ああ、劇場に入っちゃった。おしいなぁ。もうちょっと早く気がついてたら、サイン貰いにいけたのに」
 佐代子が心底悔しそうに地団太を踏んでいたが、同僚のウェートレスたちは苦笑を漏らしていた。
「佐代子、その格好で行くつもり?」
 同僚の一人が放っておくとウェートレスの制服姿でサインを貰いに走るなんてみっともないことをしかねない佐代子に一応、釘を刺しておいた。。
「いいじゃない。この制服、かわいいし」
 佐代子はスカートを少し摘み上げてポーズを取った。確かにここのオープンカフェの制服はマスターの趣味が存分に入っていてかなり可愛いかった。
「こういう格好で、『萌えてます、あたし?』って聞いたら、もしかして『萌えてるね、君』とか言われちゃって、サインくれるかも」
「それ、ムラシンの新曲タイトルでしょ?」
 同僚のウェイトレスが呆れてため息を吐いた。
「そういうシャレを入れたほうが印象いいじゃない」
 ナイスアイデアを呆れられ、佐代子は少しむくれて反論した。
「関西人か、あんたは。だけど、とりあえず――」
「とりあえず?」
「休憩時間に色紙とサインペンを買いに行こう♪ 帰り際を狙うのよ」
「あ、ずるーい。あたしもー」
 佐代子たち、ウェイトレスは村上信二からサインをもらう計画に盛り上がっていた。
「あ、関根さん。劇場の関係者に知り合いいません? できたら、何時ごろにムラシンが帰るか聞いてきて欲しいんですけど……」
 ウェイトレスの一人が劇場にコネのある関根にずうずうしいお願いをしにきたことで、それまで呆然としていた関根は我に返った。
「悪い」
 関根は代金をテーブルに置くと台本をかばんに突っ込み、村上信二が入っていた劇場の入り口を目指して走った。
「せ、関根さん!」
 佐代子は、自分たちのずうずうしいお願いに関根が腹を立てているのだと勘違いして、席を立って店を出て行く関根に謝っていたが、その声は彼の耳には届いていなかった。
 関根は駆け出したはいいが、日ごろからの運度不足が祟って、スピードなどすぐに早歩きと変わらない速度まで落ちていた。それでも走るのをやめず、息も絶え絶えになって劇場のエントランスホールにたどり着くころには、だらしなく口を開けて、わき腹を押さえて、足元もおぼつかないほどであった。
 そんな想いまでして必死で走ってきたが、ホールを見渡しても、そこには細川もムラシンの姿もなかった。人影といえば、見かけない二十歳前半ぐらいの若い女性だけがいるだけだった。
 その若い女性はただならない様子で駆け込んできた関根に驚いていて、駆け寄ってきた。
「どうかしたの? 何事?」
「こ、ここに、いまさっき、細川さんと、ムラシンが……」
 関根は呼吸も整わないままに彼女の問いに答えた。それでますます呼吸が苦しくなって、本当に倒れそうになった。
「お兄さん、見かけによらず、ミーハーね」
 若い女性はくすっと笑うと関根の手を引いて、エントランスホールのベンチに座らせた。
「確かに、今、演出家の細川忠則さんと村上信二が中に入って行ったわよ」
 彼女がおかしそうに笑って関根の質問に答えた。その間になんとか呼吸を整えて、椅子から立ち上がった。
「どっちにいった――行きましたか?」
 関根はこんなところでじっとしているわけには行かないと、二人の行方を尋ねた。
「サインだったら、やめておいた方がいいわよ。村上信二はすごくサイン嫌いで有名だから。気に入った人しかサインあげないらしいって話よ」
 若い女性は苦笑いをして肩をすくめた。
 村上信二のサイン嫌いは関根も知っていた。そして、村上信二はメンクイでも有名である。サインをするのは村上信二が気に入った美人だけと言われていた。文字通り、サインがもらえれば、村上信二のお墨付き美人である。貰ったサインを持ってタレント事務所に行き、デビューした女性アイドルもいるほどである。
 デビューまでは考えていないだろうが、カフェの女の子たちは美人のお墨付きを貰うためにサイン獲得のチャレンジするつもりだったのだろう。
 関根は、彼女はおおかた村上信二にサインを断られて、その愚痴を自分にぶつけるつもりなのだろうと想像して苦い顔をした。
「それは残念だったね。でも、僕はサインを貰うんじゃないんだ」
 関根は目的が違うと首を振った。
「残念?」
 彼女は関根の言葉に整った眉をぴくんと跳ね上げた。
 関根は、その反応で今まで彼女の顔をちゃんと見ていなかったことに気が付き、改めてよく顔を見た。
 目鼻立ちのすっきりとした凛々しい顔立ちをしたかなりの美人である。艶のある栗色のショートカットがよく似合っていて、少し勝気で活発そうな印象も感じられた。今は少し不機嫌な表情をしているので子供っぽく見えるが、それもまた可愛らしい。
「こんな美女でもサインがもらえないって、どんだけハードルが高いんだ」
 関根は村上信二の審美眼の厳しさに心の中で呆れながらも、彼女も自分の容姿に自信があったからなおさら愚痴りたいのだろうと勝手に想像を加速させた。
「悪いけど、急いでいるんだ。どっちに行ったか教えてくれないか?」
 関根の言葉は丁寧であったが、「関わっていられない」という苛立ち紛れであるのは誰が聞いても明らかだった。
「スタッフルームに入って行ったわよ。細川さんはすごく不機嫌そうだったけどね。ちなみに、サインをもらえなかったんじゃなくて、もらいにも行かなかったのよ」
 彼女は冷たく関根の質問に答えると踵を返し、関根を残してエントランスホールから出て行った。
 関根は細川が不機嫌と聞いて、頭に昇っていた血が一気に冷えた。
「細川さんも一緒だったこと忘れてた。……そうだよな。行ったところでどうしようもないしな……」
 冷静さを取り戻した関根は、同時に先程の若い女性に対して随分と失礼な態度を取ったことを思い出した。
 関根は失礼を詫びようと劇場を出て探したが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
「申し訳ない事をしたな」
 関根は反省しつつ、時計を見ると、丸山の言っていた一時間がそろそろ過ぎようとしていた。稽古をするために早く来ているのだから時間は無駄にできないと、捜索を打ち切って調整室に向かうことにした。

「よーし! 少し休憩だ。二十分後に再開する。休憩が終わって同じ演技をしているやつはマリオネットの殻を剥いでやるから覚悟しておけ!」
 客席にいた演出家の細川が立ち上がると稽古は一時中断された。それと同時に安堵と緊張が舞台に走った。ダメ出しされている操者は休憩を返上して練習しておけなければ冗談抜きで細川ならマリオネットの殻――操者本体の収まった黒い筐体をこじ開けかねなかった。
 殻をこじ開けられると、操者本体に加わる強烈な外部からの刺激とマリオネットからのフィードバックで脳がパニックを起こす。へたすると精神障害が残るケースもある。マリオネット操者にとってこれほど恐ろしいことはない。
「それから、ジュリエット! 控え室まで来い」
 細川の追加の一声で、舞台にあった安堵の空気も緊張に変わった。
 誰が見ても完璧と思えたジュリエットが細川に呼ばれたということは、ダメ出しされなかった他の操者も合格点ではないということになる。余裕だった操者たちもあわてて台本や動きなどをチェックし始めた。
「何の用かしらねぇ? あたしの処女に誓って、ジュリエットの演技に問題なんてあるとは思えないけど」
 ジュリエットの傍にいた年老いた“乳母”が冷却用の循環体液を補給しながら首をかしげた。
「演技に問題がないなんて神様が口にしても不遜だわ。違うくて? 役者はその気になれば神様だって演じられるのですもの」
 ジュリエットは不安を隠しつつ冗談を口にして優雅に立ち上がって、一礼してから舞台を後にした。
 控え室は舞台の裏手から廊下を通って、階段を上がったところにある演出家や舞台監督が事務仕事をするための部屋であった。
 廊下は大道具や小道具、照明と音響のスタッフがあわただしく行き来している。操者は休憩でも裏方は仕事である。すれ違うスタッフに会釈しながらジュリエットは控え室に向かった。
 階段を上がると、踊り場のような短い廊下になっていた。そこに倉庫の入り口のような洒落っ気のかけらもないペンキを塗っただけの鉄製の扉が一枚。扉には『控え室』と書かれた紙がガムテープで適当に張っていた。
 ジュリエットは呼吸を整え、扉をノックした。中から応答があり、ゆっくりと扉を開いた。
「ジュリエットです。失礼いたします」
 控え室は十畳ほどの大きさがあり、さほど広くは無かった。両サイドの壁はコンクリート打ちっ放しで、奥の壁には大きな窓が作られていた。その窓から舞台裏が見下ろせるようになっているので、喧騒が窓越しに聞こえてきている。
 調度品と呼べるのは事務机が一つ、会議室用の長細い机が二つ、その周りにパイプ椅子が乱雑に並んでいる程度であった。壁際には書類やファイルを押し込んだと思われるダンボールがいくつか並べられていた。
 まったく無秩序で整理されていないわけではないが、全体的に野戦指令所を思わせる、どこかあわただしい雰囲気をかもし出していた。
 ジュリエットを呼び出した細川は事務机に浅く腰をかけ、機嫌が悪そうなオーラを隠しもしないで周囲の空間に振りまいていた。しかし、ジュリエットはそれに怯むことなく気品を保って微笑んだ。
「細川さん。何か私に御用でございますか?」
 細川は不機嫌な顔を崩さずに、黙ったままジュリエットを睨み続けた。ジュリエットも微笑みは絶やさずに見つめ返していた。
 沈黙のまま時は過ぎたが、休憩時間は無限にあるわけではない。やがて、細川が大きなため息とともに視線を外した。
「俺の言いたいことがわかるか? ジュリエット」
「申し訳ありません。私はジュリエットですもの。神様でも超能力者でもありませんわ」
 ジュリエットは困ったように首をかしげた。その仕草に細川は眉間にしわを寄せた。
「うまい言い逃れだ。それなら、ジュリエットとしてロミオの後を追って自殺するか?」
 ジュリエットの微笑が凍りついた。
「わかっているんだな。だが、改めて言っておくぞ。役に入り込みすぎだ、ジュリエット」
 細川の言葉にジュリエットは心臓に剣を突き立てたような衝撃を感じた。
 ジュリエット自身も細川に言われるまでもなく、役に入り込みすぎているのを感じていた。ロミオの演技に負けないようにしようとした結果とはいえ、役に飲まれるのは恥ずかしいことだった。
 ジュリエットは一度目を閉じて、呼吸を整えてから目を開けた。
「わかっていますわ。情熱に身を焦がしても芯は醒めた氷のように理性を保て。リアルは決して真実にあらず。虚構こそが人の目に真実」
 ジュリエットは細川が昔、演劇論で書いていた文章をそらんじた。
「――できるか?」
 細川の真剣な眼差しにしばらく沈黙が続いたが今度はジュリエットが折れた。
「できないなんて言ってしまったら、細川さんは今すぐにでも私の殻を割ってしまうでしょ? 私たちを守る殻はハンプティ・ダンプティの身体よりももろいですのよ」
 ジュリエットが冗談めかして言ってもその微笑みは儚げであった。その微笑みに細川はジュリエットの本当の心の内を感じたが、その言葉は飲み込んだ。そして、大仰に手を叩いて両手を広げた。
「ああ、その通りだ。よーく覚えておけ、間違っても狂気に染まるなよ。いい演技というのはその半歩手前だ」
「あら? 薄皮一枚だと仰っていませんでしたっけ?」
 ジュリエットは首を傾げて、先程引用した演劇論との違いを指摘した。
「規制が厳しくなったんだ。今月から」
 冗談半分、本気半分で細川は言うと、話は終わったと扉を指差した。ジュリエットは優雅にお辞儀をするとドレスの裾を翻して控え室を退場した。
 細川はその後姿を見つつ、心身ともに爆弾を抱えるジュリエットを降板させない自分自身も狂気に染まっているのだろうとため息をついた。

 ジュリエットが稽古場に戻ると出演者たちの無言の視線が集まった。
 その視線の意味するところが、わかりすぎるほどわかるだけにジュリエットは内心苦笑をした。そして、軽く息を吸い込むと伸びやかな声を奏でた。
「どうなさったの、皆様? まるで死んだ私が生き返って戻ってきたような顔をして」
「皆、不安なのだよ、ジュリエット。君が姿を隠して何を企んでいるのか? どんな悪戯をするつもりなのか?」
 ジュリエットの声に答えたのはロミオであった。ジュリエット以上に動き回るロミオはシビアな操縦を続けて、操者はかなり疲労が蓄積しているだろうに表情にも声にもそんな色はまったくなかった。
「まあ! 私が悪戯を? とんでもない。そんな大それたことができる女に見えて? 十四にも満たない力もない私が、居並ぶ皆様に悪戯するなんて、とても考えられませんわ」
 ジュリエットは恐ろしいとばかりに神に祈りを捧げる。
「おお、神よ。この忘れっぽい娘に祝福を。パリスとの結婚を避けるために仮死の薬を飲み干して皆を騙した悪戯を忘れるほどに忘れっぽいとは! きっと、台詞はおろか、僕の名前ですら忘れているに違いない」
 ロミオの仰々しい嘆きの芝居に稽古場のくすくすと笑いが漏れた。
「名前を忘れる? 忘れるですって! ロミオ、忘れているのはあなた様。バルコニーの下で自分の名を捨ててしまったのではなくて? それとも、後でこっそり拾って帰られたのかしら?」
 やり返すジュリエットに隣にいた乳母が思わず噴出した。
「おお、その通り。僕はあなたの望むままに名前を捨てた。“恋人”という新たな名前を得たはずなのに、なぜだか、名を捨てることを望んだ人は本当に忘れっぽい。捨てた名前を呼び続けたので、あわてて地面に落ちていた名前を拾ったのです。全てはあなたの望むまま」
 一枚上手のロミオの切り返しに出演者はどっと笑い出した。ジュリエットは少し馬鹿にされている気分になって顔を赤くした。
「なんて意地悪なんでしょう! あなたは『蛇の心を持つ花の顔。美しい暴君。天使のような悪魔。ハトの羽をしたカラス。狼の心の子羊。高潔な悪党!』」
「ティボルトにも言ったが、『僕は悪党ではない』」
 ティボルトが殺された時にロミオをののしった台詞を使った決め台詞まで軽く台詞で返されてしまった。ジュリエットはそれ以上、先を繋げられず頬を膨らせて背中を向けた。
 ロミオはそれを見て、にこやかな顔をして他の出演者の注意を引くように小気味よく手を叩いた。
「さあ、あと少しで休憩はおしまいだ。準備万端整えて、ジュリエットにしたように観客たちを一泡吹かせてやろう」
 程よく引き締まった空気に戻り、練習再開に向けて準備を始めた。
「仲のいいあなたたちが喧嘩するなんて驚きよねぇ」
 尻尾を巻いて逃げ出したジュリエットに乳母が追いついて話しかけた。乳母を演じている早乙女はジュリエットの関根をよく知っているだけに、かすかな変化に気づいていた。
「喧嘩なんてしていなくてよ」
 ジュリエットは乳母に気取られないように、できるだけそっけなく答えた。
「でも、今日のロミオ様はなんだか妙にお嬢様に突っかかってくるから」
 乳母が不安そうな表情でジュリエットを見上げた。ジュリエットは少し困った表情を浮かべるしかなかった。
 乳母の言うとおり、他の人が気づかないところでジュリエットをサポートしていたロミオが今日に限ってはどこか突き放したようであった。ジュリエットと距離を置こうとしているのか、休憩時間もわざと避けているようにも見えた。そして、先ほどのやり取りである。
「見た目にはじゃれあいに見えていますのにね」
 ジュリエットは肩をすくめた。痴話ゲンカにも認めてくれない二人だけにわかる仲違い。派手に喧嘩するよりもストレスが溜まった。
 ジュリエットはロミオが心変わりしたのではないかと気が気ではなかった。だが、それを口にするのはジュリエットのプライドが許さない。
「離れていこうとするなら、惹きつければいい」
 ロミオの心を繋ぎとめようと自然にジュリエットの演技に熱が入っていた。恋焦がれるほどに。細川が今まで黙っていたのを、ここに来てジュリエットに注意したのは、その熱があまりに大きすぎたからであろう。
「何か思い当たることはございますの?」
 乳母はまるで親しい女友達を心配するような目をジュリエットに向けた。
「……そうね。多分、あれが原因だと思うのだけど……。すぐにはどうしようもありませんわ。でも、ばあや、安心してちょうだい。あなたのジュリエットは、ちゃんとしますわ。ええ、必ず」
 ジュリエットはおそらく、ロミオが先ほど自分が細川に言われたことと同じことを感じて距離を置いたのだと理解した。それ以外に理由は見当たらなかった。
「そうですか? それじゃあ、見守ることにしますが、ばあやはお嬢様の味方だっていうことを忘れずにいてくださいね」
 ジュリエットは乳母にお礼を言うと、乳母は自分の待機場所に戻っていった。ジュリエットは乳母の後姿を見送って、周囲に人のいないことを確認してから、小さな声でつぶやいた。
「ロミオ様のやり方はちょっと子供じみているけどね。でも、それがなんだかかわいく思えるって、これはかなり重症ね」

 翌日――
 関根は昨日とあまり変わらない時間に家を出て、まだ誰も来ていない劇場の前にやってきた。早いといっても一般社会的には少し遅めの朝と言える時間帯であるため、公園には人影が少なくない。
 今日の稽古は午後二時から始まる予定である。昨日の稽古で見つかった舞台装置の不具合を直すために稽古の開始を遅らせることになっていた。
 何人かの操者は細川から特別稽古を受けるため呼び出されているようだが、ジュリエットは機体整備のために早く稽古場に入ることを禁止されていた。
「我ながら馬鹿げていると思う」
 関根が朝早く劇場にやってきたのは稽古のためではなかった。昨日、ここで見かけた人物がもう一度同じ時間に来るかもしれない思ったからであった。柳の下の二匹目のドジョウを期待するようなものだということはわかっていた。だが、そうでもしなければその人物に会うことができない。
 関根は昨日、村上信二が通った小道のベンチに腰掛けて、おそらくは来ないと思いつつ待っていた。
 待っている間、台本以外の本でも読もうと持ってきていたが、読む気も起きず、公園を何も考えずに眺めていた。
 暑かった夏は遥か昔のように感じる涼しい風が枯葉と共に公園を駆け抜けている。公園中央にある噴水は涼しさを通り越して寒そうであった。
 少し離れたところにある芝生広場で遊んでいるのだろう、楽しげな子供たちの甲高い声が聞こえてきた。
 見上げると澄んだ空に白い雲が浮かび、太陽は透明な光を公園に落としていた。日陰は肌寒かったが、関根の座っていたベンチは日向にあり、程よい暖かさであった。
 関根は大きなあくびを一つした。睡眠時間が短くても大丈夫であったが、連日の稽古疲れは確実に蓄積していた。しかも、昨日は稽古が長引き、家に帰ったのが深夜だった。眠気の一つが出ても誰も文句は言わない。
 関根は現実と夢が混ざったような半分起きて、半分寝ている不思議な感覚に沈み込んでいった。少し、マリオネットにリンクする時の感覚に似ていると、起きている関根は他人事のように感じていた。
 まどろみの海を漂っていた関根はどこかで女性の黄色い声が聞こえた気がした。錯覚かと思ったが、もう一度ひときわ大きく聞こえたので、そこで完全に目を覚ました。
 周囲を見渡すと、十数メートル離れたところに人だかりができているのを見つけ、目と耳を凝らしてみた。
「ムラシンーっ! こっちむいてぇー」
 どうやら二匹目がいたらしいと関根は飛び起きて、その集団の方へ駆け寄った。しかし、集団の側までやってきたものの、女性ばかりが十重二十重に囲んでいるとあっては無理やり分け入ることもできないでいた。
 躊躇していると黄色い声に混じって大きなだみ声が彼の耳に飛び込んできた。
「村上さん! 一言、お願いします」
 聞き覚えのある声。よくテレビのワイドショーで芸能レポートをしている名物レポーターの声であった。
「マリオネット演劇で武者修行を重ねているっていうのは本当ですか!」
 レポーターの質問に関根の体がびくっと反応して、耳に神経を集中した。
「へぇー、そうなんだ」
 ちょっと気だるい、やる気のない返事が聞こえた。間違いなく、テレビで聞いているムラシンの声である。
「武者修行が終われば、ついに映画進出ですか?」
 レポーターは相手の返答に関係なく質問を重ねた。さすが芸能レポーター、有名タレント相手でも物怖じはしていない。
「あー、そういう話もあるかもね」
「では、マリオネット演劇に出演されているのは本当なのですね?」
「さあね。どうだろう」
 はぐらかすような回答でありながら、ほぼ肯定しているような香りが含まれている。それを感じてレポーターのテンションは高まっていた。
「では、今度の細川忠則演出の『ロミオとジュリエット』に出演されると言うのも本当なのですね?」
「あたし、知ってる! ムラシン、ロミオ様なのよね! ジュリエットになりたーい!」
 興奮したのはレポーターだけではなかったようで、ファンの一人がそんなことを口走った。それを聞いた関根の鼓動が急に早くなった。
 ファンの女の子たちは、口々に「私もなりたい」「ジュリエットの人、うらやましい」など騒いでいた。まるで、村上信二がロミオであることが疑いようもない真実のように。
 騒ぎはなかなか収まらず、まるでジュリエット役のオーディションでもしているかのように、女の子たちは「自分こそがジュリエット」と熱く主張していた。
 関根はその様子に「僕がジュリエットと知ったら、殺されかねないな」と少し背筋に冷たいものが走り、後退りそうになったぐらいである。
「君たちなら誰でもジュリエットになれるぜ。バルコニーで愛の告白をしてくれればな」
 ムラシンのリップサービスにファンは悲鳴まがいの声を上げた。関根は鼓膜が千切れそうな破壊力ある高周波に顔をしかめながらレポーターの次の質問を何とか聞き取った。
「村上さん、ファンの人たちが言うとおりロミオ役という噂があるのですが、それについて一言!」
「おいおい。それは聞いちゃいけないし、言っちゃいけないタブーなんだろ? ルールは守ろうぜ」
 今度もはぐらかす返答であるが、これも肯定に聞こえなくもない。レポーターはそれで十分と判断したのだろう、人だかりを掻き分けて、早速つかんだネタをレギュラー番組の放送に載せるべく携帯であわただしく連絡を取りつつスタッフと共に公園を去っていった。
 残されたムラシンはファンを引き連れるように劇場の方へと歩いていった。関根はその後を追うのはやめて、もといたベンチに戻って身を投げ出すように腰掛けた。充実感と疲労感が心地よく混ざり合った気分に少し酔いしれていた。
 ムラシンに聞きたいことは図らずとも聞けた。関根にはそれだけで十分であった。
 高揚していた気分が幾分落ち着いた関根は隣に見覚えのある女性が座っているのに今更ながら気がついた。
「おはよう。また会ったわね、お兄さん」
 彼女はショートカットの髪が朝の日の光を柔らかに反射させ、今朝の天気のように爽やかな微笑みを浮かべていた。昨日、関根がムラシンを追いかけ、劇場のエントランスホールで出会った女性であった。
 関根は「おはよう」と返事をして、劇場に入るため、ついてきたファンの女の子達に別れの挨拶をしているムラシンの方を見やった。それから、ふと、隣の女性のことを思い出した。
「いいのかい?」
 関根は短く彼女に訊いた。
「なにが?」
「ムラシン。いっちゃうよ」
 ひときわ大きな歓声が聞こえた。ムラシンが、また何か言ったのだろうということは容易に想像できた。サイン嫌いの割にはそういうサービスは気前がいい。
「そうね。劇場に入るみたいね」
 彼女の答えは意外なほどそっけなかった。
「追いかけなくていいの? 君ぐらい美人ならサインもらえるかもしれないよ?」
 昨日は細川と一緒だったので遠慮したのだと勝手に思い込んでいた関根は、自分がムラシンを追いかけていたことも忘れて後押しした。
「別に興味ないし」
「そうなんだ」
 意外な返事に少し驚いている関根に、彼女は向き直って不機嫌そうな視線を向けた。
「村上信二って言えば、どんな女の子も夢中って思っているのよね。でも、それって大間違い。変なタレントを口にして、センス悪いと思われたら嫌だから、とりあえず『ムラシン』っていっとけば無難かなって娘も多いのよ」
「へぇ、そうなんだ。でも、男の僕が見てもかっこいいと思うんだけどな」
 関根は意外な事実を聞かされて驚きはした。だが、それ以上に彼女が不機嫌そうにしている方に興味が引かれて、会話を繋いだ。
「そりゃあ、かっこうはいいわよ。だけど、だからファンになるとは限らないでしょ?」
 彼女は欧米人がするように少し仰々しく肩をすくめた。
「まあ、そうだね」
 口では同意しているが、表情は同意しかねていた。それを見取ったか、彼女はこれまた、少し大げさにうつむきながら首を振った。
「というか、私はどっちかというと嫌い。だって、思いっきりナルシストなんだもの。そういうのって、私はダメ」
 最後は腕をクロスさせて眉根を寄せた。オーバーアクションではあったが、それなのに彼女の動きはごく自然で、よっぽど嫌いらしいことが良く伝わった。
 関根は自分がこの話を続けさせたことを棚に上げ、彼女がムラシンを拒否していることに対し心の中に漣が立った。
「でも、仕方ないんじゃないかな? あれぐらい男前ならナルシストにもなりたくなるよ」
 関根はマリオネットに入っているとき、自分のマリオネット姿に見惚れることもあると思い出して弁護した。
「でも、ナルシストってことは自分自身に欲情しているってことでしょ? ということは、ホモってことよね――お兄さん。ムラシンのファンみたいだけど、チャンスあったりして」
 彼女はなにやら必死で弁護する関根に笑いながらからかったが、言われた関根は顔を赤くした。
「からかうな! 何も知らないくせに!」
 関根は顔を赤くした恥ずかしさを隠すために怒ってみたが、余計にむなしく切なくなった。
「いや、そうじゃない。……そんなわけないだろう。ムラシンはムラシンぐらい男前だから自分が好きなんだ。僕みたいな醜男を好きになるわけないだろ!」
 昨日の稽古でロミオとの距離が生まれたことも思い出して泣きたい気分がこみ上げてきた。
「からかったりして、ごめんなさい」
 涙が滲むのをこらえていた関根に、彼女は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「あなたのことを何も知らずに傷つけてしまって。ほんと、私はあなたのことを何も知らないのに」
 素直に頭を下げられてしまったために、関根は急に冷静さを取り戻した。
「いや、こっちこそ急に怒って悪かった。冗談を真に受けるなんて、どうかしてた」
 お互いが謝って妙な沈黙が二人の間に流れた。居心地の悪い空気に二人はほぼ同時に苦笑を浮かべた。
「お兄さん、朝ごはん食べてないでしょう? 私もなの」
 彼女は突然に話を変えたため、関根は鳩が豆鉄砲を食らったかのようにぽかんとした。
「ということで、朝食をご馳走してくださらない?」
「なんで僕が?」
「だって、悪かったって謝ったでしょ? なら、それぐらいしてくれてもいいんじゃない?」
 悪びれずもせずに彼女は言うとベンチから立ち上がって、くるりと関根に向き返った。
「だからって」
「まったく。女の子が勇気を振り絞って逆ナンパしているんだから恥をかかせないでよ」
 彼女はおませな女の子が精一杯背伸びした後にするように、恥ずかしさと不服で軽く口を尖らせた。
「えっ? あっ……」
「文句はないわね」
 半ば強引に彼女に腕を引かれ、関根はあれほど重たかった腰をベンチから上げた。
「私は志穂。お兄さんは?」
「ええと……関根。関根義孝」
 志穂は今日の天気のように穏やかに微笑んだ。関根はその表情に一瞬、鼓動が跳ね上がった。
「この笑顔。どこかで見たような……」
 関根がその記憶を思い出そうとする前に再び腕を強く引かれた。
「じゃあ、関根さん。行きましょう」
 志穂は行き先も聞かずに歩き出して、関根はその後を戸惑いながら追いかけた。
 腰を上げたはいいが、関根は小洒落た店を知っているわけでもなく、知っていたとしてもまだ午前中であるから開いている可能性は低かった。
 遅めの朝食、早めの昼食。微妙な時間と関根の経験値の低さが導き出した結論は、手近ないつもの店――公園内にあるオープンカフェであった。
「いらっしゃいませ。あっ、関根さん。おはようございます。今日も早いんですね」
「あ、ああ。ちょっとね」
 ウェートレスの佐代子に声を掛けられ関根は戸惑い気味に言葉を濁した。
「いつもの席でいいですか?」
「ああ、大丈夫。えーと……二人なんだけど?」
 関根は挙動不審に、少し後ろにいる志穂を視線で示した。
「大丈夫ですよ。というか、珍しいですね。誰かと一緒なんて」
 佐代子の軽い驚きに関根は居心地悪そうに視線を泳がせた。さすがに佐代子も何か気づいて、にっこりと微笑んで二人をいつもの席へと案内した。
「クラブサンド、あるかしら? フライドポテト付きの」
 席に座るやいなや、志穂はメニューも見ずに注文した。
「はい。ございますよ」
「じゃあ、それで。あと、ハムトーストも追加で。飲み物はブレンドコーヒーのホットをお願いね」
「かしこまりました」
 一礼した後、佐代子は迷ったように関根の方を見た。
 関根はいつもここで何か食べる時は十分すぎるほど時間をかけてメニューを選んでいる。そのことを知っている佐代子としては注文を聞いていいものか迷うのも当然であった。
「え、えーと……僕は、BLTサンドとホットコーヒーをお願いします」
 さすがに関根も女性を連れて、決断力のないところを見せるほど空気を読めない男ではなく、関根にしては即決した。
「かしこまりました」
 佐代子が少しほっとした表情を浮かべて、もう一度一礼して下がっていった。
 関根は何かしゃべらないといけないと思いつつも、ほとんど初対面の年頃の女性と共通の話題など思いつきもしなかった。
 志穂の方はそれを百も承知でわざと黙って微笑んでいた。その笑顔はまさに――
「ほら。ちゃんとエスコートしてみなさい。男の子でしょ」
 とでも言っているようなものであった。実際、その読みはまったく間違っていない。
 関根は猫にいたぶられて追い詰められたネズミの心境で冬にもかかわらず、嫌な汗が背中を濡らしていた。
「ちょっと、失礼」
 間が持たない圧力に耐えかねて関根はさしてもよおしてもいないのにお手洗いに向かった。
 テーブルで思いつかない話題がお手洗いで思いつくはずもない。関根は美女と同席しているとは思えない重い足取りで意地の悪い彼女の待つテーブルに帰ろうとした。
 その関根を佐代子が呼び止めた。そして、手を拭くための使い捨てのおしぼりを彼に手渡した。
「ありがとう……」
 茨でできた椅子に戻るのが少し伸びたことに心の底から感謝しつつ関根はおしぼりを受け取った。
「関根さん。何やってんですか! しゃべらないとだめじゃないですか。せっかくのチャンスなんですよ」
 佐代子は笑顔を崩さずこめかみに青筋を浮かべ、関根にしか聞こえないぐらいの小声で駄目出しをした。
「そんな事言ったって、君たちみたいな若い女性とおしゃべりするような話題は持ってないし、仕方ないじゃないか」
「あー、もうっ。世話の焼ける。いい? 関根さんにオシャレで小洒落た話題なんて全然期待してないから」
 はっきりと言い切られて関根もさすがにむっと来たが、それがあまりにも事実過ぎて一言も言い返せずに「うぐっ」と小さく唸るのがやっとの抵抗であった。
「だから、関根さんは関根さんの好きなことを話せばいいの。舞台とかお芝居とか。それで駄目なら所詮、高嶺の花って諦める。当たって砕けないであんな美人をゲットできるなんて虫が良すぎるわよ」
 ますますもって失礼千万だが、的を得すぎたアドバイスに関根は半ば打ちのめされて、逆に吹っ切れた。
「ありがとう。そうだね、がんばってみるよ」
 関根は穏やかな苦笑を浮かべてテーブルに戻っていった。
「あの美人をゲットするなんて発想、佐代子ちゃんに言われるまで想像もしていなかった。まあ、ゲットできないまでも、少しぐらい優越感に浸るのもいいか」
 関根はテーブルに戻る道すがら、そう思って気を楽にしていた。そんな後姿を佐代子は黙って見送っていた。
「敵に塩送るとは。男前過ぎるぞ、佐代子」
 佐代子と同僚のウェートレスが、後ろから佐代子の肩に腕をかけた。
「そんなんじゃないわよ。関根さんは頑張っているんだから幸せになってほしいだけなんだから」
 佐代子の声は少し曇っているのに気づいて、声をかけた同僚は横を見ないでおくことにした。
「そういうのを男前って言うんだぞ。あたしが惚れちゃうじゃない。責任とって、今日は仕事終わったら遊びに連れて行ってよね」
「わかった。……ありがとう」
「じゃあ、給仕はあたしがするから、ちょっと休憩しておいで」
 佐代子は黙ってうなずくと、小走りに奥の休憩室に下がっていった。
「しかし、鈍い人よねー。佐代子があれだけ好き好きオーラを出してるのに。報われないわ」
 佐代子を見送ると、注文のサンドイッチなどを用意しながら軽くため息をついた。
「佐代子にここませさせて、決めなきゃ男じゃないぞ、関根さん」

 関根が席に戻ると美女の笑顔が彼を迎えてくれた。
 ただし、その笑顔の意味は「作戦会議は終わったかしら?」であったが。関根はその意味を意識的に無視した。
 関根は佐代子にもらった勇気が磨り減ってなくなってしまわないうちに口を開いた。
「正直な話、僕はあまりこういう経験がないんだ。何を話していいかよくわからない」
「そうね。あまり、モテそうには見えないわね」
 志穂は両肘をテーブルについて、組んだ手にあごを乗せ、楽しそうに関根の言葉に微笑んだ。絵面だけ見れば恋人同士にしか見えないのだが。
「はっきり言うね」
「海外が長いからかしらね。こっちに帰ってくるとよく言われるわ」
 志穂はわざとらしく外国人のように肩をすくめて小首を傾げて見せた。
「海外か。ブロードウェイにラスベガス。ヨーロッパのマリオネットオペラ。いつか、見て回りたいな」
 志穂が帰国子女と聞いて、それが本当か嘘かは別にして関根は前々から思っていたことを口にした。
「関根さんは演劇が好きなの?」
「好きどころか、役者だよ。これでもちょっとは名の知れたマリオネット操者なんだよ」
 関根は軽く胸を張って見せた。日本一とは言わないまでも、中堅では五指に入ると思っていた。
「日本ではマリオネット操者の名前は公表しないことになっているんでしょ? それなのに名が知れたなんて面白い事いうわね」
 志穂がからかうように指摘すると関根は一瞬、むすっとしたが、すぐにため息を吐いた。
「仰るとおりだよ。業界とマニアの間にだけだよ、名が知られているのは」
「不満ならアメリカに行けばいいのに。アメリカは名前を公開しているわよ」
「簡単に言うね」
 先日の青木と同じ言葉に関根は薄く笑みを浮かべた。
 彼女の短絡を笑ったというよりも、若さを羨んでの笑みであった。だが、それを見た志穂はそう受け取らず、馬鹿にされたと眉根を少し吊り上げた。
「簡単じゃない。今から空港に行って、ニューヨーク行きの飛行機のチケットを買って、飛行機に乗るだけ。十三時間後には憧れのニューヨークよ。パスポートとチケットを買うお金があればの話しだけど」
「それぐらいは持っているよ。それと、先に言っておくけど、英語は少しは話せるよ。通訳のバイトができるぐらいにはね」
 いつの日かブロードウェイの舞台に。そう思って、英語の勉強は続けていた。生きた英語を身につけるために、英会話教室だけではなく、ネットのチャットで海外の人間と話したり、通訳のバイトも定期的に入れていた。
「じゃあ、何の問題もないじゃない」
「残念ながら度胸がない。今、僕は日本で認められかけている。大きな失敗をしない限り、僕は生活に困ることはない。この安定した生活を捨てることを、正直怖がっているんだよ。不満はあるくせに臆病なんだよ」
 舞台に立てば、マリオネットを操れば、無限と思えるほど湧き出てくる勇気が生身に戻れば、意気地のない冴えない男になってしまうことを再確認して、悲しくなってきた。
「それは当然のことよ。臆病なんかじゃない。……あー、また、言い過ぎたみたいね。私はいつもこうだから」
 志穂は軽く自分を責めて、いつのまにか配膳されていたサンドイッチを一口食べた。
「いや、暗い気分にして悪かった。せっかく、天気のいい日の朝食なのに」
 関根も自分の分のサンドイッチを手にとって口に運んだ。
 それからは志穂の方から話を振って、他愛のない会話が続いた。サンドイッチもトーストもなくなり、コーヒーもあと一口ぐらいになった時、ふと志穂がまじめな表情をした。
「ロミオとジュリエット。もし、二人が出会わずに、お互いが別の人と結ばれていたら、幸せになっていたかもしれないわね。二人とも有力家の跡継ぎですもの」
 志穂はオープンカフェの正面にある劇場の方を見た。
「それはどうかな?」
 関根は志穂の言葉の真意を測りかねたが、自分の中のジュリエットを見つめて志穂の言葉を否定した。
「ジュリエットはロミオに出会えて幸せだった。彼女は、自分の身を省みずに彼への愛に生きた。たった十四歳、何も知らない少女の若さゆえのことかもしれない。でも、ロミオとの数日の時間は他の人が思うほどジュリエットにとって価値は低くないものだったと思う。それからの人生を引き換えにしても惜しくないほどね」
「でも、死んだら意味がないわ。生きてこそよ。ロミオがもし死んでからでも口が利けたら、ジュリエットの死は望まない。自分が死んでしまってもよ」
 志穂は語気を強めた。だが、今度は関根はそれをまっすぐに受け止めてまじめな顔でうなずいた。
「それはジュリエットも同じだよ。でもね、ジュリエットは先に死んでいるんだ。パリス伯爵と結婚するのは死んでもいやだと薬を飲んでいる。生き返れる薬としても、それが本当かどうかは確かめようがない。そんな薬をね」
「救われないわ」
「まったくだね」
 しばらくの沈黙が流れ、関根はコーヒーカップから最後の一口を胃へと流し込んだ。コーヒーの苦味が会話と同じように口の中に広がった。
「誰でも」
 志穂は不意に口を開いたが、一度考え込むように口を閉ざした。それから再び――
「誰でも、運命の人と出会ったら、それまでの生活どころか、命までも捨ててしまえるほど燃え上がるのかしら?」
 志穂の質問に関根の心臓が大きく跳ね上がった。だが、関根は無理やりそれに気づかないふりをして、とっくに空になっているコーヒーカップをあおってソーサーに戻した。
「人によるんじゃないかな? 僕はそこまで運命の出会いをしたことがないから何とも言えないけどね」
「ありがとう。変なことを聞いてごめんなさい」
 志穂の言葉に関根は首を振った。そして、おもむろに時計を見ると、そろそろ稽古の集合時間が迫っていた。
「慌しくて悪いけど、僕はそろそろ行かないと。志穂さんはゆっくりしているといい。注文を追加してもらっても、ここは僕のツケがきくから」
 関根はテーブルの上の伝票を取り上げて席を立ち上がった。その時にジャケットの内ポケットに入っていた封筒の存在を思い出して、少ししわのある封筒を取り出した。
「これ。昨日と今日のお詫びに。僕が出る舞台のチケット。暇なら観に来て」
 関根はスタッフに配られた『ロミオとジュリエット』の招待券が入った封筒を志穂に手渡した。
 志穂は封筒を受け取り、中を確認してから関根を見返した。さほど高くないとはいえ、会ったばかりの人から貰うにしては高価である。
「こんなの貰ってもいいの?」
「いいよ。どうせ、あげる相手を探してたんだよ」
 女役に抵抗はなかったが、知り合いに見られるのは少し気恥ずかしい。とはいえ、自分が主役の大きな舞台である。捨てるのも忍びない。それゆえにジャケットのポケットに入ったままになっていたのであった。
「じゃあ、遠慮なくいただくわ。ありがとう」
 志穂は丁寧にお辞儀をして、バックの中にチケットを仕舞った。
 関根は志穂に別れを告げ、支払いを済ませると劇場の方に歩き出した。
「お芝居、がんばってね。ジュリエット、期待してるわよ」
 志穂はにこやかに手を振って関根を見送った。

 公演前の最後の稽古が終わって調整室に戻ってきたジュリエットは少し表情を曇らせた。
「丸山様。足首の痛みが徐々にひどくなってきていますの。明日から三日間、大丈夫かしら?」
 おとといの右足首の違和感がはっきりとした痛みに変わってきていた。丸山は調整用のベッドに乗るように彼女に指示すると簡易測定器を持って足首を調べ始めた。
「うーん、炎症が進んでいるようには見えないが……。ちょっと触るね。これは痛い?」
 少し足を動かして様子を見た。
「いえ、そんなには」
「じゃあ、こっちは?」
 別の角度に足を動かす。
「あっ! そちらは少し痛いですわ」
 丸山は手を離して、簡易測定器の波形をチェックした。しばらく、画面をにらんでから顔を曇らせた。
「精密検査しないとはっきりと言えないけど、腱の内側で炎症が進んでいるようだね。困ったな。薬も利いてたし、冷却循環で十分だと思ったが、意外に重症だったな」
 丸山は自分の診断ミスに苦い顔をした。彼の名誉のためにいうと、内部の炎症はわかりづらく、現在もそのあたりの改良と診断方法が研究されているが、決定打は出ていない。この炎症は人工筋肉を使ったマリオネットの宿命であった。
「どうにかなりません?」
「変性反応が出ていないからまだ大丈夫だろうけど、三日六公演は正直、このままでは無理だな」
「そんな……」
 ここで腱の交換をしていたら、交換自体は公演に間に合うだろうが、ぶっつけ本番になる。しかも、ダンスのある舞踏会のシーンは序盤である。経験豊かなジュリエットでもかなり不安であった。
 結局、二人で考えていても仕方ないと演出の細川と舞台監督の石山、プロデューサーの小島を呼ぶことにした。
「きみぃ! 困るんだよ、そんなことでは! 整備は君の仕事だろう!」
 事情を聞いた小太りの男、プロデューサーの小島はマリオネット技師の丸山を茹でダコになりながらののしった。それも仕方ないことで、公演直前に主役の怪我など悪夢以外のなんでもない。
「まあ、小島さん。怒っても仕方ないことですよ。マリオネット演劇ではよくあることです」
 舞台監督の石山は山男のような大きくがっちりとした身体で、見た目どおりどっしりと落ち着いてプロデューサーをなだめた。
「すいません。僕が甘く見たばっかりに」
「それはもう済んだことだ。それに難しい判断だっただろうからね。で、私は技術的なことは専門外なので確認したいが、交換するとして問題点は?」
 細川が石山がプロデューサを抑えている間に話を進めた。
「交換自体は今晩徹夜ですれば、調整も含めて明日の昼公演には間に合います。ですが……」
「慣らしはできないからぶっつけ本番か」
 細川もさすがに不安な表情を覗かせた。普通の機体ならまだしも、扱いづらい“ジュリエット”をぶっつけ本番は乗りたくない賭けであった。
「それと明日の朝は『おはよう目覚ましズームイン』に出演して、宣伝の予定だからな」
 石山は更に渋い顔をした。
「そうだった。チケットは?」
「昨日のムラシン騒ぎがあって結構売れたが、当日券でもう少し稼ぎたいな」
 ムラシンがロミオ役かもしれないというワイドショーのニュースで問い合わせが殺到して、前売りの駆け込みがかなりあってほぼ完売した。だが、追加公演を狙いたいのが小島プロデューサーの思惑であった。
「当然だ。何のためにキミに演出を頼んで、超一流の高いマリオネットを用意したと思っているんだ」
 小島が再びわめきだした。正直に言うと、彼の企画した三日昼夜公演で稲川記念劇場大ホールは箱が大きすぎたのであった。値段的にも高いチケットであったので、前売り完売で十分成功だったが、売れればもっと儲けたいのは人情であった。細川としても追加公演は認められたという象徴でもあり、金銭はともかく興味はあった。
「丸山。交換以外に手はないのか?」
「強めの炎症を抑える薬剤を循環させれば、なんとか最終公演まで持ちこたえるかもしれませんが、正直、自信はありません。公演が四、五回なら大丈夫なんですが」
 丸山は自分の技術を全てつぎ込んでも、それが限界とうなだれた。
「ふむ……非常用のドーピングがあっただろう? 最終公演はそれを打てば何とかなるんじゃないか?」
 石山が何度か使った最終手段を思い出した。丸山もその薬は知ってはいたが、問題が多いことも知っていた。
「ええ、でも、あれは限界を超えないと使えないんです。炎症が限界まで達して、リミットがかかって腱がフリーの状態――つまり、ブランブランになってからでないと効果がありません。もともと、あの薬はリミットを越えて無理をさせる薬なので」
「つまりは、舞台の上でこけてから袖に運び込んで、ドーピングしてから舞台に復帰して芝居を続けるってことになると」
 細川はそのシーンを想像して苦笑した。
「はい。そうなります」
「そうだったな。前のときも先に負荷をかけてわざと限界にして舞台裏で使ったんだった」
 石山も今更ながらそのことを思い出して渋い顔をした。
「だが、仕方ない。今回もそれで行きましょうか」
「ただ、非常用のドーピングをした場合、おそらく脚一本分の人工筋肉はダメになります。そういう薬なんで」
 丸山は更にもう一つある問題点を示した。その副作用も知っている細川と石山は驚きもせずうなずいた。
「それも仕方ない。脚の一本ぐらいくれてやろう」
 人工筋肉は決して安くないが、ジュリエットの細い足ならそれほどでもないとタカをくくった。
「仕方ないものか! ジュリエットに使われている人工筋肉がいくらするか知っているのか! 脚一本? 興行を赤字にするつもりか!」
 小島は茹で上がり完了のタコのように顔を真っ赤にした。その発言に細川と石山が顔を見合わせて、丸山の方を見た。
「“ジュリエット”の人工筋肉は、ラゾルシーム社のゴルバティCS228です。ジュリエットが本気で蹴れば人間を簡単に肉団子に変えれますよ。まあ、安全装置はかけてありますけど」
 品質と性能と高価格のラゾルシーム社。その中で最高級のゴルバティCSシリーズといえば、マリオネット一体分の人工筋肉で豪邸が建てられるほど高価であった。
「どこのどいつだ……こんな酔狂なもの作ったのは……」
 細川は頭を抱えたくなった。演劇用のマリオネットにはオーバースペックもいいところである。
「とりあえず、そういうことなら腱の交換が一番だな」
 石山は不安を感じつつ苦渋の選択をした。しかし、細川がそれに異を唱えた。
「いや、交換しないでいこう」
「細川!」
「石山。舞台のクオリティーを考えるなら交換はなしだ。――ジュリエット。君の意見を聞かせてほしい。交換して慣らしをしないで舞台を踏めるか?」
 蚊帳の外に放り出されていたジュリエットは突然、細川に呼ばれて、しばらく返事に戸惑ったが答えは決まっていた。
「踏めというのであれば――でも、正直な私の意見を言わせて貰うのなら、自信はありませんわ」
「決定だな。責任は俺が持つ。危ない橋を渡ってくれ」
 細川はにっこりと微笑むと石山の肩を叩いた。
「まったく、お前というやつは。ジュリエットの万が一に備えてフォローできる体制を整えておくよ」
 石山は苦笑を浮かべて、肩の手を軽く叩くと調整室を出て行った。
「ドーピングは認めんぞ! 絶対認めんからな!」
「善処します、小島プロデューサー」
「認めんからな!」
 小島はまだ興奮気味に怒鳴り声を上げたが、細川に促されて、調整室を出て行った。
「というわけで、丸山。大変だが、そういうわけだ。やってくれるな?」
 調整室を出る間際に細川は丸山に確認した。
「ありがとうございます。やってみます」
「頼んだぞ」
 細川がドアを閉めると嵐の後の静寂が調整室に訪れた。
「さあ、忙しくなったぞ」
 丸山は気合を入れて、調整装置に向かおうとしたが、ジュリエットに袖口をつかまれた。
「ジュリエット、悪いけど、ふざけている時間はないんだよ。少しは炎症を抑えるように処置しないと」
 丸山は苛立ちをあらわに眉をしかめて、眼鏡の位置を直した。
「それはわかっていますわ。でも、その焦りで慎重さを欠いては何もできないのではなくて?」
 彼女は苦笑交じりに装置横手のスリットを指差した。最初、丸山は何のことか意味がわからなかったが、すぐにその意味に気がついた。
「カードを抜いていたんだった。すっかり忘れていた」
 丸山は自分のポケットからカードを取り出してスリットに差し込んだ。
「素人のプロデューサーが来るからスイッチとかを触られないようにロックしておいたんだった。忘れてたよ。ありがとう、ジュリエット」
 マリオネットはデリケートであるため、調整室の機器を下手にいじられるとマリオネットを操縦している人間が非常に危険であるため、技師以外が機械を触れないようにブロックする仕組みがあり、ロック解除するためのカードキーが備え付けられていた。
「生体認証だけにしてくれると楽なのにな」
 ロックをはずすためにはカード以外に手の静脈による生体認証が必要であった。
「ふふ。たぶん、今の丸山様のように頭に血が昇らないようにカードも必要にしているんじゃないのかしら?」
「まったく、返す言葉がないよ。それじゃあ、整備に入るからリンクを切るよ」
 降参と手を上げて、ジュリエットを関根義孝に戻す作業に取り掛かった。

 全国放送の朝のニュース番組『おはよう目覚ましズームイン』は安定した視聴率を誇る長寿番組であった。
 大仏のような顔をしたメイン司会に、怪しい蝶ネクタイのアナウンサー、たどたどしいお天気お姉さんが番組を進行し、道路に面した壁がガラス張りのサテライトスタジオでの生放送であった。さらに、エレクトーンの生演奏によるBGM。何故かウサギのマスコットがスタジオをうろつくなど、ニュースよりもワイドショー的な要素が強い番組である。
「今日はお客様に来ていただきました。演出家の細川忠則さんと出演のマリオネットの皆さんです」
 司会者に紹介されて細川とともにロミオとジュリエットがスタジオに姿を現した。眩しい照明と複数のカメラが彼女らを追った。
 ジュリエットは右の足首に負担をかけないように金属フレームで固定された状態だったが、話すだけならば別に問題はないし、ドレスで足元は見えない。澄ました表情でロミオの傍らに寄り添っていた。
「細川さんは今回、今日から公演となる稲川記念劇場大ホールでマリオネット演劇『ロミオとジュリエット』の演出をされるらしいですね」
「ええ、こんな大きなホールの舞台で演出を任されるのは緊張しますね」
「手ごたえの方はいかがです? 『ロミオとジュリエット』といえば、昨年、和田智明氏が斬新な解釈で公演して話題となりましたが」
 司会者が番組を面白くしようと、少し挑発的な態度であった。しかし、それを軽く余裕の笑みで細川は受け流した。
「そうですね。私は彼のように独創力が欠けますから、オーソドックスなものですよ」
「また、そんなご謙遜を。それでは、主役のマリオネットさんたちにも一言いただきましょうか。今回の舞台の意気込みをお聞かせ願いますか、ロミオさん?」
 朝の生番組で時間が限られていることもあり、司会者はあっさりと別の話題に移した。
「皆さんよくご存知のスタンダードなお話ですから、少しでも期待に添えないと非難されそうで内心びくびくしています。ですが、そこにいらっしゃいます細川さんにみっちりとしごかれましたので、きっとお客様に満足いただけるものと思います。どうか、皆様、お誘い合せの上ご来場ください。お待ちしております」
 ロミオはそつのない返事を返してにっこりと微笑んだ。色男は口ではなく微笑だけで話ができるよい例だろう。
「では、ジュリエットさん。素敵なロミオ様ですが、思わず惚れちゃうことはありませんでした? 本物のジュリエットのように」
 アシスタント役の女子アナウンサーのずれた質問にジュリエットはしばらく真面目な顔で考え込んだ。そして、おもむろに答えた。
「ええ、それはもう何度も」微笑をこぼし、「なにしろ、毎日恋に落ちて、愛に死んでおりますもの。もう、すっかり慣れっこですわ。それに、私よりもロミオ様の方が私にメロメロですもの」
 いたずらっぽく笑顔を向けると蝶ネクタイのアナウンサーは顔をだらしなく伸ばしていた。
「そ、そうですか。それは失礼しました。えーと、時間がまだあるということなので、せっかくですから、ロミオとジュリエットのダンスをお願いできますか?」
 司会者のお願いに一瞬、三人の表情がこわばりかけたが、何とかそれをこらえて笑顔を保った。
 ダンスをするなど、打ち合わせにはなかったことである。もし、打ち合わせでお願いされていれば、間違いなく断っていた。本心はこの時間も“ジュリエット”を整備しておきたいぐらいであったぐらいであった。
 当然、ダンスなどできるわけがないと、細川は丁重にもっともらしい理由をつけて断ろうとしたが、その前にジュリエットが割り込んだ。
「よろしくってよ。でも、何を踊れば? チャチャ? サンバ? タンゴ? サルサ? まさか、ランバダ? できれば、ワルツをお願いしたいわ」
「ええ、もちろん。ワルツをお願いします。それでは時間もありませんし、早速お願いします」
 司会者の言葉にスタジオの中央がステージに変わる。その手際に、どうやら、ゲストである彼らが番組側にはめられていたことを再認識したが、今はそんなことを行っている場合ではなかった。
 ロミオは作られたスペースを見ながら、ダンスには少々狭いがステップさえ工夫すれば何とかなりそうだと判断した。しかし、ロミオにはそれよりももっと重大な懸念があった。
「いったいどういうつもりだい、ジュリエット」
 マリオネット同士にしか聞こえない通信でロミオはジュリエットの無謀を責めた。
「あら? 私をフォローしてくれるのでしょう? ぶっつけ本番よりも練習した方がよろしいのではなくて?」
 ジュリエットはロミオの手を握り、肩に手を置いた。ロミオもジュリエットの腰に手を添える。社交ダンスのオーソドックスなポジションを取った。
「忘れているのかい? これも本番だよ」
 音楽が流れ始めた。ゆっくりしたテンポのワルツの調べに合わせてステップを踏む。といっても、ジュリエットは周りに気づかれないようにロミオの手と肩につかまって、ほんの少し身体を宙に浮かせている。マリオネットの力があって可能な荒技だった。
「これぐらいの緊張感があった方が身が入るでしょ? 大丈夫。ダメっぽかったら、うまくごまかすわ。いきなり予定にないことを言ってきたんですもの。少々、痛い目にあっても文句は言えないわよ」
 文字通り、宙を舞うように踊るジュリエット。二人分の体重を支えていながら軽快に淀みのないステップを踏むロミオ。猥雑なスタジオに社交界の美麗な空気が漂う。
「ジュリエット。君にかなうものがいるとすれば、それこそ史上最強だよ」
 余裕が出てきたのか、ロミオは軽くジュリエットをターンさせてみたり、リフトしてみせる。
「あら? 私なんて、ロミオ様の愛の前にはただの無力な小娘よ。私が強いとおっしゃるなら、それはロミオ様への愛がそうさせているのよ」
 ジュリエットが笑顔とともにロミオにウィンクすると、フロアディレクターが『ダンス終了。次のコーナーに』の指示を書いたスケッチブックが目に入った。
 二人は音楽の止まるタイミングを読んで決めのポーズをとって、ダンスを終えた。スタジオに拍手が沸き起こり、そのあとは女子アナウンサーが当日券のあることや問合せ先をお知らせして、テレビ出演は終了した。
「まったく、ひやひやさせる! 寿命が縮んだぞ」
 控え室で細川はジュリエットをしかりつけたが、どこかしら口調は柔らかかった。
 それというのも演出家の和田智明は彼のライバルで、このテレビ局主催の舞台を何度もプロデュースしている。おそらくは予定にないダンスはそのあたりからの圧力なのだろう。プロデューサーの小島もこの番組への出演は半ば強引に取ってきたらしいので、そのあたりも反感を買っていたのかもしれない。
 しかし、それもジュリエットの無謀なダンスのおかげで逆によい宣伝になったわけである。
「でも、これで練習ができましたし、いつ足が不調になってもばっちりですわ」
 ジュリエットもそのあたりの裏事情を心得ており、細川の叱責を柳に風で受け流して、しれっと返した。
「君には負けるよ」
 細川はジュリエットの肝っ玉に完敗の意思を示した。ロミオもそれに同意してウンウンとただ頷くだけであった。
「恋する乙女は強いのですもの」
 ジュリエットはにっこり微笑んでだらしない男性陣に勝利宣言をした。

 関根は劇場の裏口から外に出た。今夜は満月で月明かりが公園の照明に負けないほど明るく影を落としていた。
 警備員に挨拶をして公園を抜けて駅に向かう。生身の舞台なら打ち上げがあるのだが、マリオネット劇はそれがない。有名無実となっていても、建前上は誰が演じているかは秘密なのである。
「それも慣れてるはずだけど、こんなときは打ち上げできないのが悔しいよな」
 初日の公演は大成功に終わった。テレビの宣伝効果があったのか、当日券も完売して満員御礼の祝儀袋が配られた。プロデューサーの小島は、この調子で千秋楽までいけば、全員にボーナスを出すとまで言い出して、昨夜のゆでタコがえびす顔に変わっていた。
 もちろん、成功したとはいえ、トラブルがなかったわけではない。照明装置の一つが故障したり、舞台で使う剣の中に資料用で取り寄せた本物の剣が混じっていたり、おそらく新人なのだろう召使役が台詞を飛ばしたり、出の順を間違えかけて楽屋が大騒ぎになったり……。裏方、役者ともども大騒ぎであった。
 しかし、舞台は大成功。観客の鳴り止まない拍手が今も耳にこびりついている。
 関根はカーテンコールでロミオの傍らで手を振るジュリエットを思い出して、思わず顔がほころんだ。
「関根さん、いい顔してるね」
 不意に声をかけられ、関根は驚いて声の主を探した。声の主はコンクリート壁の上に腰掛けて楽しそうに笑っていた。
「志穂さん……こんな時間まで仕事かい?」
 関根は志穂と気が付くまで、少し間があった。というのも、志穂は昼間会ったときとは少し雰囲気が少し違っていた。昼間はどこか冷めたようであったのに、今はどことなく高揚しているような溌剌さがあった。
「ええ、そう。ついさっきまでね。それはそうと、舞台成功おめでとう」
「ありがとう。でも、よく知っていたね」
「あんなにいい顔していたら、誰だってわかるわよ」
 彼女は塀の上から飛び降りて、ネコのようなしなやかさで地面に着地した。
「そんなににやけた顔してた?」
 関根は思わず自分の顔を触ってみたが、緩んでいるかどうかなどわかるはずもない。
「それはもう、すごくね。絶世の美女に会ったようだったわよ」
「まあ、舞台で満場の拍手を浴びるのは、絶世の美女に会うのに負けず劣らず素敵な体験だよ」
 この麻薬のような快感が忘れられず、マリオネット操者となって役者を続けている。不安定な生活だろうが、多少の貧乏だろうが辞めるつもりはなかった。
「そうかもね」
 そう言いつつ、何か含みのある彼女の瞳に関根は心を見透かされているような気がして落ち着かなくなった。
「そうさ。そりゃあ、まあ、舞台は美男美女のオンパレードだよ。それも楽しいけど、終わった後の観客席が輝いて見える時は格別だよ。君も興味があったらどこかの劇団を見学しに行ったらどうだい?」
 愚にもつかない、不要な、いい訳じみたことを口にして、関根は自分の墓穴掘りにうんざりした。
「ふふ、機会があればね。それじゃあ、呼び止めてごめんなさい。おやすみなさい」
 彼女はにっこりと微笑んでぺこりと頭を下げた。そして、彼に背を向けて大通りの方へと歩き出した。
「ああ、おやすみなさい」
 彼は狐につままれたような顔で彼女を見送った。すると彼女はしばらく歩いたところで突然振り返った。
「ああそうだ。テレビのダンス、とっても綺麗だったし、素敵だったわよ。あと二日、がんばってね」
 大声でそういいつつ手を振ると再び大通りの方へと軽い足取りで去っていった。
「ありがとう。がんばるよ」
 彼は彼女の背中に手を振って大声でお礼を言って、ゆっくりと手を下ろした。
「そうか……ロミオ様ともあと二日なんだな」
 関根は先ほどまでの高揚した気分が奇妙に醒めて、ため息を一つ吐き出すと大通りとは反対の駅の方へと歩き出した。

 学校の演劇部といえば、体育会系文化部などと揶揄される。一般の劇団などもそのノリが色濃いことが多い。したがって、演劇に円陣は基本であった。
 公演最終日千秋楽、最後の公演を前にスタッフで円陣が組まれた。演出の細川がその細身に似合わず迫力のある声で気合を入れる。
「泣いても笑っても次が最後の公演だ。今までの演技で満足か?」
「いいえ!」
「稽古でやってきたことは全部出したか?」
「まだまだ足りません!」
「公演で学んだものはなかったか?」
「たくさんありました!」
「よし! それでは、開幕だ。全てを出し切れ。灰になって来い! 舞台のシミになれ! 骨があったら拾ってやる! お前たちの力でお客を喜ばせて来い! それが全てだ!」
「はい!」
 最後に気合の掛け声をかけて円陣は解散となった。解散後に細川とロミオがジュリエットの元にやってきた。
「ジュリエット、調子はどうだ?」
「何も問題はありませんわ。ご心配は無用ですわ」
 ジュリエットは涼しい顔で答えたが、その足元では技師の丸山が作業を続けていた。
「何が問題ないだ。大アリだよ。ここまでもったのは奇跡かもしれない。炎症の進行が早い。かなり痛いはずだぞ」
 丸山はアンプルを割って、注射器に吸い込み、ジュリエットの足首に注射した。
「私が問題ないといったら、問題なんてありませんわ、丸山様」
 軽く表情を変えた程度でジュリエットは何事もなかったかのように済ました顔をした。しかし、すでに裾が触れただけでも激痛が走るほどになっていた。
「監督。技師として保障しかねます。負荷をかけて薬を使ってよろしいですか?」
 丸山はジュリエットを無視して監督の石山に話をした。
「待って! 薬を使ったら、感覚がしびれてしまいますわ。せめて、限界を超えるまで」
 薬の作用で全身の感覚が鈍くなる。限界を超えて無理させるためにその苦痛からマリオネット操者を保護する措置であった。
「超えたら遅いよ、ジュリエット。舞台で倒れるつもりか?」
 丸山が聞き分けのないジュリエットに表情をゆがめた。
「でも――」
「でもじゃない。許可をください。僕にも技師としてのプライドがあります」
 細川は丸山に迫られて判断に迷った。丸山の言い分は多分正しいが、この舞台のクオリティーを任されたものとしてはそれを下げたくはない気持ちは強かった。しかし、十中八九負けの決まった賭けに出るほど馬鹿でもなかった。
「わかった――」
「丸山さん」
 細川が決断を下そうとするのをそれまで沈黙を守っていたロミオが割って入った。
「ジュリエットのわがままを聞いてくれませんか?」
「ロミオ! 君までそんなことを」
「何かあったら僕が彼女をフォローします。細川さん、お願いします」
 ロミオは細川と丸山に頭を下げた。ジュリエットは二人をにらみつけて断固拒否の意思を示していた。
「しかしだな……」
「細川さん。わたしらもいるんだから、少しわがままに付き合ってくれませんかね」
 いつの間にかやってきていた乳母がしわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑って言った。細川は振り返ると後ろにはマーキューシオ、ベンヴォーリオ、ティボルト、ロレンス神父、パリス、モンタギュー夫妻、キャピュレット夫妻、大公、ピーターから役名のないものまで集まっていた。
「最後の最後でジュリエットのぬるい演技なんてお客さんがゆるさねえぜ、細川さん」
 マーキューシオが全員の言葉を代弁した。いつの間にかやってきていた石山も無言で細川の肩をたたいた。
「まったく、お前たちは……ああ、もう、わかった。俺も同意見だ。責任は取ってやる。とっとと、舞台のシミになってきやがれ」
 細川の決断に歓声が上がり、ジュリエットは何度も全員に頭を下げた。
「いいってことよ。あんたは主役で、俺たちは脇役。あんたを支えるのが俺たちの仕事さ」
「そういうことさ。思い切ってやってくれ」
「ありがとう、みんな。ありがとう!」
 ジュリエットは涙があふれそうになったが、何とかこらえて笑顔を作った。傍らではロミオがそっと彼女の肩を抱き、このままこの時が永遠に続けばいいのにと真剣に思い、神様に祈った。

 紳士淑女が集い、ろうそくの炎がきらびやかな衣装を照らして、幻想的に部屋を染める。香ばしいにおいが食欲をそそり、たっぷりの肉汁が胃袋を満たす。優美な音楽が途切れることなく流れ、その合間に気品ある話題が談笑される。誰もが礼儀正しく仮面をかぶる舞踏会。
 たとえ、かりそめの虚飾であっても今この時は現実のとき。誰もがその非日常を楽しんでいた。
『さあ、踊りましょう。今宵、この時を楽しむために。楽師たち、音楽を。とびっきり愉快になれる音楽を』
 ホストのキャピュレットがゲストたちを楽しませるために愉快に手を打った。ゲストたちはペアを組んで音楽が始まりダンスが始まる。しばらくダンスが続いて、ゲストたちの踊る中央にぽっかりと舞台ができ上がる。
 そこへ進み出る男と女。男は仮面で顔を隠しているが、その美しさは仮面越しでも見て取れる。女は初々しい若い果実のようであってもその美しさは比べることなどできないほどであった。
 二人は自然の成り行きのように歩み寄った。
 そこで二人は夢のようなダンスを踊り、二人は踊り終わった後に会話を交わそうとするが、しかし、二人は別の人にダンスを申し込まれ、離れ離れになる。最終的に一緒になれない二人の暗い未来を暗示する演出であった。
 ジュリエットはひどく痛みの増す右の足首をかばって歩けば不自然になると、覚悟を決めて舞台の上にできた舞台に足を踏み出した。一歩、二歩――順調と思われた歩みも、それはろうそくの炎の最後の瞬きであった。
 右足首にまったく力が入らずに世界が倒れていくのがわかった。わかったが、どうすることもできない。ジュリエットは無力な自分を思い知らされた。
 しかし、誰かの手がそっと自分を抱きとめ、倒れこむことはなかった。はっとして、その手の主を見上げると輝くばかりに美しい男性が優しい笑みを浮かべてそこにいた。その笑顔にジュリエットは泣いて抱きつきそうになった。
「ついに限界がきたんだね、ジュリエット」
 ロミオはマリオネット同士の、外には聞こえない通信で語りかけてきた。舞台をとめるわけには行かないので、予定とは違うが、そのままジュリエットと踊りに入った。
「どうしましょう。本当にどうすればいいの。こんなに力が入らないなんて、信じられない。固定されているときなんてもっとしっかりしていたのに」
 ジュリエットはオロオロするばかりでパニックを起こしていた。おかげでロミオはジュリエットを一人で支えることになり、ダンスも精彩が欠けている。
 観客もテレビであのダンスを見ているものも多かったために違和感をおぼえて軽いざわめきが立ち始めていた。
「しっかり。自分をしっかり持つんだ、ジュリエット。君は史上最強だろう?」
「でも、私は無力な小娘よ。そう、一人で立っていることもできないほど無力なのよ」
「いい加減にしないか、ジュリエット! 君は誰よりも早く稽古場に来て、誰よりも熱心に練習していたじゃないか。私はそんな君をずっと見ていた。無力な何もできない小娘なんかじゃない。愛する人のためにロレンス神父の仮死の薬さえ飲み干すほど強い。私は知っている。一人で立てない? みんながいるじゃないか。さあ、君はジュリエット。私の愛する史上最強のジュリエットなんだ」
 ロミオの言葉がジュリエットに染みこんでいくほどにダンスは精彩が蘇り、鮮やかな色を光り輝かせた。
「ロミオ様。ダンスの後にあなたを探すのは、この足では無理だわ。巡礼のくだりにそのまま続けて。――それから、お母様のところへ行くときはどなたかエスコートを」
 ジュリエットは段取りを決めて芝居を続けた。
 二人のダンスは予定よりも少し長くなったが、その後のダンスがカットされ、しかも、ジュリエットが舞踏会の中を彷徨うシーンもカットされた。
 役者だけではなく、裏方は大混乱を起こしていてもおかしくなかったが、崩壊する一歩手前で踏みとどめたのは、石山と裏方スタッフの団結力のおかげであった。
 舞台上では、ロミオとジュリエットが互いに手を取ったまま向かい合った。
『聖者様。突然のこととはいえ、巡礼のこの手が無礼にもあなたの聖地を汚してしまいました。その謝罪に唇が聖地に口づけをして清めさせてください』
 ロミオが膝をつき、悩ましい顔でジュリエットに訴えた。その色香に客席からもため息が漏れている。
『いけませんわ、巡礼様。それはあまりにも手に対するひどい仕打ち。巡礼様は信心深く、敬虔なお方。その振る舞いに何の無礼がありましょう。聖者の手は巡礼が触れるもの。指と指が触れ合う、それは巡礼の優美なキスと申します』
 初々しく恥らうジュリエットの純粋さに甘く酸っぱいものが口の中で広がる感じがした。
『では、聖者と巡礼に唇はございませぬか?』
『いいえ。祈りを唱えるのに唇は必要です。聖者にも巡礼にも』
『では、どうか、今この時だけ、唇に手の役割を。信仰が絶望に変わらぬうちに。唇が祈りをささげます』
 ロミオはさっと立ち上がり、ジュリエットを抱きすくめた。先ほどまでと違い、その野性的な動きは観客の目を釘付けにした。
『聖者の心は動きません。祈りを受け入れようとも』
 観客の誰よりも釘付けにされたジュリエットはゆっくりと目を閉じた。たとえ、目を閉じても、ロミオを見ることは難しくないほど彼に恋焦がれた気持ちを隠すように。
『では、動かないで。祈りを受け入れるあいだ。あなたの唇でこの唇の罪が――清められます』
 ロミオはそっとジュリエットのキスをした。優しいキス。勇気と信頼のキス。
『まあ、それでは私の唇に罪が移ってしまったのね』
 ジュリエットは顔を赤らめて、頬に手を当てた。
『おお、それはいけない。その罪をお返しください』
 再びロミオはキスをする。ジュリエットはここで全てが終わればよいのにと思ったが、時間は、劇は無情に進むだけしか知らない。
 そして、乳母がジュリエットを呼び、召使のエスコートで舞台を退場した。
 その後すぐに舞台に戻り、ダンスを踊った男性が家の敵、モンタギューのロミオを知って愕然とする。そして、再び舞台袖に戻った。シーンは舞踏会が終わり、ロミオの友人であるマーキューシオとベンヴォーリオが姿を消したロミオを探すシーンとなった。
 この次のシーンが有名なバルコニーのシーンである。ジュリエット不在はありえない。しかも、このシーンはかなりジュリエットがバルコニーの中を動き回ることになっていた。
 丸山は急いで用意していた薬剤のアンプルを取り出し、アンプルの首を折ろうとした。しかし、そっとその手を止める手があった。
「邪魔しないでくれ、ジュリエット」
「丸山様。お願いがあるの」
「却下だ」
 にべもなく宣言するとアンプルの首を折った。そこに注射器を差し込んだ。
「まだ何も言ってないわ。お願い、時間がないの。薬を打たずにリミットだけを解除して。できるでしょ?」
 法律で禁止されているが、不可能ではないことであった。
「時間がないんだ。それをするには調整室まで君を連れて行かなければいけない。そんな時間なんてない」
 ロミオを探すシーンなど、たかが知れている。マーキューシオの長い台詞はあるが、それほど引き伸ばせるシーンではない。
「時間のことなら気にしなくていい。五分は大丈夫。細川さんがしっかり仕込んでいたからね」
 舞台袖で待機していた出演者の一人、パリスがにこやかな笑みを浮かべて丸山に告げた。
「みんな、グルか。コンチクショウ!」
 丸山は苦々しく吐き捨てると注射器を脇に置いて、ジュリエットを車椅子に座らせた。
「エレベータは待機させてある。通路も障害物はどけてある」
 パリスは赤絨毯こそ敷いてはいないが、調整室までの花道に案内した。
「まったく、用意周到なことだな」
「パリス。ありがとう。好きよ。あなたとは結婚できないけど」
 ジュリエットは目に熱いものがこみ上げてきた。この仲間たちと一緒に舞台ができることに心の底から感謝した。そして、永遠に続けていたいと願った。
「ありがとう、ジュリエット。その言葉だけで死んでも報われるよ」
 パリスは恭しく頭を下げた。
「時間がない。急ぐぞ。ここまでされて五分で戻ってこれなかったら僕が殺される」
 丸山はジュリエットを乗せて駆け出した。そして、調整室までレコードタイムでたどり着くと、ジュリエットを調整用ベッドにも寝かさずに背中のプラグにアクセスコードをつないだ。
 カードをスリットに差し込み、生体認証する。その時間さえ惜しいように思えて仕方なかった。
「確認しておくが、リミットを解除したら機械的に足首が壊れるまで動かせるようになる。だけど、代わりにフィードバックもフィルターなしにダイレクトに伝わる。骨折した足で動き回るよりもひどい激痛に襲われる。下手したら精神障害を起こすかもしれないぞ。いいんだな?」
「私を誰とお思い? 役者よ。しかも主役。全身の骨が折れたって舞台では踊って見せるわ。それに、みんな始まる前に言ってたでしょ? 『ぬるいジュリエットなんて見たくない』って。まったくその通りよ」
 ジュリエットはにっこり微笑んで見せた。リミットがかかるまでもかなりの激痛だったはずなのに、それまでもそう言い切る彼女に役者根性というよりも執念を感じた。
「わかった。君がそれほどの覚悟なら何も言わない」
 丸山はリミットをかけているコードを探し出して、それらを解除していく。本当ならばもっと時間のかかる作業のはずだが、まるであらかじめ知っているかのように作業を進めていった。
 ジュリエットはそれを不思議そうにそれを眺めていた。その視線に気づいたのか、丸山は苦笑を浮かべた。
「ジュリエットは『宇宙戦艦ヤマト』って古いアニメを知っているかな? それに出てくる技術者が窮地になると、『こんなこともあろうかと〜』って、秘密兵器を出してくるんだよ。僕もあれにあこがれてね。一度言ってみたかったんだ。だけど、今回は言いたくなかったよ。こんなこともあろうかと、コードを調べておいた、なんてね」
 言い終えると同時にリミットのコード解除が終了した。同時にジュリエットの脳天を突き上げるような激痛が走り、身体をくの字に曲げた。
「大丈夫か? やっぱり――」
「平気。大丈夫。ちょっと、驚いただけ。もう、慣れたわ」
 丸山は心配そうに駆け寄ろうとしたが、それを押しとどめてジュリエットは車椅子から立ち上がった。激痛は脳の神経を焼くほど熱く、雷のようにしびれた。
「無理だったら、薬を打つ。正直に言ってくれ」
 丸山はアクセスコードを外して、コントロール装置からカードを外してズボンのポケットにしまった。薬剤を打つならコントロール装置をロックしておいた方が効き目が早いという伝説があった。気休めだが、気休めでもするのが技術者であった。
「ふふ。ありがとうございます。丸山様。でも、ご安心を。ジュリエットはロレンス神父の教会の床をすり減らさないほど軽やかに歩けるのよ」
 その場でステップを踏んでターンして見せた。それはいつものジュリエットと何の遜色もない華麗で優雅な動きであった。もちろん、表情も。
「ジュリエット……」
「ごめんなさい。丸山様にはいつも無理ばかり言って……本当にありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
 ジュリエットは少し潤んだ瞳で丸山に擦り寄った。彼はそれに少し腰が引けて身を離そうとしたが、彼女が離しはしなかった。
「い、いいんだ。これも僕の仕事だから……」
「いいえ、仕事以上にしてくださったわ。でも、私は何もお返しできないの。だから、せめてものお礼をさせて」
 ジュリエットは更に丸山に寄り添った。そして、彼の唇に彼女の唇を重ねた。
 ほんの一瞬であったが、十分に感触を感じられる時間であった。その瑞々しいまでの処女の唇の感触に丸山は頭が真っ白になりかけた。しかし、すぐに正気を取り戻した。
「ええい! マリオネット技師がマリオネットに恋をしてどうするんだ! 冗談が過ぎるぞ、ジュリエット」
 丸山はジュリエットを突き飛ばしはしなかったが、少し強引に振りほどいた。
「少しぐらい役得がなくてはもったいないでしょ。単なる、お礼よ。素直に受け取ってほしいわ」
 ジュリエットはいたずらっぽく微笑むと車椅子に座った。
「次からはそのお礼はゴメン被る。ええい、時間のロスだ。急ぐよ」
「もちろん。あんまり待たせると、バルコニーの下でロミオ様がおじい様になってしまうわ」
 ジュリエットはそういいつつ、衣装の中にそっと丸山のズボンから抜き取った一枚のカードを隠した。

「ぎりぎり五分だ。もう時間がない。いけるか?」
 舞台監督の石山は言葉こそ質問だが、口調は「イエス」しか認めない確認だった。
「ご心配をかけまして、ごめんなさい。でも、代わりに最高の舞台を約束しますわ」
 ジュリエットは自分で車椅子から身軽に立ち上がると優雅にお辞儀をして、出番を待つため舞台袖に軽やかな足取りで向かった。
 その様子をあっけに取られつつ見送った石山は丸山にだけ聞こえるぐらい小さな声で話しかけた。
「大丈夫なのか?」
「正直言うと、大の大人でも気絶するぐらい痛いと思います。でも、何か変なスイッチが入っちゃっているようで……役者根性というのでしょうかね、ああいうの」
 丸山は自分の知識上、ありえないことを見せ付けられて自信なさげに肩をすくめるだけであった。

 ジュリエットはバルコニーへと物思いにふけながら歩み出た。手すりに身体を預け、夜の星を眺めていたが、星の光は彼女の目には映っていなかった。
 やがて、大きなため息をひとつつくと、両肘を手すりについて、再び夜空を見上げた。
 そこへ庭に忍び込み、彼女を偶然見つけることのできたロミオは、月に照らされる彼女の美しさに心奪われ、ただただその場に立ち尽くしていた。
『あの手袋になることができたなら、あの頬に触ることができるというのに』
 ジュリエットの気持ちを知らないために声をかけることもできず、ただ彼女を見つめているしかなかった。
『ああ……』
 ジュリエットの口から悩ましい吐息が漏れた。ロミオはその声を聞こうと、耳をそばだてる。
『おお、ロミオ! ロミオ! どうしてあなたはロミオなの? お父様と縁を切って、ロミオという名をお捨てになって。それがかなわないのなら、私を愛すると誓って。そうすれば、私もキャピュレットの名を捨てます』
 ジュリエットは恋焦がれる本人が庭にいることも知らず、夜空を照らす月に自分の気持ちを打ち明けた。ロミオもいきなりのジュリエットの告白に驚き、戸惑った。彼のいることさえ知らない彼女はさらに続ける。
『私の敵といっても、それはあなたの名前だけ。モンタギューの名前を捨てても、あなたはあなた』
 名前を捨てても自分は変わらぬロミオを受け入れると言うように自分の身体を抱きしめた。そして、やおら両手を広げた。
『名前って何? 手でも足でもない。腕でも顔でもない。人間のどの部分でもない。だから、お願い、別の名前に』
 彼女は祈りをささげるように手を胸の前に組んだ。
『バラを別の名前で呼んだとしても、その美しい香りが変わることはないわ。だから、あなたが別の名前になったとしても、その姿が変わるわけではないわ。名前を捨てて、その代わりに私を受け取って』
『受け取ります! “恋人”と呼んでください。それが僕の新しい名前。ロミオという名は捨てました』
 ロミオは熱烈な告白を聞いて、もう居ても立ってもいられずに茂みを飛び出した。
『どなた! 私の秘めたる思いを盗み聞きするのは』
 突然の声にジュリエットは驚き、誰何の声を上げつつも建物の中へと逃げ込もうとした。
『名乗ろうにも、ああ、憎らしい。僕の名前はあなたの敵なのです』
 侵入者の声にジュリエットは足を止めた。そして、恐る恐るバルコニーの先端まで戻った。
『多くの言葉を交わしたわけではありませんが、そのお声。忘れることはできません。あなたはロミオ様? モンタギュー家の』
『聖者様。その名前は捨てました。あなたがお気に入らない名前ゆえ』
『どうやってここへ? 誰の手引き?』
『恋の手引きで』
『でも、周りの塀は高くて越えるのは難しいはず。どうやって?』
『恋の翼にかかればどんな高い塀でも軽々と越えれます。たかが石垣ごときがどうして恋を締め出せましょう』
『あなたの身を考えれば、家のものに見つかれば殺されてしまいます。なんて危険なことをなさるの』
『恋は危険なことをさせてしまうもの。今の僕には敵意を持った二十の刃など、あなたの優しいまなざしがあれば、跳ね除けてしまいます。しかし、もし、あなたの愛が得られないのなら、この場で殺された方がどれほど幸せでしょう』
『ああ、夜の闇よ。あなたの姿を家のものから隠してちょうだい。そして、私の顔も隠してちょうだい』
 ジュリエットは頬に手を当てて身をよじった。
『私の顔は乙女の恥じらいで真っ赤になっているわ。心の内を聞かれてしまうなんて。優しいロミオ様。私を愛している? “はい”と言ってくださいます? あなたの言葉を信じますわ。でも誓わないで。恋の誓いを破ってもジュピターは苦笑するだけ、何の咎めもありませんわ』
 ジュリエットはバルコニーから身を乗り出して、庭のロミオに微笑みかけた。ロミオはバルコニーのそばの木に登り、彼女を向き合える高さまでやってきた。
『優しいロミオ様。愛しているとおっしゃって。少し率直過ぎるかしら? でも、恋の駆け引きを知る手練手管の女よりよっぽど真心がありますわ。でも、聞かれてしまったもの、私の胸の内を。そうでなければ、もっと控えめにしていたわ。だから、軽い女と思わないで。重たい夜の闇が心の内をさらけ出させたのだから』
『ジュリエット。あのこずえにかかる月に誓おう――』
『だめ! 日ごと形を変える月になんて誓わないで。あなたの愛も日ごとに変わる不実なものになってしまいますわ。もし、誓うのならあなた自身に。私の神であるあなた自身に誓って』
『では、もしこの心からなる愛が――』
『ああ、やっぱり誓わないで。あまりにも早すぎる愛は一瞬で消えうせてしまいそう。この愛のつぼみが次に会うまでに美しい花を咲かせていられるように』
 ジュリエットとロミオは互いの愛を戯れるように、しかし真剣に誓い、確かめ、そして再び誓い合った。そして、東の空から夜の帳が上げられて、ついに別れの時を迎えた。
『おやすみ。おやすみ。永遠におやすみを言い続けたい。このまま、永遠に』
 ジュリエットは衣装の中に忍ばせたカードを上から押さえ、別れの台詞を心から歌い上げた。

 舞台は進み、ロレンス神父の立会いでロミオとジュリエットは二人だけで結婚式を挙げた。その結婚式の帰りにロミオは、彼の親友のマーキューシオと、ジュリエットと仲のいい従兄弟であるティボルトが喧嘩をしているところに出くわした。ロミオはその喧嘩を仲裁しようとしたが、運悪く、その拍子にティボルトの剣がマーキューシオに致命傷を負わせ、マーキューシオは死んでしまう。怒りに燃えるロミオはマーキューシオの仇を討つためティボルトに決闘を申し込み、彼を殺してしまう。
 それを知った街の支配者、大公殿下はロミオを追放することを宣言した。ロミオは街を離れる前にジュリエットと最初で最後の夜を共にして、ひばりの声に追われて街を離れた。
 ジュリエットは父親にパリス伯爵との結婚を強いられ、ロレンス神父を頼った。そして、結婚前夜に仮死状態になる薬を飲み、死んだふりをして結婚をうやむやにして、その隙にロミオを呼び寄せ、一緒に逃げるように策を講じた。
 予定通り、薬を飲んで仮死状態となったが、その計画を知らせる使いがロミオに出会えず、ジュリエットの死の知らせだけを聞いたロミオは大急ぎで街に戻ってきた。
 そして、墓地にいたパリス伯爵を殺し、ジュリエットのところにやってきて、彼女の後を追って、本物の毒をあおって死んでしまった。
 目を覚ましたジュリエットは自分の傍らで死んでいるロミオを見て、計画が狂ったことを悟った。
『ああ、ロミオ。ひどい人。どうして、私の分の毒を残しておいてくれなかったの。あなたの唇に残る毒で――ああ、まだ暖かい。ロミオ……』
 泣き崩れるジュリエットの耳に、異変を感じて集まってきている夜警の声が聞こえた。感傷に浸っている時間はない。彼女はロミオの剣を拾い上げた。
『ありがたい。おお、剣よ。私をロミオの元に連れて行って。今から私の胸はあなたの鞘』
 そして、ジュリエットは自分の胸に剣をつきたて、絶命した。
 事の真相をロレンス神父が語り、若い二人の魂により長年いがみ合っていたモンタギューとキャピュレットの両家は和解して、街に平和が訪れた。
 こうして、舞台の幕は引かれた。
 舞台に引き込まれていた観客が現実へと戻るわずかな間があり、まばらに拍手が鳴ったかと思うと、唸りを上げる喝采の渦が劇場を埋め尽くし、緞帳が完全に降りても、鳴り止む気配はなかった。
 カーテンコールで姿を現したマリオネットたちに賞賛が惜しみなく浴びせられ、舞台袖では裏方の人間たちが抱き合いながら成功を喜んだ。
 ただ、マリオネット技師の丸山だけはジュリエットの足の状態が気になり、喜びもそぞろである。
 カーテンコールから戻ってきたジュリエットは放心状態で舞台のセットの上に座り込んだ。丸山がその姿を見て彼女に駆け寄った。
「ジュリエット!」
「あら、丸山様。どうでした? 最高の舞台でしたでしょう?」
 丸山はジュリエットの浮かべる妖艶な微笑に背筋が寒くなった。人が操っているとはいえ、機械人形の表情ではなかった。
「ああ、最高の舞台だった。さあ、早くリンクを切ろう」
 言い表せない不安にかられ、彼女の手を取ったが、その手は払いのけられた。
「どうして? まだ、舞台は終わってないわ」
「終わったんだよ。最終公演は幕を下ろしたんだよ。足の痛みで混乱しているだけだ。さあ、早く!」
 丸山は焦った。さっき手と取ったときに彼女の手は異常なほど汗ばんでいて、ほんのり熱かった。明らかに機体が異常な状態である。
「終わった? どうして? だって、ロミオ様は私に永遠の愛を誓ったわ。ジュピターなんかじゃなくて、ロミオ様自身に。どうして、うそをつくの? まだ舞台は終わっていないわ。終わるわけないじゃない。永遠に続くのよ」
 瞳の色がこの世のものと思えぬ輝きを放っていた。丸山は彼女の手を強く握り、強引に立たせて調整室まで無理やり引っ張っていこうとした。
「あなたも私の恋の邪魔をするのね! やめて! どうしてみんな、私の邪魔をするの!」
 ジュリエットは叫び、腕を振りまわすようにして、丸山を投げ飛ばし、舞台袖の方へ駆け出した。
 互いに喜び合っていた他の出演者や裏方たちもただならない様子に喜びを一時中断してざわつき始めた。
「一体、どうしたんだ? 喜び合うには少し過激すぎるぞ」
 監督の石山と演出の細川が舞台のセットにもたれかかって倒れている丸山に駆け寄った。
「石山さん、細川さん。ジュリエットが暴走しました」
 丸山は吹き飛ばされた眼鏡をかけなおして、あちこち打ち身で痛む身体を起こした。
「暴走?」
「おそらく、足首の痛みに操者の脳がブロック現象を起こしたのでしょう。脳内麻薬が過剰に分泌されて、躁状態になったところを舞台でジュリエットを演じている自分自身に暗示がかかったと思います。早く止めないと……」
 丸山は言葉を切った。“ジュリエット”の力は人間以上である。下手すれば誰かを怪我させてしまうかもしれない。石山も細川も顔を青くした。
「一体、何事だ!」
 プロデューサーの小島が騒ぎを聞きつけて彼らの元にやってきたが、落ち着いて説明している暇などない。
「とにかく、歩きながら話します。調整室に急ぐぞ」
 石山が先頭を切って、調整室に向かおうとした。しかし、その途中で小道具係の青年が彼を呼び止めた。
「忙しいんだ。後にしてくれ」
 普段は温和だが、熊のような大男の石山にすごまれて小道具係の青年は縮み上がった。
「す、すいません。……ここにあった資料用の真剣のサーベルが見当たらないので……もう一度、探してみます」
「サーベル? ……君、ジュリエットとすれ違わなかったか?」
 細川が気になる単語を耳にして青年に訊いた。青年はすっかり萎縮して、首を横に振った。しかし、そこに通りかかった照明係の女性が口を挟んできた。
「ジュリエットちゃんなら、さっきすれ違ったわよ。すごい真剣な顔だったから、声をかけなかったんだけど。そういえば、なんか長細い包みもっていたわね」
「鬼に金棒。ジュリエットにサーベル。けが人どころか、死人が出るぞ!」
 細川は顔を引きつらせた。
「ジュリエットが客席に出ないように警備用のマリオネットで客席につながる出入口を封鎖させるように警備主任に連絡してくれ! 大至急だ。ジュリエットが暴走している」
 石山は照明係の女性に最悪の事態を避ける措置を取るように指示すると、一刻も猶予がないと走り出した。
 調整室に駆け込むと丸山はコントロール装置の前に急いだ。
「少し危険ですが、強制的にリンクを切ります」
「わかった。許可する。非常時だ」
 石山が許可したが、丸山はズボンのポケットをまさぐっているだけで、装置に触れようとしない。その様子に細川がいらだって怒鳴った。
「早くしろ!」
「カードが……カードがない!」
 丸山は泣きそうな顔で、ポケットをひっくり返して中身を確認したが、埃以外は出てこなかった。
「なんだと!」
 どこかに落ちていないか床を見回したが、落ちているはずもない。丸山はシャツやズボンを脱いで確認したが、見当たらなかった。
「カードがなくても無理やりこじ開ければいいだろうが!」
 小島はジュリエットの操者が入っている黒い殻に近づこうとしたが、石山に止められた。
「そんなことをすれば、下手したら操者がショック死してしまう」
 しかも今は操者が精神的に不安定とあっては、その可能性は低くなかった。
「そんなことを言っている間に何かあったらどうするつもりなんだ! かまわん! 暴走したやつが悪い。こじ開けろ!」
「無茶言わないでください。他に方法はないのか?」
 細川は興奮した小島は無視して丸山に詰め寄った。
「マリオネット本体にあるリンク解除ボタンを押せばリンクが切れます。あとは、マリオネット本体が破壊されてリンクが切れるか」
「馬鹿なことを言うな! 一体、あれがいくらすると思っているんだ!」
 丸山の言葉に小島の血管が切れそうになった。“ジュリエット”はおそらくどこかからのレンタルだろうが、破壊すれば弁償させられるのは当然だろう。
「他にはないのか?」
 非現実的な案に石山も苛立ちが隠せない。
「他はマリオネット犯罪防止法で、警察が強制割り込みのマスターカードを持ってます。それがあれば……」
 丸山はそういいつつ、ちらりと小島の方を見た。
「仕方ない。時間はかかるが、警察に連絡しよう」
「そうだな」
 石山と細川が納得したが、一人納得していない人間がいた。
「警察はいかん」
 小島はそれまでの興奮が一気に醒めて、ポツリとつぶやくように反対した。
「しかし、小島さん、このままでは――」
「とにかく、警察はダメだ!」
 小島は取り付くしまもなく警察を呼ぶことに反対した。
「……ラゾルシーム社のゴルバティCS228。気にはなっていたのですが、まさか……軍事用マリオネット」
 丸山は眉をしかめた。整備していて、明らかに演劇用にしてはオーバースペックであり、演劇用には不要なディティールまであった。
「小島さん!」
 軍事用のマリオネットは輸入禁止であるし、その使用は重罪である。
「ああ、そうだ。高級将校の“個人”副官として作られたものだ。配属される先々で高級将校が不幸に見舞われるんで、払い下げにされたいわくつきのな。表向きは一般のレンタル企業から借りたことになっているが、それは名義貸しで本当は裏ルートから借り受けた。コード番号は偽造してある」
 小島の告白に三人は沈痛な面持ちになった。警察が来れば、そのあたりのことも調べられるだろう。知らないと言っても、信じてもらうには時間がかかるだろう。
「しかし、このままというわけにはいかないだろう」
 石山は備え付けの電話の受話器を取り上げようとした。
「待て! ジュリエットを探して説得しよう。それに時間が経てば、冷静さを取り戻して戻ってくるかもしれない」
 小島はなんとか電話をかけさせないように石山にしがみついた。
「往生際が悪いですよ、小島さん。腹を括りましょう」
 細川が小島を羽交い絞めにして引き離した。
「お願いだ! 警察は、警察はやめてくれ! ジュリエット! 戻って来い――戻ってきてください!」
 細川に羽交い絞めにされた小太りな身体をじたばたさせ、悲痛な叫びを上げたが、石山の指が三つ目のダイヤルを押そうとしていた。
 しかし、その時、調整室の扉が乱暴に開けられた。石山は驚いて、ダイヤルを押す指を止めて、そちらを見た。
 扉の向こうにはジュリエットが抜き身の剣を下げて幽鬼のように立っていた。その不気味なほどの威圧感に小島以外は寒気を覚えた。
「おお、ジュリエット! 戻ってきてくれたか! ありがとう。本当にありがとう! さあ、リンクを切ろう。舞台は終わったんだ」
 小島は細川の力が緩んだ隙に羽交い絞めから抜き出るとジュリエットに駆け寄った。しかし、駆け寄った途端に彼女に殴り飛ばされた。
 ジュリエットに殴り飛ばされた小島は鼻血を出しながら無残に床に転がったが、失神している程度で命に別状はなさそうだった。制御不能の軍事用マリオネットに殴られたことを考えると、それはかなりの奇跡だった。
「終わった? 何が終わったといいいますの? 舞台が終わったのなら、どうして私は生きていますの? 私はロミオ様の後を追ったはずですわ。まだこの命が永らえているのは終わってない証拠ですわ。ええ、そう。まだ、終わっていませんわ」
「いや、終わったんだ。舞台は終わった。ジュリエットは関根義孝に戻る時間がきたんだ。さあ、戻ろう」
 丸山はジュリエットの剣を持っていない方の手にカードが握られているのを見取って、全てを悟った。
「関根、ジュリエットのままで居つづけることなんて不可能だ。わかるだろう? ベテランのお前なら」
「さあ、関根。馬鹿な真似をやめて、カードをこっちに渡してくれ」
 石山と細川もジュリエットを説得しようと距離を保ちつつ彼女を囲んだ。小島を殴り殺してしまわなかったのは、まだ理性が少しは残っているためと三人とも判断していた。
「関根義孝……」
 ジュリエットはうめくようにつぶやいた。
「そうだ。お前はジュリエットではなくて、関根義孝だ」
 少し正気を取り戻したのかもしれないと三人は喜色を浮かべた。
「ああ、関根義孝。関根義孝! 私はジュリエットではなく、関根義孝!」
 ジュリエットは嘆くように声を上げた。
「そうだ。その通りだ」
「さあ、関根義孝に戻ろう。ジュリエットの時間は終わったんだ」
 三人は必死にジュリエットを説得しようと声をかけた。しかし、ジュリエットの様子がおかしなことは変わりなく、逆に悪くなったようにも見えた。三人の希望的観測が崩れかけ、顔が引きつり血の気が引いていく。
「そう。私は関根義孝。冴えないマリオネット操者の関根義孝。光り輝くジュリエットではありませんわ」
 剣を掲げ、寂しく笑った。
「ロミオ様が愛したのはこのジュリエット。決して、関根義孝ではない。関根義孝って何? この手でも足でもない。腕でも顔でもない。マリオネットのどの部分でもない。だから、関根義孝は要らない……だから、捨てるの。さあ、剣の鞘となりなさい。私がジュリエットになるために!」
 ジュリエットは剣を構えて、関根義孝の体が入っている黒い殻に突進した。
 黒い殻は厚く丈夫にできているが、衝突のショックで生命維持のラインが損傷する可能性があり、そうなれば操者は助からない。しかし、軍事用マリオネットの突進を生身の人間が止められるはずもない。三人はただ、突進するジュリエットをスローモーションのビデオでも見るように眺めていた。
 そこに一つの金色の影が飛び込んできた。金色の影は黒い殻を守るようにジュリエットの前に立ちはだかると、ジュリエットは突如、突進をやめた。
「ロミオ様……」
 金色の短い髪をした美青年、ロミオが両手を広げて大の字になって立ちふさがっていた。ジュリエットの剣は切っ先が服に触れるか触れないところで止まっている。おそらく、剣で刺されてもロミオは身体で突進を止めるつもりだったのだろう。
「ロミオ様……」
 もう一度、ジュリエットはつぶやいた。そのつぶやきは悲しみに満ちて、彼を非難する香りが漂っていた。
「ジュリエット。この中にあるのは、ジュリエットの心だよ。僕の愛したジュリエットは、その美しい手と足、顔と腕。それだけだと思っていたのかい?」
 ロミオはジュリエットに歩み寄り、剣を握る手にそっと手を重ねる。ジュリエットは魔法が解けたように剣を床の落とし、騒がしい金属音が部屋に響いた。
「僕が愛したジュリエットは、一番愛したジュリエットはその魂の美しさだよ。それを消し去ろうとするのかい? 僕からジュリエットを奪おうとするのかい? そんなことをしたら、僕は毒をあおって死ななければいけなくなる。罪なジュリエット。僕まで殺してしまうのかい?」
「ロミオ様!」
 ジュリエットは彼の名を呼び、それ以上は言葉もなく、抱きついて、ただ泣きじゃくっていた。
「さあ、おやすみ。信じていれば、また会えるよ。決してあきらめずに、生きていれば」
 ロミオはジュリエットを抱き上げると調整用のベッドに寝かした。
「ああ、おやすみ、ロミオ様。もう、会えることもないかもしれないけど、私は信じて待っています。だから、どうか私を忘れないで」
「ああ、忘れないよ、ジュリエット」
「ロミオ様……おやすみのキスをしてくださらない。そして、さよならのキスを」
 ジュリエットは駄々っ子のようにキスをせがむと、ロミオは優しく彼女のおでこにキスをして、ゆっくりと唇を重ねた。
「ありがとう、ロミオ様。もう一つお願いがあるの。私の心がこの身体と離れるのはご覧にならないで。きっとあなたは幻滅してしまうわ。だからお願い」
「幻滅なんてしないよ。でも、わかったよ、ジュリエット。君が望むなら。おやすみ、僕の聖者様」
 ロミオは再び彼女にキスするとジュリエットからカードを受け取り、丸山に手渡すと調整室から出て行った。
 ロミオが扉を閉じる音が響くと、丸山はカードを差し込んで、認証を終了した。
「じゃあ、ジュリエット。リンクを切るよ」
 ジュリエットは何も言わずに目を閉じたままうなずくと、その目尻から一筋の涙が流れた。
 丸山はリンクを切断するコードを打ち込んだ。
「CROS――チャンネル・リモコン・オペレーティングシステム。リンク切断プログラム始動します――脈拍、血圧、血中酸素濃度……異常値。許容範囲外。手動切断しますか? パスワードを……認証しました。接続モード解除します。終了プログラム始動します。よろしいですか?」
「ユーザー名、関根義孝で承認。“ジュリエット”停止」
「……生体情報再確認しました。関根義孝様。ジュリエット停止します。5、4、3、2、1……」
 リンクが切断され、関根は暗闇に沈んだ。

 実害はなかったが、マリオネットを破壊しかけたことや、プロデューサーの小島に暴行を働いたことで関根は契約破棄された。本来ならギャラも支払われないところだが、舞台監督の石山と演出の細川が彼をかばってくれたおかげで、かなり減額されたが支払われることになった。
「勘違いしないでくれ。無茶させた責任を感じてのことだ。正直、君とはこれから組みたくはない。いい演技をしても役に飲まれるような役者は役者といわない」
 細川は関根に荷物をまとめてすぐに出て行くように冷たく言うと、顔も見たくないと調整室を後にした。
「残念だが、俺も同感だ。おしいな。俺たちはお前さんを結構、買っていたんだぞ。今回も無理を言ってお前を主役に抜擢したんだ。残念だよ」
 石山も眉をしかめて細川の後を追った。
「本当を言うと、殺してやりたい気分だよ。二度と面を見せるな。僕の純情を馬鹿にしやがって」
 丸山は彼の方を見ようともせず、怒りをあらわにして机を殴った。そして、彼を無視するように“ジュリエット”の修理を始めた。
「すいませんでした。ありがとうございました」
 関根は頭を下げて劇場を後にした。
 すっかりと夜も更けて、観客たちもとっくの昔に家路について、公園は閑散としている。
 出演者や裏方のほとんどは、偶然出会ったことにして、実質上の打ち上げに行ってしまっているので、劇場の周辺は物悲しさしか漂っていなかった。
 関根は半分以上魂が抜けたようになって駅に向かおうとした。
「関根さん」
 不意に声をかけられて、振り返るとここ数日、妙に縁のあるショートカットの女性が立っていた。
「ああ、志穂さん……」
「随分と気のないご挨拶ね。せっかく待っていてあげたのに」
 関根のそばまで志穂は歩み寄ると頬を膨らませた。彼はその愛らしさに思わず笑顔をもらした。彼女の表情を見ていると、なぜかさっきまでの騒ぎと自分の落胆がまるで劇中のことであるかのように思える。
 志穂には空気を一瞬に変える才能がある。役者になったら大成するかもしれない。関根はこんな時も演劇のことを考えてしまう自分に苦笑した。
「でも、とっても綺麗だったわよ、ジュリエット。ほんと、恋しちゃいそうだったわ」
 志穂は思い出すように空中に視線を移すと、胸の前に手を組んで悩ましく息を吐いた。
「ありがとう。でも、君は席にはいなかったみたいだけど?」
 彼のあげた席には外国人の男女が座っていた。それを見たときはがっかりしたが、券を無駄にしなかっただけでも感謝していた。
「あ、ちゃんとチェックしてたんだ。なに? 私をナンパする気だったの?」
 いやらしいと言いたげに含み笑いをされて、関根は両手を振って否定した。
「違うよ。これでも僕は役者だよ。観客席はちゃんと見ているよ。自分のあげた席なら特にね」
 そう言い訳しながらも、志穂自身があの朝食の時に逆ナンパしたことはノーカウントなんだなと関根は女の子の基準がやはりわからないと改めて実感した。ジュリエットを演じている時は判ったつもりでいたのに……。
「どうかしたの?」
 言い訳しながら急に暗く落ち込んだ表情を見せた関根に志穂は怪訝な顔をした。
「いや、なんでもないよ」
「そう? でも、ごめんなさいね。観にいきたかったけど、どうしても仕事があって、行けなかったから」
 志穂が申し訳なさそうに謝ったので、彼は首を振った。
「いいよ。無駄にならなかっただけでも御の字だよ。また今度――」
 そう言いかけて、はたと気が付いた。もしかしなくても、これが最後の舞台になるかもしれない。今回の件は狭い業界に広まるのは時間など要らないだろう。
 そう思うと、関根は急に喪失感で心が消えてしまいそうになった。
「なにかあったの?」
「いや、なんでもないよ。こっちのことさ」
 志穂に声をかけられ、関根はなんとか、正気を保っている自分に正直驚いた。
「ふーん、それならいいけど。でも、ジュリエットが輝いてたのは本当の話よ」
 志穂は関根の気持ちを知ってか知らずにか、ジュリエットを賞賛した。
「テレビを見たの? 朝のニュースの……。そういえば、どうして僕がジュリエットだって知っているんだい?」
 関根はふと志穂が秘密である役のことをなぜ知っているのか。よく思い起こすと、これまでも彼女は彼がジュリエットであることを知っていたとしか思えない台詞を口にしていることに気がついた。
「ふふ、どうしてだと思う、関根さん?」
 志穂はやっと気がついたかと言いたげに含み笑いを浮かべた。
「劇場の関係者?」
 公表はされていないが、関根ほどの経歴があれば知られていることもある。
「ハズレ」
「その手のマニア」
 インターネットなどでマニアが予想していることもある。実際、初日が終わって言い当てられているサイトがいくつかあった。しかし、公演前に正解していた。
「そうかも知れないけど、ハズレ」
「僕のストーカー」
 最もありえないが、残るのはこれぐらいだと思った。
「大ハズレ」
 彼女は腕を交差させて、大きくバッテンして見せた。そして、それも外れたとなっては、残っているのは最悪の項目だけであり、関根は頭を抱えたくなった。
「……出演者?」
 同じ劇の出演者にチケットを渡すなんて、いくら顔を知らないとはいえ、恥ずかしいことこの上ない。
「ピンポーン♪」
 志穂は腕で大きく丸を作って、明るく正解のチャイムを鳴らした。
「って、誰だ? モンタギュー夫人? いや、あれは違う。キャピュレット夫人? それも違う。……正体不明といえば、召使役?」
 関根は出演者を思い浮かべた。主役、準主役級はほとんど予想がついていた。わからないのは端役の若手ぐらいである。
「失礼ね。あんなくされ大根に思われるなんて」
 志穂は眉をひそめて、真剣に嫌そうな表情をした。
「ごめん」
 関根は素直に謝った。確かに召使役の一人は大根であった。棒立ちで台詞を言ったり、台詞の間が悪かったり、そのくせ無理に目立とうとしており、正直なところ出演者たちから邪魔にされていた。
 比較的、演技力不足の役者に寛大な関根もあまりのひどさに嫌味を言ったぐらいであった。
「あの召使は村上信二よ。予想以上の大根で細川さんも苦労したようね。そのくせ、役が小さいって文句を言うんだから困ったやつよね」
 志穂は腰に手を当てて鼻息を荒くした。関根はロミオが村上信二と思っていたので、驚きに口をぽかんと開けたまま間抜けな顔をさらしていた。
「どうかしたの?」
 呆けている関根に志穂は怪訝な顔をした。
「じゃあ、ロミオ様は? いったい誰なんだ?」
「はぁ〜。やっぱりね」
 志穂は外人がよくするように肩をすくめてため息を吐きながら首を左右に振った。
「どういうことだ?」
 関根が状況についてこれないのを見て、志穂はコンクリートの腰壁の上から飛び降りて関根のところまで歩み寄った。そして、関根の前にひざまずくと、少し芝居がかったふうに目を閉じ、片手を胸に当て、もう片手を彼に伸ばした。
「――僕はそんな君をずっと見ていた。無力な何もできない小娘なんかじゃない。愛する人のためにロレンス神父の仮死の薬さえ飲み干すほど強い。僕は知っている。一人で立てない? みんながいるじゃないか。さあ、君はジュリエット。僕の愛する史上最強のジュリエットなんだ」
 すっかり夜の更けた公園に朗々と彼女の『台詞』が満たされていく。
 志穂は台詞を言い終わると片目を開けて意地悪く笑った。
「その台詞は……」
 足首を痛めたときにロミオがジュリエットに言った台詞である。この台詞を知っているのは、ジュリエットである彼とロミオを演じていた人間だけ。
 なによりも、その――言葉も内容も言い方もキザなくせに気に障るいやらしさのない自然な仕草はロミオ以外に不可能であった。
「信じていないのかい? 信じていればきっと会えると約束したじゃないか。それとも、キスをするまで思い出せないのかい? 忘れんぼうのジュリエット」
 志穂は立ち上がると、少し爪先立ちになりながら関根にキスをした。姿形は違っても、それはロミオのキスであった。
 唇が離れ、関根は少しよろめきかけた。
「どうして……ロミオ様がこんなところにいらっしゃるの? どうして?」
 姿形が違っても、目の前の志穂がロミオなら今の関根はジュリエットであった。オカマ言葉で気持ち悪いどころか、彼の声はジュリエットの華やかな、そして危うげで繊細なそれであった。
「本当に忘れっぽい、私が愛したジュリエット」
 志穂はロミオのまま苦笑を漏らした。
「私はジュリエット、君の魂の美しさに惚れたと言ったはずだよ。だから、私も魂だけとなって君に会いに来た」
 関根は志穂の告白に息を呑むだけで何も言えなかった。志穂はおもむろに、ロミオを演じるのをやめ、素の彼女に戻って、ぺろりと舌を出した。
「恥ずかしい話、私もジュリエットに恋をしちゃったのよ」
 志穂は照れ隠しに苦笑いしたが、その目はふざけても、いい加減でもない真剣なまなざしであった。
「役者として失格だけどね。でも、惚れちゃうぐらいあなたの演技は心に響いたわ」
 志穂の告白に関根は首を振った。あれは演技ではない。あれを演技といってはいけない。
「でも、感動させたのは確かよ」
「ありがとう。そういってもらえると少しは救いがあるよ。最後の舞台となりそうだけどね」
「最後?」
 志穂の意外そうな顔に関根は苦笑で返した。
「あんな騒ぎを起こしてはもう仕事はもらえないよ。劇団の座長からもさっきクビって電話があったからね」
 覚悟はしていたが、まさか劇場を出る前に電話があるとは思わなかった。座長とは古い役者友達であったので、迷惑かかる前に辞めるつもりだったが、そんな心配は杞憂だったようだ。
「まあ、役者一筋でやってきたが、アルバイト経験も豊富だし、別の職も苦にはならないと思うよ」
 志穂を安心させるというよりも、関根自身が安心しようとするように今後の方針を口にした。
「ふーん。だけど、舞台の、あの快感を忘れられるの?」
「忘れられる? 忘れられるわけないじゃないか!」
 関根は志穂の言葉に思わず声を荒げた。
「忘れられているのなら栄養失調で倒れる寸前までなりながら役者を続けたりしない。ああ、そうだよ。他の仕事を探しながらでも、きっと、どこかで役者を続けられないか無様にあがくよ。悪いか? 僕は演劇、役を演じるのが好きなんだ。くそっ」
 八つ当たりをしているのはわかったが、関根は自分の言葉を止められずに胸の中にあった澱を吐き出した。
「悪くないわよ。大歓迎。ということで、ねえ、私のいる劇団にこない?」
 志穂は関根の反応に満足とばかり笑顔満面であった。そして、その唐突な誘いに関根は変な表情のまま固まった。
「変な顔で固まらないでよ。それで、来るの? それとも、断る?」
「いや、その……劇団? 君のいる?」
 関根は志穂の言葉が正確に理解するまでまだ時間がかかりそうだったので、思わず彼女の言葉を聞き返した。
「そうよ。私がいちゃ嫌?」
 冗談めかして志穂は笑った。その笑顔はどこか、悪戯する時のロミオに似ていた。
「いや、そうじゃなくて……」
「あ、そっか。お給料の心配ね。最高とはいえないけど、そこそこは出せるわよ。少なくても役者以外の仕事しなくても生活できて貯金もできるぐらいには。詳しいことはマネージャーと相談しないとだめと思うけど、それぐらいは保障するわよ」
「いや、そうじゃなくて……」
 役者で貯金できるなど一流半以上の待遇に内心驚いていたが、関根の聞きたいことは他にあり、同じ言葉を繰り返した。
「役の心配? それは実力次第よ。そんなに甘くはないんだから。もっとも、あなたなら大丈夫よ。私についてこれるんですもの」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、何よ!」
 志穂の忍耐が限界に達して、いらだたしげに逆に聞かれた。
「僕は役に呑まれるような危ない役者だよ。また、あんなことをするかもしれないよ。それでもいいのかい?」
 関根は自分自身のマリオネット操者としての危険性を他の誰よりも感じていた。しかし、志穂は明朗に笑って、明快に答えた。
「なんだ、そんなこと。たまにはあってもいいんじゃない? そういうのも」
 関根の心配が「そんなこと」扱いされて驚いていたが、志穂がまったく気にせずにいるので、彼も本当に「そんなこと」のように思えてきていた。
「――というわけで、そろそろ、答えを聞かせてくれないかな?」
 志穂の性急な回答を求める言葉に関根は少し困惑した。
「考える時間はないんだ」
 関根の言葉に志穂は少し不安そうに顔を曇らせた。
 しかし、それはここまで志穂に振り回されたことへの仕返しで、すでに関根の答えは決まっていた。
 大きく深呼吸をすると目をつむり、月光のスポットライトを感じた。
「行きますわ――愛するロミオ様がいるのなら、どこだってついて行きますわ。死の国だってついて行ったじゃありませんか。お忘れになったの? だったら、思い出して。私はあなたのジュリエットだということを」
 ジュリエットは、先ほどのロミオがした意趣返しをして、にっこりと微笑んだ。
「おおっ。それでこそ、愛する僕のジュリエット。さあ、本物たちはたどり着けなかった二人の新天地へ。二人揃えば、そこが最高の舞台だ」
 二人は抱き合って、熱い抱擁をかわした。
「ところで、その前に一つ条件があるんだけど?」
 抱擁をひとまず離れて関根は志穂に聞いた。
「注文多すぎるわね。言ってみて」
 志穂は苦笑を浮かべて、関根に聞き返した。
「名前を教えてくれないか?」
「名前? 私の? それとも、劇団の?」
 志穂はいたずらっぽく笑った。
「あ、それじゃあ、先ずは君のフルネームを教えてくださらない、ロミオ様」
「それを聞けば、両方わかるわよ。同じだもの」
「同じ?」
「ソフィア・志穂・カーネル。カーネル劇団オーナーの娘にして、看板マリオネット男優よ」
 関根はその答えにしばらく目を丸くした。そして、もう一度、志穂を抱きしめた。
「ああ、やっぱり、あなたは最高よ。ロミオ様!」

終劇














あとがき
 お読みいただき、ありがとうございました。
 まず最初に、この話を読んでジェイムズ・ティプトリーJr.著の『愛はさだめ、さだめは死 』に収められている『接続された女』を思い出された方も多いでしょう。はい、設定が非常に似ております。元ネタにさせていただきました。
 さて、この作品はキーワードを出してもらってTS作品を書くというのをすることになり書いたものです。
 そのお題は『チャンネルリモコン』。
 チャンネルというのは『経路』という意味で、リモコンは『遠隔操作』。ということで、身体を遠隔操作する経路というもので書いてみました。
 それにしても、TS萌えはほとんどない作品で申し訳ないです。たまには萌えなしも良いということでご勘弁ください。
 あと、演劇もまったくの素人で、ほとんど想像で書きました。舞台なども見に行ったのはほとんどないし。というわけで、おかしな部分が多々あると思います。「実際はこうですよ」など、詳しい方は教えてくださるとうれしいです。

 ちなみに『ロミオとジュリエット』は、フランコ・ゼフィレッリ監督、映画『ロミオとジュリエット』(1968年制作)を参考にさせてもらいました。古い映画ですが、雰囲気があっていい映画です。もっとも、一番、目を引いたのはジュリエット役のオリビア・ハッセーがかわいかったことですが。
 それと、劇中劇の台詞は『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)を参考にさせていただきました。
 台詞が文字通り、芝居がかっているのですが、妙に癖になります。雰囲気をできるだけ壊さずに現代語訳されて読みやすいと思えます。興味のある方にはお勧めです(個人的には、映画などを観てからあらすじを把握してから読まれるとわかりやすいです)。
 余談ですが、シェークスピアの時代は女優が存在せず、女役も歌舞伎のように男性がしたそうです。シェークスピアの作品には、「男装の女性が、その女性に片思いの男性の、告白の練習相手として、告白される女性役をする」という頭が混乱しそうな話があり、その男装の女性を男の人がするのだから、すごい話を考えたものだと……さすがシェークスピア?



改訂版あとがき
 改訂版を書いた理由は、新人賞に応募するために増量するためでした。
 最後のロミオの登場が少々唐突な感じもあったので、それをどうにかしたいのと、主人公の心の揺れをもっと表現したいという気持ちもあり、加筆にかかりました。
 正直なところ、私の書き方は書いたものを削っていくタイプなので、加筆には向かないタイプというのを痛感しました。しかも、この作品は自分の中でも「まとまった」部類に入る作品だけに苦労しました。そのわりには、前述の補強があまりされなかったように思え、今後の課題を感じたものでした。
 普通は、改訂版に差し替えということになりますが、面白いかなと思い、両方載せておくことにしました。

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